BAD BOY

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BAD BOY


 どんっ、と。

 道場隅の和太鼓が一発、腹の底を震わせた。

 向かい合った六組の防具姿が各々絶叫し、一瞬間を空けて踏み鳴らされた足音が板張りの床を揺らす。

 パンッ! パパパン!

 竹刀の打ち合わされる乾いた音が、埃っぽい空気の中でこだまする。

 楡崎にれざきは太鼓の横で行儀悪くあぐらをかいて防具姿たちがあっちこっちするのを眺めていた。たった今太鼓を打ち鳴らしたバチをくるくると弄ぶ。床におろした腰から伝わる振動は、白髪が六割を越え始めたその頭のてっぺんまで小刻みに揺らしていた。

 ドンッ。ドドドン。

 不規則に打ち鳴らされる踏み込みの音。床の砂粒があわせて跳ねている。

「せあっ!!」

 気合いの声とともに飛び込んだ橋本の小柄な姿が、剣を降り下ろすより前に突き飛ばされて尻餅をつく。相手をする梶目かじめが胴胸に両手突きを食らわせたのだ。

 もちろんそんなところを突いても有効ではない。突き損ねたわけでもない。早い話が叱られたのである。

『バカタレ! なにが「せあっ」だ!』

 言いはしないが、そんな声が梶目のいらいらと震える背中から聞こえる。楡崎はくくっ、という笑いをかみ殺した。そんな格好付けた声を出しては生真面目で厳しい梶目には怒られて当然だろう。

 しかし無理もない。橋本は今年剣道を始めたばかりだ。初心者は思いきった声を出すのをどうしてもためらう。

「ィィィィイイエアアアアアアッ!!!」

 起きあがった橋本と向き合った梶目が、手本を見せるように絶叫する。びくりと竦んだ橋本の面を、梶目の剣が景気のいい音を立てて撃ち抜いた。


 稽古が終わり、着替えも済ませた部員たちがぺこりと頭を下げて出ていく。出口に立った楡崎はひらひらと手を振って見送った。野球部やらサッカー部の声が飛び交うグラウンドに比べ剣道場の中には、夏の夕の生ぬるい空気をかき回す、換気扇の音だけが取り残されている。頬を撫ぜた風がくすぐったくて、ひげ面を人差し指でぽりぽりと掻いた。

 道場の真ん中を振り返る。そこには、道着も防具も身につけたままの五人の姿。垂れに走る白い刺繍が、影の差した道場内にその名前を浮き上がらせている。吉見、磯貝、森本、弓削ゆげ、橋本。

