第2話 一回目のプロポーズ

 杉下大智はあまりの出来事に脳の機能を停止させた。これは、災害や事故などで恐怖体験をした人間に起こる防衛本能が作動したものだ。つまり、彼の目の前ではトラウマ級の事件が勃発中であった。

 目の前にいるのは、どう考えても井戸から這い上がってきたばかりの女の悪霊だった。ウェーブした長い髪が女の表情を隠して、見えないからこそ湧きあがる恐怖効果を演出していた。かすかに見える肌は病的なまでに白く、どうしてもホラー映画を想起させる。とんだチラリズムだ、こんなエロ要素の対極に位置するチラリズムがあっていいのだろうか、いや、ない。強調するために反語を繰り出すほどの禍々しさだ。これが計算された恐怖なら間違いなくホラー映画界で演出部門の賞を総なめにする。

「おかえりなさいませ」

 地の底から響くおかえりなさいませ。鬼がこっちへおいでと手招きしているようだ。

「ご飯になさいますか? お風呂になさいますか? それとも・・・」

 ゆっくりと頭をあげる彼女。足元からツタが伸びてきて、全身を絡めていくような錯覚に大智は陥った。

「私?」

 にいっ

 それが笑顔だということを理解するのに、数秒を要した。目の前の彼女の髪の隙間から、口元がわずかに覘いた。意外に綺麗な歯並びで白く輝いている。しかしなぜだろう、連想できるのは自分がそのアギトの餌食になっている絵面だ。これはもう、お前を喰ってやろうかという笑顔なのでしょうか。

「お嬢様、お嬢様」

 大智が完全に固まっているのをみて、紅葉が小声で主人に声をかける。

「作戦ミスではないかと思われますが。完全に固まってます」

「おかしいわね。男性が選ぶ理想の出迎え方ベスト3に入るシチュエーションのはずよ? これなら私でも効果ありだと思ったのだけれど」

「失礼ながらお嬢様、傍目から見ておりましても、あれは呪いのビデオから出てきた女の悪霊です」

 どうやら自分と同じ意見の人がいるんだ、良かった、と思う反面、ああ、これはやっぱり夢でも白昼夢でもないんだな、と大智は安心と不安を一緒に味わった。

「本当にあなたって失礼よね。そして否定できないのが悲しいところだわ」

 大智の目の前で少女は肩を落とした。

「あの・・・」

 ようやく、ようやく大智は口をはさむ勇気と覚悟と時間を得た。二人の視線が集中する。メイドさんの冷ややかな視線と、悪霊じみた雰囲気を持つ彼女の、髪の隙間から怪しくきらめく眼光に射竦められ、勇気も覚悟も一瞬でしぼんでいく。時間は残酷に流れ続けて、代わりに沈黙が流されてきた。

「いかがいたしましたか?」

 にたっ

 本人は優しく微笑んでいるつもりなのだろうが、メドゥーサに睨まれている気分だ。

 対して彼女は、喋りかけられて嬉しくて仕方ないらしい。犬であれば尻尾が千切れんばかりに振り回したことだろう。きっと彼女がどこかの国の大統領や国王なら、今日この日こそ記念日となったはずだ。

 そんな彼女に向けて大智がかけた初めての言葉は

「ど、どちら様ですか?」

「あ」


「失礼しました」

 再び彼女は三つ指ついて深々と頭を下げた。

「初めまして。弘原海月代わだつみつくよと申します。末永く、宜しくお願い致します」

「いやいや末永く宜しくとか訳わかりませんから」

 まず頭を上げてください、と言おうとしてとどまった。このまま頭を上げたらまたあの眼光に曝されるんじゃ・・・しかし女の子に頭を下げたままでいさせるってまずいよなあどうしようかなあと脳内でこの状況を打開するための方策を検索検討思案しているときに、検索網に気になることが引っ掛かった。彼女の名前だ。

「弘原海、ワダツミ?」

 首をひねる。ずいぶん聞き覚えのある、むしろその名前を聞かない日はないような。

「あの」

 思案中の大智に頭を上げながら月代が声をかけてきた。「な、何か?」と彼女から少しだけ視線をそらす。

「よろしいのですか? もうすぐバイトの時間ですが」

「バイト? あ」

 あわてて腕時計を見る。百均で買った安物のくせに丈夫で長持ちで重宝している。携帯すら持っていない大智が唯一持っているアクセサリーだ。・・・あれ?

