A glass of water

枕木きのこ

一杯の水

「人はなぜ人を殺すのだと思う?」


 男は眼前の二つのグラスに視線を落としながら、ひとりごちるように言葉をこぼした。対面に位置しながら、かれこれ五分少々、一度も視線はかち合わない。私たちは友人でもなければ身内でもない。テーブルを囲むには、無関係過ぎるのだ。


 組んだ両手に口づけする格好で、男は目を閉じた。祈りを捧げていると捉えるのは好意的過ぎ、まして、場違いだ。

「そこに理由はあるのか。君の意見をぜひ聞きたい」

 言葉だけがこちらに向いた。しかし私は返事をしないまま、腿に乗せていた拳をぎゅっと握りしめ、ジワリと浮かぶ手汗の感触を弄んでる。


 沈黙だった。私たちのほかに、この部屋に人はいない。常に監視はされているものの、カメラが相槌を打ってくれるわけでもない。会話はそこで霧散し、男は諦めたのか、大仰に息を漏らした。


「あくまでも僕と話すつもりはないってことか。それもいい」長いまつげを湛えた瞼を緩慢に開くと、「じゃあ僕の持論を聞いてもらおうかな」

 男はそう言って、静かに手を解いた。私の視線はずっと、彼のその細い指先に向いたままだった。


「人は、意味も理由もなく、人を殺す。邪魔だから、嫌いだから、むかついたから。それらは意味でも理由でもなく、ただの感情に過ぎない。理由とはそんなちゃちな、流動的なものじゃ説明できないんだ。わかるかい? 邪魔なら、嫌いなら、むかついたなら、すぐに人を殺さなくてはならないのか? そうしたら人類はこんなにも繁栄しえない。意思がない。対策がない。そんなものを理由と称して人殺しを行う者は、ただの莫迦だよ。そうだろう? ではなぜ人は人を殺すのか。それは、本能なんだ。生存本能。殺す、という欲求を、人は常に孕んでいる。それを産んでやらなくては、腹が膨れてはち切れてしまう。だから外部へ放出する。セックスがしたい、というのと一緒なんだよ」


「あなたはそうだ、ということでしょうか」

 初めて出した声音は乾いていて、へばりついた喉は痛みを伴った。無様なそれを笑ったわけではあるまいが、男は口角を上げた。

「そうだ、ということだよ」

 それは切っ先の鋭い枝のように、向けられただけで身の震える言葉に思えた。


「ほかのことでは代えられないのでしょうか」

「もちろん。セックスは自慰で我慢できるかもしれない。でも殺人は、自傷では代えられない。行為そのものが、全くの別物だからね。動物を傷つけるなんて、もってのほかだ。彼らに罪はない」

「あなたが殺した人たちには、罪があった、ということですか」

「そうじゃない。そうじゃないが、人類の仕組みとして殺すという欲求が生まれてしまう以上、それは人類が内々に解決すべきことであって、犬や、猫や、鳥には関係がない」


「その理屈は、よくわかりません」

「どうして? 君は身内の尻拭いを、赤の他人にやってもらっていて、違和感を覚えたりしないかい?」

「時と場合によります」

 ひりついた喉を唾でごまかす。グラスに手を付けるには、まだ早い。まして、飲めばそこで終わってしまうかもしれないのだ。その瞬間には、まだ早い。

「じゃあ僕にとってはその、時も、場合も、適用されない、ということだ。やっぱり身内の尻拭いは身内がしないと。可笑しいことは言っていない。だろう?」

「かもしれません」


 会話を諦める。これ以上続けたところで、彼の考え方を理解できるとは思えなかった。

 相手にそうした自分の内側を、簡単に見破られてしまうのが私の悪いところである。何を考えているのか、どう思ったのか、すぐに相手に見られてしまう。男は少し眉を上げると、仰々しく肩を竦めて見せた。