 楡崎は、すっかり皺の増えた顔をにやりと歪ませる。

「ようし、遊ぶぞ。悪ガキども」


 ○


 M県立K高校剣道部では、二人の教師が教鞭ならぬ教剣を振るっている。

 その一人である桐岡辰彦きりおかたつひこは、ため息をついて眉間を押さえた。

 本日の部活には仕事の関係で顔を出せなかったが、鍵を閉めがてら少し素振りでもしていこうかと立ち寄った剣道場。そこに悩みの種が群がっていたのだ。

 神聖な道場の真ん中に立つその男は、ジャージの上に防具というとんでもない格好で、周りに数人の防具姿の生徒を転がしていた。

「おー、終わりかァ? てめえら俺の三分の一も歳喰ってねえくせに、情けねえ」

 くっくっく、と、面金の向こうからくぐもった笑いを漏らす。周りの生徒たちは防具の上からでもわかるほど疲労困憊の様子だ。

「そりゃねっスよ、センセーと違って俺らは部活終わりなんスから」

 そのうちのひとりが寝転んだまま手を挙げて弱々しく抗議する。

「よーし、よく言った磯貝、てめーもう一本相手しろや」

 担いだ竹刀を肩の面布団にたんたんと打ち付けながら、ジャージ防具が啖呵を切る。もう一つため息をついて、桐岡は道場に足を踏み入れた。

「楡崎先生」

 低く厳粛な声に、床に転がった部員たちはびくりと身を竦ませ、一斉に道場の入り口を振り返った。

 その中心に立つジャージ防具が一人だけ、慌てる様子もなく目を遣る。

「おう、桐岡センセイ。今日は来ねえんじゃなかったのか?」

「そのつもりでしたが……ったく、まだこんな事を」

 呆れ返って、いつの間にか道場の隅で正座して並んだ部員たちをじろりと見やった。

 楡崎はだらしなくあぐらをかいて面と籠手を外す。

「いいじゃねえか、部活の方はちゃんと終わらせたわけだし」

 面の下から出てきたのはいつも通りの不敵なニヤニヤ顔だ。自分と同じでもう初老と呼ぶにも遅いような歳だというのに、未だにガキ大将のような笑みを顔に張り付けている。

「……その部活が終わった後の道場の使用は許可されてないわけですが」

「そう硬えこと言うなや。居残り練習みたいなもんだ」

「よく言う……」

 また眉間を指で押さえて苦いため息をついた。それから部員たちの方に目をやる。

「……もう鍵を閉める。君たちももう帰りたまえ」

 楡崎は「だとよ。終わりにするぜ」と肩を竦めた。


 ○


 楡崎規善きよしの『遊び場』が始まったのは、一年ほど前のことになる。

 忙しくてなかなか道場に顔を出せない桐岡の穴埋めにと、校長が気を利かせて同じく剣道の経験がある楡崎をあてがったのだ。その日も、桐岡は道場に来ていなかった。

「一切役に立たねえが面白い剣をやりたい奴は部活の後残れ」

 桐岡の生真面目な剣を習っていた部員たちは開口一番のその台詞に面食らった。

 部活中楡崎は着替えもせず防具も付けず、道場隅に座って練習を見ていた。合図の太鼓を鳴らしたり、時たま竹刀の握り方や足さばきについて一言二言アドバイスするのみで、あとは練習をじっと見ているだけだった。

「いつもの練習に関しちゃ、俺が桐岡センセイに付け加えて言うことはねえからな」

 そう言って結局、その日の部活が終わるまで楡崎は道場隅からほとんど動かなかった。

 磯貝が楡崎の言葉に従って部活の後残ったのは、純粋な興味からだった。自分たちはいつも気だるげに現国を教えている楡崎しか知らなかったので、普段見ている桐岡に比べて、この二人目の腕前も見ておきたかったのだ。

 桐岡に似て真面目な部長の梶目を初めとして半数以上の部員は帰ってしまったが、自分のほかに三人ほど残っていた。

 二人はいつもつるんでいる森本と吉見。もう一人は、数少ない女子部員の一人である弓削だ。余り馴染みのない奴だが面の向こうで何を考えているのかは見えなかった。

「まあまあ残ったな」

 部活中ずっと道場隅にいた楡崎が立ち上がって、防具を引っ張りだしてくると、ジャージの上にそのまま着け始めたときにはそろって仰天した。桐岡の前でそんなことをすれば、まず雷が落ちることは間違いない。

 しかし、磯貝たちを本当に驚愕させたのは次の台詞だった。

 楡崎は部員たちを、自分を囲むように並ばせ竹刀を肩口に担ぐように構えた。驚くことに試合ではまず見ない八相の構えだ。

 そして、言った。

「よーしてめえら、全員で打ち込んでこい」

 面金の向こうで、ニヤリと不敵に笑うのが見えた気がした。


 楡崎の『遊び場』は、桐岡の下で学ぶ部活とはまるで異質な時間だった。一対多で打ち合ったり、試合ではまるで使わないような構えを大まじめに練習したり、面打ちなしで代わりに袈裟けさ逆袈裟さかげさを有効部位に加えた試合など、思いつく限りにやりたいことをやる、というような場だった。

 そんな型破りな遊び方に加え、磯貝が一番驚いたのは楡崎のその強さだ。現国を教える定年前の小柄なじいさんでしかなかった楡崎に、数人で打ちかかって撫で斬りにされ、すっかり舌を巻いてしまった。