「なんでバイトのこと知ってるんです? 僕たち、初めましてですよね?」

 彼女はいま間違いなく初めましてとあいさつした。ということは初対面のはずで、これまで接点がないということで、つまりは大智の個人情報を知ることはないはずだ。

「直にお会いして、こうしてご挨拶させて頂くのは初めてですが」

 月代は言う。さも当然のように。

「ですが、わたくしはこの以前より大智様を存じあげております」

 以前より存じ上げていることとバイトの時間を把握されていることがイコールとして結びつかないのだけど、と声を大にして問いたい大智であった。

「杉下大智。公立師走高校二年生」

 これまで黙って立っていた紅葉が、タブレット端末を取り出して、そこに表示されている文章を読み上げている。

「家族はなく、中学まで施設で育つ。奨学金制度を受け高校入学。同時、施設を出てこのおんぼろ、失礼、ルーブルハイツ喜多川にて一人暮らしを始める。交友関係も良好で、学業のほうは中の上、なかなかの努力家ですね。バイトと学業を両立させるのは並大抵のことではないでしょう」

「え、は、はい。成績落ちるとバイト辞めさせられるんですよ。それに、家では勉強くらいしか暇つぶしがありませんし。いや、そんなことはどうでも・・・」

「素晴らしい心がけかと思われます。お嬢様にも見習っていただきたいものですね」

 五月蠅いわね、と月代の非難も大智の疑問もどこ吹く風で紅葉は続ける。

「件のバイトは早朝五時から七時の新聞配達が週四、近所のスーパーで十六時から二十二時までのレジ打ち業務が週三日、喫茶店で十五時から二十三時までウェイター業務が週二日、土曜は九時から十八時まで倉庫での運搬作業、週六日働いて、日曜日に一週間の学業の予習復習。なんですかあなたは。二宮金次郎の生まれ変わりか何かですか?」

「そんな大げさなもんじゃ。いや、ですから。そんなことはどうでもいいです」

 ようやく会話の隙間を見つけ出した大智が勇気を振り絞って問いかける。

「なんでそんなことまで知ってるんですか。つかどうやってここに入ったんですか。あなたたちは何者なんですか」

 泣きそうになりながら大智は尋ねた。怒鳴りつけて追い出す、ということを大智はできない。

「なんで、と問われたのなら、答えましょう」

 月代が綺麗な所作で立ち上がった。見た目は怖いがさっきから見ている限り、彼女の仕草や挙動には気品が感じられる。お嬢様とメイドに言わしめているあたり、どこかの名家さんなのかもしれない。それであれば謎が一つ減って一つ増える。どうして名家の御嬢さんがこんなところに? という疑問だ。だが、月代の発言ですべての謎が氷解した。

「自分で言うのもなんなのですが、実はわたくし、ストーカーなんです」

「はい?」

 真相が明らかになって余計に謎が深まるということが、この世には稀に存在するのだなと大智は初めて知った。

「ストーカー?」

「はい」

「誰が?」

「わたくしです」

「誰の」

「もちろん、あなた様です」

 理性的で落ち着きのあるストーカーって新しいジャンルだなぁと感心する。ストーカーとは、自分がストーカーとは気づかない人種ではなかったか。

「え、冗談、だよね」

 ずいぶん時間がたってから、大智は聞き直した。

「冗談と、お思いですか?」

 ひどく楽しげに、月代は切り返した。

「では証拠をお見せしましょう。とりあえず昨日一日の大智様の行動をお話すればよろしいでしょうか?」

「え、え? えっ」

 戸惑う大智を全力で後方に置き去りにして、月代は背後から黒いノートを取り出した。あ、名前を書かれたら死ぬやつだ、と大智は友達に借りた漫画を思い出した。

「朝は四時四十五分に起床。眠るときは学校のジャージを使うのはいいのですが、いまだに中学校の時のものを使うのはいかがかなと思われます。ジャージの右の肘と左右の脛に穴が開いておりますし、尻の部分がだいぶ薄くなっています。ほつれも多いので破れるのは時間の問題かと。新聞配達はまず一丁目の中谷五郎氏のお宅から、反時計回りに巡りますね。五丁目まで全三百部を配達し終えて、戻ってきたのが六時五十三分。ジャージのまま着替えて朝食。この日はカフェでもらったチャーハン。大智様が働いてらっしゃるカフェはコーヒーよりもそういった軽食メニューのほうが充実してらっしゃるのですね。わたくしも頂きましたが大変おいしゅうございました。その後着替えて登校したのが七時半。二十分の通学路を経て学校に到着。職員室に行きシャワー室のカギを借りる。ここでシャワーを浴びて銭湯代を浮かしているんですね。カバンから取り出したのは三日分の洗濯物ですね。今時珍しい二層式洗濯機を朝練の野球部やサッカー部が戻る前にすべてを終え屋上の貯水タンクの横にこっそり作った物干し竿に干し、教室へ移動。授業は数学I、古典、英語、生物、体育、現国の順。昼休みのお弁当はスーパーの廃棄品の弁当とお茶。二日前の弁当は、今はいいですけど夏場はやめたほうがいいと思います。放課後は洗濯物を取り入れ帰宅。その後帰宅し、スーパーのレジ打ちですね。終了して戻ってきたのが二十二時二十五分。そこからもらってきた弁当とお茶で遅めの夕飯を取り、顔を洗って歯を磨いて就寝」