「じゃあ君は? どうして?」

 怒気は微塵も感じなかったが、試されているようで、気分の悪くなる口調であった。

「人を殺すのか?」尋ねると、掌を向けて促される。「正直に言うと、考えたことがありません」

「これは驚いた。考えたことがない? 一度も?」

「ええ、一度も」

「それはまた」言いかけて、別の言葉を用意する間があった。「人間らしい」


 会話が瞬間的に消える。

 私は二つのグラスをじっと見つめながら、これからのことを考えていたのだが、彼はその視線に気が付いたのか、

「これから僕が君を殺してしまっても、じゃあ君は、当然怒りなんかはしないわけだね」

「ええ、もちろん。私があなたを殺すことは、ありえませんけれど」

「この状況ならまあ、そうかもしれないね」


 そう言って初めて、私たちは視線を合わせた。

 お互いの口元に、笑みを湛えながら。


 眼前の二つのグラスには水が入っている。私たちはこれから、これを飲む。


 ただし、そのうちの片方には致死量の毒が混ぜられている。どちらがそうなのか、男は知っている。もちろん、彼が入れたからだ。代わりに私は、好きなグラスを手にすることが出来る。それが平等、と認定されているらしい。


 毒は小瓶に入った状態で男に渡されていた。その中にあるすべてを水に溶かさなければ、致死量には足りない。だから二つのグラスに半分ずつ入れれば、どちらも、毒では死なない。代わりに待っているのは、銃殺か、殴殺あたりか。私たちは二人でこの部屋を出てはならない。そういう、ルールなのだ。


 最初に説明をくれた何某は、必ず一人は助かる、親切な状況なのだ、と無表情で付け加えていた。酔狂なことを考える人間が居たものだ、と私はこの話を聞く度に思っていた。


 実にシンプルだが、だからこそ難しい。相手の表情、声音、すべての機微を見逃してはならない。彼は、信用できるのか、否か。それを見極めるためだ。


 私たちは、ここに来たその瞬間から、社会的にはすでに死人といって相違ない。どちらが死ぬべきか、生きるべきかということは、すでに世の中とは離別した議論なのである。そしてお互いに、どちらが死んでも恨むこともないだろう。彼は快楽殺人者なのだから。


 胸中、常に思うことは、私には生きる価値があるのかどうか、の一点のみである。彼曰く、人を殺すことに理由はなく、それは生きているがゆえの衝動なのだ。彼は生きるべくして、感情とは切り離したところで殺人を行う。こんな男は、罰せられるべきなのか。果たして万人が内面にはそのような本能を抱えているとしたら、私も含め、誰が彼を罰せられるのだろうか。

 

 最初に人を殺したのは、確か十七かそこらの頃だった。理由はもう忘れてしまった。いちいち覚えておくには些末なことだったのだと思う。それに、どれがだれに対する感情だったのか、もはやないまぜになってしまって一つも判然としない。それは確かに、本能ゆえに、なのかもしれない。


 ただ、私はいずれの場合においても、殺したくて殺したわけではない。殺してしまっただけなのだ。


 少年院を出て、刑務所を出て、と繰り返しているうちに、私にとってそれはルーティンのような程度に落ちていき、苦もなければ、出た時の感慨もなくなっていった。仕方がないのだ。人は、麻痺していく生き物だから。鈍感になり、やがて何も感じなくなる。


 仕方が、ないのだ。

 そんな麻痺した人間が、こんな場所に落とされるのは。


 日本の死刑執行はあまりにも遅い。それはもちろん、様々な手続きが必要だったり、間違いがあってはならないからだが、そうしているうちにも死刑に値する犯罪はそこかしこで起こる。


 執行人の精神的負担が定期的に取りざたされたり、とにかく、難しい問題なのだ。

 死刑が確定している私が言うのも変な話ではあるが、だから誰かは思った、ということだろう。


 死刑囚と死刑囚を、殺し合わせればいい。


 もちろん、それぞれの得意分野、例えば刺殺をしたものに包丁を、殴殺をしたものに鈍器を渡すようなリスクは負わない。監視下に置いて、毒を飲ませる。脱走や共闘を試みるものは、有無を言わさず殺す。それも、銃火器を扱うことに長けていながら、実践に疎い者たちに。