 磯貝たちはそれから、毎度部活の後に集まっては、楡崎の教える『遊び』に没頭した。

 吉見は楡崎に教わって八相の構えに凝っていたし、森本はいつか先生の竹刀を巻き上げてやると意気込んでいた。

 弓削と普段の部活で剣を交えることはほとんどなかったが、『遊び場』で相手にした彼女は意外にも滅法強く、楡崎の教える剣を吸収しては生き生きと遊び回っていた。

 もちろんここで教わったことは試合では何一つ役に立たなかったし、真面目に剣道をやっているほかの部員にはいい目では見られなかったが、『遊び場』はもう、二つ目の部活とさえ言えるようになっていた。

 翌年新しく入った橋本を誘って、『遊び場』は五人に落ち着いた。

「妙な癖がついて試合に影響が出たら困る」と、たびたび桐岡は苦言を呈していたが、楡崎はどこ吹く風と言った様子。桐岡も半ば諦め気味で、ため息混じりに「ほどほどにしておくように」と自分たちをたしなめた。

 部活では厳しく正しい剣を、『遊び場』ではカッコよく面白い剣をと、『剣道』は二人の教師の間で二つの顔を見せてくれた。

 だがそれと同時に、飄々と遊びの剣を振るう楡崎に対し、思うところもあった。

 ――――このじいさんは一体、何者なんだ?


 ○


「考え事か?」

 ぐいと手元の竹刀に重さがかかる。 

 はっとして目の前に意識を戻すと同時、ぎゅるりと鍔元にひっかけられるようにして、握りの甘くなっていた磯貝の竹刀が手元から離れ、放り上げられる。

 半ば放心気味に手元を見ているその正面を、乾いた音を立てて楡崎の剣がひっぱたいた。

 桐岡に苦言を言われてから、一週間ほど経った『遊び場』でのこと。

 その日も思いつく限りに遊び、試合ではほぼ決まらない巻き技を大まじめに練習していた。

 その帰り際、磯貝の背中に「おい」と声がかかった。

 振り向けば防具を外してジャージ姿に戻った楡崎が、ちょいちょいと指先で招いている。

 吉見と森本には先に帰っているように伝え、楡崎一人残った剣道場へと戻る。

「なんスか?」

「おまえさんの剣よ、親父に教わったのか?」

「え? ええ、まあ」

 磯貝は元々、父に教えられて剣道を始めた。磯貝自身取り立てて熱心というわけでもなかったし、父もプロの教士ではなかったので、本格的に始めたのは中学の部活ということになるが。

 ついでに言えば、楡崎をここにあてがったのは父である。磯貝の父はこのK高の現職の校長だ。

「それがどうかしたんスか?」

「あ、いや。それにしてはどうも……ってな」

 なにがそれにしてはなのかさっぱりわからないが、楡崎は一人で考え込んだ後、短くため息をついた。

「ちっ、あの野郎、俺に押しつけやがったな」

「え?」

「こっちの話だ」

 楡崎は独りで勝手に納得すると、「もう帰っていいぞ」と言う。釈然としない気分だが、楡崎はもう荷物をまとめに引っ込んでしまった。

「なんスかね、一体」

 磯貝は頭を掻いてひとりごちると、先に行った友人たちを追いかけることにした。

 