 すうぅっと、血の気が引いていくのがわかる。彼女が言ったことはすべて当たっていた。

「あ、そうそう、最近わたくしがハマっていることは、大智様の独り言傑作選です。大智様がつぶやいていることをわたくしなりに選ばせて頂いて、音声を編集して一日中聞き続けるというのがマイブームでして。もし昨日でナンバーワンを決めるとしたらゴミの分別作業中に呟いた『エコな取り組みって、地球にやさしいけど僕にやさしくないなあ』ですね」

 自分でもちょっとうまいこと言ったと思う独り言を他人に聞かれていた挙句一日回って目の前で聞かされるって何この羞恥プレイ・・・! と大智は戦慄した。

「他にも・・・」

「もう勘弁してください」

 まだ語ろうとした月代を大智は土下座して謝ることで止めた。やばい、あの黒いノートに書かれていることを読まれたら死ぬ。大智は直感した。

「つかなんでそんなこと知ってるんですか! その、そういうのって独り言だから小声で呟くくらいでしょ!」

「最近の盗聴器って、感度良いんですよ」

「しれっとえらいこと白状してらっしゃって!」

「ちなみにこの部屋にもいくつか仕掛けさせていただいております」

 ぞっとして、あたりを見渡す。パッと見は全然気づかない。何一つ変わっていないように見える。

「もし、よろしければ」

 紅葉がこれまたどこから取り出したのか。トランシーバーと警棒を合わせたようなものを取り出して大智に手渡した。

「探知機です。スイッチは取っ手にあるので」

 試しに、部屋の隅まで行って軽く振ってみた。

 ピィギュイィィィッ!

 次に自分の持っていた鞄に試す。

 ピィィィィギュイィィィッ!

 大智はそっと探知機を紅葉に返した。静かに跪く。

「い、命ばかりはお助けを・・・」

 頭を畳にこすり付けながら懇願した。

「お顔を上げてください。大智様にそのような恐怖と脂汗がにじみ出たお顔は似合いませんわ」

 誰のせいだと思ってるんですかと大智は内心憤るが、結局は内心だ。表に表出しないのであれば、読心術でもない限りばれることはない。

「その、それで弘原海さんは」

「月代」

「は?」

「ぜひ月代、とお呼びください」

 これまで女子と接することは少なかった大智に、いきなり名前を呼び捨て、というのはなかなかハードルが高い。しかし、相手はそう呼ばれることを心待ちにしているかのようだ。

「つ、月代、さんは・・・」

「呼び捨てで構いませんのに」

 非難も形だけのようで、その声色は明るい。

「月代さんは、どうして僕なんかをストーキングしてたんです?」

「斬新な質問をされますね。ストーカーにストーキングの理由をお尋ねになられるのですか?」

 斬新なストーカーのくせに何を言うんだと思わないでもないが、黙っていることにした。大智は気づいていた。この人に常識は通用しないのだ、と。

「簡単なことですよ。わたくしが、大智様。あなたをお慕い申し上げているからです」

「・・・・・・なんで?」

「なんで? これはまたまた、異なことをおっしゃる。人が人を好きになるのに、わざわざ理由が必要ですか?」

 間違ったことを月代は言っていない。人を好きになるのに理由があれば無い時もある。だけどどうして、こんなにも違和感が生じるのか大智は不思議でならなかった。

「ただ、そばで見つめるだけの生活に限界が来たのです。わたくしのあなたを思う気持ちが溢れ出し、体中に流れてきて、私の理性を剥ぎ取り、ついには行動に移してしまったのです。」

「見てるだけじゃ物足りなくなって、あなたに触れたい、話したい、添い遂げたい、子作りしたい、そうお嬢様はおっしゃっています」

 横から紅葉が注釈を入れてくれた。子作りて・・・と大智は思うが、月代を見る限りマジだな、と認識を改めた。

「つきましては、大智様にお願いがあります」

 居住まいを正して、月代は言った。

「結婚しませんか?」

 訳が分からない。もうとにかく訳が分からない。こんなときどうすればいいのかバイトリーダーの坂元さんは教えてくれなかった。クレームマニュアルに載せるべきだと進言すべきだろうか。突然結婚を申し込まれた時の対応法を。