 

 神は見ている、と言われる。

 だからこれは平等な執行なのだ、と。


「僕は三度目なんだ」

 思考に耽っていると、男が言った。ゆるく首を回し、椅子の深くに腰をずらす。

「そうなんですか」

「これまでの二人は、それはそれは、ひどく苦しんでいるようだった」

「それは、何にですか?」


 私の問いは、あるいは素っ頓狂に聞こえただろう。

 だが幸いにも男は、意図を汲んでくれた。答えをくれないまま、

「僕も苦しいんだ。解放されたい。こんな悪夢のような日々からは」

 全く、表情とリンクしない声音は、狭い部屋にはよく響く。


 たった一杯の水を飲むだけで、すべてが終わる。途端に私は、世界の、何か重要な賭け事でもしている気分に陥ったが、何も面白くなかった。


「右だ。右に毒が入っている」

 唐突に男は言った。

 ただ、どちらから見て、なのかも、手で指し示すことも、なかった。

「あなたは」だから私は尋ねた。「死にたいのですか?」

「或いはそれこそが、真に求めていることなのかもしれない」

 その胡乱な目は、どこを見ているのかわからない。

「わかりました」

 

 私は左側のグラスを取った。私から見て、である。

 きちんと彼の言った「右」がどちらであるかを確認してから。

 すなわち、毒のグラスである。


 世の中に悪人なんてものは存在しない。誰もがはずみで人を殺してしまい、本心からは嘆いている。きっと彼もそうだ。彼も苦しんでいる。そうに違いない。なら、殺してあげるのが善行だ。


 でも、その裁きを下すのは私ではない。

 もっと正式な、猶予をもって死んでもらったほうが、彼にとって、きっといい。

 だから私は彼の望むほうを飲む。毒が入っていたとしても。

「では」

「最初で最後の乾杯を」

 

 男の、張り付けたような笑みは、次第に崩れていった。泡を吹き、血を吐き、喉を掻きむしっているうちに絶命した。


 彼は本当に、私の飲んだ水に「毒」を入れていたのだろう、ということは予測できる。男は勝ちたかったし、勝てると思っていた。私を馬鹿だと思っていたに違いない。慢心していた。

 でも、私の無表情を見て、おかしいと感じた。

 事実、彼は頭が良すぎたのだろう。思考が循環し、答えに行き着く。

 自分の飲んだグラスに毒が入っていたのか。

 一体、いつ、どうやって。

 そんなことを考えているうちに、その思考がごとくスピードで身体中に毒が回った。


 全部無駄だ。



 部屋を出ると、何某は私の顔を見て、

「またお前が残ったのか」

 とつぶやいた。

「ええ。不思議ですよね。神に愛されているのでしょうか」

 私は本心からの疑問を口にしたが、何某はちっと舌を鳴らして、すぐに私の腕を縛った。


 毒がどちらのグラスに入っていたのか。

 どうやって入れ替わったのか。

 そんなことは愚問だ。


 彼らはリスクを負わない。ただそれだけの話なのだから。


 私たちの身体には遅発性の毒が入れられている。おそらく今朝の食事に入っていたのだろうと思う。だから我々の会合において渡されるのは毒などではなく、それを中和する、解毒剤。それを入れたグラスの水を飲めば、助かる。


 狡猾な人間から死んだほうが社会的にはいいことなのだから、策を巡らし、相手を貶めようとする人間が死ぬような仕組みになっている。


 ——と、そんなところだろうか。

 それが何遍も何遍も繰り返すうちに私が行き着いた答えだった。

 頭が良いと思われたが、三度目の彼にはまだ、そこまでの展開は考え付かなかったようだ。私も彼も素直であったがゆえに、彼は死んでいった。

 ただ、実際がどうかは、わからない。


 独房の前に連れてこられて、押し込められるように小突かれる。

 無表情の何某を眺めながら、

「いずれ私も死ぬ身ですから」

 つぶやくと、気味悪そうにして去っていった。


 間もなく、執行が近づいている。

 そのはずだ。

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