 ○


 四角く区切られた試合場の中で蹲踞そんきょし、相手と向き合う一瞬、周りの音がすうっと離れていく気がする。

 当たり前だが、竹刀二本分と少しの間離れれば、面金の向こうの相手の表情など見えはしない。

 しかし、その隙間から爛々と光る目が、向き合う自分を射抜いているのが見えた。

 弓削は、慌てずゆったりと息をつく。

 眼光を受け止めてしまえば視野は狭くなる。相手の目から視線を引きはがし、その姿を含めた景色を見るようにして、視界を広くとった。

 肩をぐっと引き上げ、息を吐くとともにがくりと落とす。

 合図で立ち上がる。きゅっと息を止めて、意識の中から自分と剣以外のすべてを追い出した。

「始めッ」

 号令とともに、余計な力を抜いた体に、一気に気力を充実させる。

「ィヤアァァァッ!!!」

 猛禽のような鋭い声がノドを伝って飛び出した。

「やッ!!」

 一瞬動き遅れた相手の竹刀をバチンと叩いて動き出しを潰し、間髪入れずにノドに突き込む。床を踏み鳴らした足の裏がビリビリと痺れた。

 決まらなかったが、相手は突き入れられた剣先を振り払おうと、後退しながら身を捩った。竹刀で払おうとして腕が斜め上に上がる。

 ここだ。

「てェイヤッ!!」

 突き込んだ竹刀を身体ごと引きながら、浮き上がった右小手を断ち割るように打つ。

 打たれた相手がほんの一瞬硬直する。

 入った。

 そう直感的に思うのと、白い旗が揚がるのが視界の端に映ったのはほぼ同時だった。

 一本だ。

 ふっと小さく息を吐いて、また鋭く吸う。中央で改めて向かい合う。

 号令とともに、また互いに絶叫を上げて気合いを込めた。

「やあぁぁッ!」

 動きだそうとする切っ先を軽く横にはじいて、少し遠目の間合いを取った。

 じりじりと、小刻みに揺れる切っ先がこちらの隙を血眼で探している。しかし含まれた怒気には、迫力とともに若干の焦りが混じり込んでいた。

 こちらは正眼でぴったりと喉元に剣を向けたまま、竹刀が触れ合うか触れ合わないかのぎりぎりの距離を保つ。あえて相手の切っ先の揺れは無視した。

 相手が痺れを切らし始めたあたりで、切っ先をかすかに浮かしながらぐっと一歩、踏み込む素振りを見せる。

「ヤッ!!」

 動き出しを警戒して、出鼻をねらった相手の小手打ちが不完全に鍔のあたりを叩く。

 性急にそのまま面に繋げようと振りかぶったところへ、正中線ぴったりに剣先を差し込んだ。

 一瞬遅れて振りおろされる面打ちの側面を、先に添えた弓削の竹刀がじゃりっとすり上げる。

「しゃァッ!!」

 空気の弾けるような音。斜めに軌道のそれた隙間から、鋭いひと振りが真っ正面を打ち抜いた。

 視界の外で、ばさっと旗の揚がる音を聞いた。

「……ふーッ」

 礼を済ませ、唇の隙間から長く息を吐くと、防具の隙間から張りつめていた気がぷしゅーと抜けていくようだった。

 それが抜けていくとともに、周りの世界が音を取り戻す。響く拍手に、少しだけ、口許が緩んだ。

 コートを出、退場する直前、観客席に座る一人の老人と目が合う。腕組みをした偏屈そうなじいさん、副顧問の楡崎だ。

(ま、見えやしないだろうけど)

 弓削は面の下でニッと笑ってみせた。


 ○


 地区大会の女子個人戦決勝を見届けた楡崎は、苦笑いを面に浮かべた。

 もちろん教え子が優勝したことが嬉しくないわけではないが、出場した弓削とは、ある賭けをしていたのだ。

「センセ、勝ってきましたよ?」

 表彰も終わってジャージ姿に戻った弓削が、観客席に残った楡崎の元へ帰ってくる。

「おー、おめでとうこんちくしょう」

「いひひ」

 悪戯っぽく笑う一つ結びを後ろから掴んで軽く引っ張ってやると、「いでっ」と小さく悲鳴を上げた。

「弓削」

 先に戻ってきていた男子たちの群の中から、梶目が歩み寄ってくる。手に提げたビニール袋からスポーツドリンクを取り出し、弓削に差し出した。

「お疲れ様、それとおめでとう」

「さんきゅ。梶目も惜しかったじゃん」

 梶目は苦い顔をする。男子は団体では二回戦、梶目個人では準決勝で敗退していた。いずれも優勝候補と当たってしまった結果ではあるが、桐岡に似て真面目な彼のこと、そんな言い訳はおくびにも出さなかった。

