千條静せんじょうしずかは焦っていた。

 仲間からの呼びだしだと思って指定された場所へ向かうと、いきなり魔法での攻撃を受けたのである。彼はすぐさま逃走に移ったが、敵の追撃は続いていた。おまけに、その正体は不明である。

 千條は魔法委員会の〝執行者〟だった。

 世界における魔法の存在を統轄するのが、魔法委員会の役目である。完全世界の失われたこの世界において、魔法の使用はその均衡を著しく危険に曝す。その力は、正しく制御されなければならない。

 執行者は、そのための処置を実際に行う人間たちのことだった。魔法に関わる案件の調査、監視、処理が、その主な任務である。彼らには調査対象に関しての生殺与奪の権限さえ認められている。

 そのため、本来なら彼らに対抗しようとする人間など存在しないはずだった。

 はずだった、が――

(くそっ……!)

 千條は路地裏を走りながら、道の分岐に差しかかるたびに〝幻〟を出現させた。自分と同じ姿をしたそれを、別の方向へと走らせる。古典的な表現を借りるなら、それはいわゆる〝分身の術〟というやつだった。見ためには、完全に区別はつかない。ただし魔法の揺らぎでは判別可能なので、自身にも一部に幻を重ねていた。

 彼の魔法〈精霊工房メルヘン・ビジョン〉は、〝好きな幻を作りだすことができる〟というものだった。幻像には動きをつけることも可能だったし、視認範囲でならリアルタイムでのコントロールを行うこともできる。ただしそうでない場合は、幻は数分で消滅してしまう。呼びだしの待ち伏せを回避したのも、この魔法によるものだった。

 角を曲がるときに壁や障害物といった幻像も作りだしてみるが、追跡者を振りきれた様子はなかった。多少の距離はあったが、糸でもたぐりよせるような正確さであとをつけてくる。

 時刻は真夜中で、街に人気はない。月の光はひどく無関心そうに空の上にあった。暗闇は迷惑そうに足音をやりすごすだけである。

 逃走は不可能と判断して、千條はやがて覚悟を決めた。こうなった以上、相手を迎え撃つしかない。場合によっては相手の無力化――つまり、殺傷ということもありえた。

 もう営業の終了したらしいアミューズメント施設の、立体駐車場へと足を入れる。三階部分まで階段をのぼると、明かりこそつけられていたが、駐車されている車はほとんどない。千條はすばやく幻の車をいくつか作りだすと、そのうちの一つに身を隠した。外周の付近で、そこからなら駐車場の全体を見渡すことができる。

 執行者として、千條は魔法以外にも様々な訓練を受けていた。ピアノの消音ペダルでも踏むみたいに呼吸を整えると、腰に装着したヒップホルスターからH&K・USPを抜きだす。下手な魔術具を利用するよりは、こちらのほうがよほど実用的だった。

(さあ、来るならこい……)

 千條は心音さえ低くなるように、息を殺している。今までの様子からして、おそらく相手はこの近くまではやって来ているだろう。

 駐車場の電灯が、軽く音を立てて明滅した。飛んでいた蛾が、何かの拍子に地面へと落ちる。暗闇がいっそう深くなっていく気配があった。まるで、海の底へと世界が沈んでいくみたいに。

「……?」

 と、不意に千條は奇妙なことに気がついた。

 自分が隠れている幻の、その一部に不自然な歪みが生じている。水面に釣り糸をたらしたときの、ごく小さな波紋に似たものがそこにはあった。その場所で空気の屈折率がわずかに変化している、という感じである。

 特に考えることもなく、千條はその歪みに手をのばした。

 触れても、何の感触もない。指を離しても、状態は同じである。床にできた光の点に指を置いても、何の変化もないのと同じで。

 けれど――

 そこには、かすかな魔法の揺らぎがあった。

「――!」

 気づいて、千條が立ちあがったときにはもう遅い。

 彼の背後で、鉄柵の上に足を降ろすかすかな音が聞こえた。追跡者はどういう方法を使ってか、階段も使わずに直接その場所に飛んできたらしい。

 もちろん、千條の潜伏位置を正確に把握して。

 そう――

 千條が気づき、そして不用意にも触れてしまったかすかな空間の歪み。

 それは、やはり古典的な表現を借りるなら〝鳴子〟と呼ぶべきものだった、追跡者は魔法を使って微細な糸状の振動波をはりめぐらし、触れたものの位置を検出していたのである。

 だが、千條静がそこまでのことを理解したかどうかはわからない。

 何故なら背後を振り向いた瞬間、胸に当てられた誰かの手によって、その心臓の鼓動は永遠に停止させられていたからである。まるで、ストップウォッチのタイマーを止めるみたいに。

 彼が最後に理解できたのは、自分を殺したその相手が子供みたいな姿をしている、ということだけだった。

 天使みたいに、ひどく無邪気な顔をした子供の姿を――

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