「いや……俺も未熟だな」

 眉をしかめて、ニコリともせずそんなことを言う。楡崎はそれを横目で見て、相変わらずカタブツだなと苦笑いを浮かべた。

「うっし、桐岡センセイもそろそろ戻る。片づけ」

 楡崎の号令を受けて、部員たちは疲れきった体をのろのろ動かし始める。磯貝が座ったままウトウトしていた橋本の頭をひっぱたいて起こした。

 少ない女子たちはばたばたと急いで制汗剤を吹き付けている。その中から弓削がこちらを振り向き、ニヤッと笑うと寄ってきて、小さく囁いた。

「じゃ、明日の『遊び場』の後で」

 楡崎はボリボリと頭を掻き、複雑な気分でため息を一つついた。


 ○


「これとこれと……これっ」

「おいこら、加減しやがれ」

 場末の定食屋というのは、独特の雰囲気がある。油の匂いが染み着いた壁紙や、薄汚れたテーブルなど、自分を店に馴染ませてくれる要素として好ましいものに思えた。

 そんなわけでここで飯を食うときは基本的に上機嫌な楡崎だが、目の前で教え子が自分の金で好き勝手頼んでいるとあれば少しばかり胃が痛くなる。

「あー、やめときゃよかったかね……」

 財布の中身を思い出し、桐岡のように眉間を押さえる。

 この場は、地区の個人戦にて優勝を飾った弓削に対する報酬である。

 もし優勝できたら飯を奢る、との勝負をして、彼女はそれに見事勝ったわけだ。発破をかけるつもりだったのだが、どうも少し効きすぎたらしい。

「しかしまあ、いいスリ上げ面だったな。よくうまいこと崩せたもんだ」

「ふふん、いつも桐岡センセの頑固な剣受けてるんで。あの人ほんっと正中線譲りませんから」

 桐岡の剣はまさに性格が現れた剣だ。下手な崩し方では、仕掛けた側が逆に崩されてしまう。

 少しすると、弓削が頼んだ焼き鳥丼が運ばれてきた。

「ん、ずいぶんと色気のねえモン食うな」

「色気は食えないので」

 およそ女子とは思えない発言とともにがっつき始める。軽く閉口しているうちに、楡崎の頼んだほっけの開きと熱燗も並んだ。

「あーっ、生徒連れてるのに呑むんですか? 倫理的にどーなんですかね」

「倫理は呑めねえからな」

 軽口を叩き返すと、湯気を上げるそれをちびりと含む。

「ふーん……あ、そうだ」

 もぐもぐと口を動かしていた弓削が、思い出したように顔を上げた。飯粒が頬についている。

「前から聞こうと思ってたんですよ」

「あん?」

「センセのその剣って、どうやって出来たんですか?」

 ほっけの身をほじる手をぴたりと止める。

「どうやって出来た、ねえ」

 箸を置いて、楡崎は顎に手をやった。

「センセの剣って、ぶっちゃけ真っ当じゃないじゃないですか」

「ずけずけと言うな」

「剣道の先生ってマジメとかガンコとかってイメージ強いし、センセはどういう風に剣道をやってたのかなって」

 すぐには答えず、楡崎は持ったままを冷めかけていた酒を一息に飲み干した。

「剣道なんざやってねえよ」

「え?」

「俺は今も昔も剣道なんてやってたつもりはねえ。俺のはそうだな……言っちまやァ撃剣だ」

「ゲキケン?」

 楡崎はひょいひょいと箸先で宙に字を書いてみせる。

「撃剣ってのァ剣道の古い言い方だ。別に意味に違いはねえが、俺の剣にとても『道』の字は使えねえや」

 申し訳なくてな、と言葉をついで、楡崎はほぐしたほっけの身をパクリと口に入れた。

「ま、教えるつもりはねえ」

「えー! なんでですかっ!?」

 頬を膨らませて詰め寄ってくる弓削の頭を押さえてひっぺがす。

「その『真っ当じゃない剣』の師匠として紹介されて、あのじじいが化けて出るとイヤなんでな」

 楡崎は、けけけと笑ってお猪口に酒を注ぐ。

「しかしまあ、ああいう師が必要な奴は、いつだっているっつー事だ」

 呟く楡崎の隣で、弓削は首を傾げた。


 ○


 ひゅんっ。

 差し込む西日に埃が舞う空気を、断ち割るように切っ先が走る。

 静かに、静かに。

 振り上げるとともに竹の刀身がかすかに軋む。

 道場の静謐な空気の中には、その軋みと規則的な踏み込みの音だけが響いていた。

 夏も半ばを過ぎ、最終下校時刻を過ぎた校舎は驚くほど静かだ。

 人がいなくなってがらんとした空間と、軋む竹刀の音の隙間を、ただひぐらしの声が埋めている。

「よう」

 その静けさを、無粋な声が破った。 

 桐岡は手をぴたりと止め、道場の入り口を振り返る。

「楡崎先生」

 相変わらずのジャージ姿、それに、白髪頭と皺の刻まれた顔に似合わぬニヤニヤ笑い。

 桐岡は彼を見るといつも、ガキ大将を老人の体に閉じ込めたようなアンバランスさを感じる。

「精が出るな。俺たちの部活後の使用には文句言っといてよう」

「……私は許可を取ってるんですよ」

 ため息混じりに応じると、楡崎はわざとらしいほどに顔をしかめる。

「あーあー、そのキモチワルイ喋り方はよせ。ここにゃ生徒もいなけりゃセンセイ方もいねーつーの」

 露骨に誘いをかけるようなその物言いに、桐岡はまた例のごとく眉間を抑えた。

「……楡崎」

「おう」

 半ば諦め気味に吐き出したその響きに、ガキ大将は満足げに応じる。

「……いつまであんなことやってるつもりなんだ」

「言うねぇ、あんなこととは」

 楡崎は大仰に肩をすくめた。

「遊びの剣を教えるのもいいが、そっぽを向かせていずれ後悔することになるのは生徒だぞ」

、ね」

 くくっ、と笑って、楡崎は軽く頭を掻く。

「なあ桐岡よう、師匠センセイは俺たちに、どれが正道でどこかかなんて教えなかったぜ」

「……!」

「俺の剣もお前の剣も、それぞれやりたいようにやらせてくれたのはあのじじいだろ」

「…………」

 二人の老教師の間に、数秒の静寂が流れる。

「剣道は確かに、心を修め自らと向き合うそりゃキビシイ武道だ。だがよう、そこに派手なカッコよさを求めるようなガキっぽい憧れを、全部間違いで片付けちまうのかい」

 桐岡は返さず、楡崎は続ける。

「お前が剣道であいつらを導いてる隣、それじゃ収まらねえところを俺が撃剣で拾ってやる。俺たちは二人とも器用じゃねえが、二人なら師匠の真似事くらい出来るだろ」

 楡崎は歩を進め、桐岡の脇を通り過ぎると、道場奥の鞄を拾い上げて担いだ。

「ま、校長の野郎もそのつもりで俺たちをここに置いたんだろうしな」

 そう言って、楡崎はまた入り口へ向かう。その後ろ姿を突くように、桐岡は声を上げた。

「だが行く道からの余所見には変わらない。それで彼らが後悔するとしても、そうすべきだと思うか」

 楡崎はドアに手をかけて、振り返る。

「俺たち老いぼれに出来るのは、なるべく多く可能性を用意してやることさ。ガキから後悔する権利を奪っちゃならねえよ」

 じゃあな。と軽く手を振って、楡崎は夕闇のグラウンドへ消えていった。

 道場に残されたのは、言葉を飲み込んだ静けさと、ひぐらしの声のみ。

 そしてしばらくしてから、竹刀の軋みが加わった。


 ○


 試合会場の空気は、コートの中で向かい合う選手たち以外でも、どこか張り詰めた感覚を覚えるものだ。

 見守る者たちも含めて『試合』の空気の中にあり、その一挙一動にもその緊張を破ることを躊躇う。

 今も楡崎の眼前、十一メートル四方のコートの中で二つの剣先が互いの隙を探り合っている。

  背に赤のマーカーをつけた防具姿の垂れには、白い刺繍で『磯貝』の字が縫い付けてある。

 双方とも簡単には動かない。ただその剣先の揺れに、両者の間に繰り広げられる読み合いと牽制の火花が見て取れた。

 ーー流石に老成してやがらあ。

 楡崎が顎に手をやると同時、場が動いた。

 赤が半歩程間合いを詰めるのに大して、白は多めに一歩分引いた。赤が続けて前進しようとするところに、白が弾かれたように飛び込む。

「てィッ!」

 鋭い小手打ち。が、決まらない。赤が飛び込みを察して前進を止めたのだ。剣は鍔元を叩いた。

 動きを止めず、上がった剣をそのまま振りかぶって面打ち。赤は上体を反らし、剣は面金に。

 白は更に追撃を振りかぶる。面打ちが頭を傾けた赤の右肩を叩くと同時、

「どァーッ!!」

 白の胴を赤の竹刀が横薙ぎに打ち抜いた。

 旗が上がった。今ので二本目だ。

「くくっ、年の功かね」

 礼を済ませ、退場した磯貝を廊下で迎える。

「よう、よく誘いをかわしたじゃねーの。校長センセー」

「おう、楡崎」

 面の下から響くしゃがれ声が旧友に応える。

「見とったか」

「磯貝、てめーの倅に師匠の剣を教える役を押し付けやがっただろ」

 じろりと睨みつける楡崎の視線に、磯貝校長は鷹揚に肩を揺らす。

「校長の私が率先して遊びの剣を教えるわけにはいかんだろう」

「ったく……おかげで桐岡の奴に釘を刺されたぞ」

「だがまあ、桐岡の剣だって師匠の剣だ。あれと同じ高さで遊びの剣を教えられるのはお前だろうよ」

「ちっ」

 舌打ちをひとつ添えて、手ぬぐいを巻いた頭に面を被る。

「オイオイ。こんなとこで、それも立ったまま面付けしてるのを他所の先生に見られたら、嫌味じゃすまんぞ」

「知ったことか。これからもっと大目玉を食らいに行くんだからよ。剣道着で来ただけで御の字だぜ」

 床に置いた籠手を拾い上げて嵌め、竹刀を左腰に提げる。

「じゃ、行っつくらあ」

 肩をすくめる磯貝校長を尻目に、楡崎は試合場に足を踏み入れた。

 八月十二日、M県教職員剣道大会。

 白のマーカーをつけた楡崎と向かい合う防具姿。カッチリと背筋を伸ばしたその垂れ縫い付けられた二文字は、『桐岡』。

 楡崎はちらりと客席を横目に見る。

 ―――あーあ。来んなっつったのによ。

 老眼知らずの目に映った姿は、梶目、弓削、磯貝、橋本。結局見に来ると言って聞かなかった連中だ。

 桐岡は余所見などせず、こちらを真っ直ぐに見据えている。

「ったく、ヤな巡り合わせだ。

 頭を掻く代わりに籠手を嵌めた手で頭を軽く叩く。

 合図が掛かって、礼をし、剣を抜いて歩み寄り、蹲踞する。

 面の向こうの視線に、ほんの一瞬目を合わせた。

 見えはしないだろうが口の端で笑う。

「始めッ」

 号令が掛かった。

 桐岡の正眼は糸で繋がれているかのごとくぴったりと突きつけられたが、同時に楡崎は、大きく半身ごと剣を引いた。

 試合場の空気が動揺に揺れる。

 脇構え。身体の影に剣を隠し、刀身の長さ、つまり間合いを相手に悟られないようにするための構えだ。

 当然竹刀の長さに規定がある試合では役に立たない構えだが――――

 ――――だってよう、カッコいいもんなあ。

 理由はそれだけで足りる。誰が鼻で笑おうが糾弾しようが、それが遊びの剣なのだ。

 桐岡の剣先がぴくりと僅かに震え、すぐに止まった。

 自分は自分の剣を振るだけ。その意思が聞こえた。

「くくっ、ようく見とけよガキ共」

 じり、じりと間合い詰める桐岡に、軽く体を揺らして応える。

 それは誘いだ。戦いとは全く関係のない、友人への誘い。

 さあ、遊ぼうぜ。

 夏の空気を裂いて、剣が走る。

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