「返答がない・・・つまり、異議なしを、沈黙をもって答えられたわけですね。嬉しいです」

 頬に手を当てて顔を赤らめる月代。

「お嬢様、ポジティブにとらえるにもほどがあります」

「でも、別段薬とかで判断力を奪っているわけじゃないし、拒絶しないってことは脈ありってことでしょう?」

「お嬢様。世の中の人々は、脳の臨界点を突破するとパソコンのようにフリーズしてしまうのです。皆が皆、お嬢様のようにハイスペックで厚かましくて打たれ強くて三歩進めば嫌なことをすべて忘れるような都合のいい頭をしているわけではないのです」

「褒めているのかけなしているのかよくわからない言葉どうもありがとう。今月の給料査定が楽しみね」

「お嬢様。それは私に宣戦布告ということですね」

 紅葉が両手を横に広げ、右足を折り曲げて左足だけで立つ、いわゆる鶴の構えを取った。

「やるのね、やる気なのね? 良いわよ受けて立つわ。エクレアの恨み、忘れたわけではないのよ」

 対する月代は長く息を吐き、指で鉤爪型をかたどった、象形拳のひとつ、蟷螂拳の構えを取った。いまや一触即発、些細な合図で六畳一間は地下格闘技場の無差別デスマッチのマットと化すだろう。

「っていやいやいやいや! 何してるんですか何を臨戦態勢を取ってるんですか!」

 はっと我に返った大智が正面を月代、背中側を紅葉に向けて間に割って入る。

「人の部屋で暴れないでください! どこかにぶつけて怪我でもしたらどうするんですか!」

 大地の悲痛な叫び、心からの願いを、月代はどう解釈したか感動したように手を合わせて喜んだ。

「嬉しい。わたくしの身を案じてくださるのですね。イコール、傷物にしたくない、綺麗な身のままでいたい、つまりは自分色に染めたいと、ヴァージンロードで会いたいと、そういうことなのですね」

 なんでそうなる、と大智は白目をむいた。すべての道がローマに通じるように、自分の言葉は彼女にとってプロポーズに集約されてしまうのか。彼女の言動が奇抜すぎて、もう外見の異様さが気にならなくなっている。

「そうと決まれば、さっそく両親に会っていただきましょう。ああ、何たる幸運。普段忙しいお父様が、今日はお帰りになるんですの!」

 なるんですのじゃないよ、と大智は泣きたかった。ちらと時計を見ると、もう完全に遅刻だった。坂元さんには後で謝ろう。

「杉下様。お嬢様がもうこの婚約やら結婚やらそういう寝言を前提にして話を進めていますので、私もその方向で話そうと思います」

 紅葉が大智に言う。見れば月代は妄想と空想の世界にでも行ってしまったようで、うふふふと不気味な声を出してトリップしている。もうどうだってよくなっていた大智は「どうぞ」とやけっぱち気味に言った。

「つい先ほど、私の方からアルバイト先へ、大智様が辞職されるという旨をお伝えしておきました」

「・・・・はい?」

 ぐるんと音が鳴りそうなほどの勢いで大智は紅葉の方を向いた。

「なんで、ですか?」

「理由、ですか。きちんと説明すると幾万の言葉を連ねても足りないでしょうが、簡潔に話すと一言です。あなたを見込んだのがお嬢様だからです」

 これ以上ない説得力のある言葉だ、と大智は立場や状況を忘れて「なるほど」と頷いてしまった。

「お嬢様は見ての通り頭と性格が少々残念なのですが、頭脳は明晰、行動力にも優れています。そんな残念ハイスペックなお嬢様は、これまであれが欲しいこれが欲しいなどの我儘をおっしゃったことがありません」

 はっ、と大智は気づく。親にとっては、扱いやすい子どもだったろうなと思いをはせる。彼女がお嬢様だということから察するに、普段家に両親はいないのだ。仕事だから。そんな懸命に働く両親の姿を見ていたら、我儘なんて言えなかったのだ。両親を自分の我儘で困らせるわけにはいかなかったのだ。一緒にご飯食べてほしいとか、寝る前に本を読んでほしいとか、子どもにとっては当たり前の権利が彼女にはなかったのだ。人のぬくもりに、愛に飢えているのだ。

「そうか、彼女の初めての我儘なんですね」

 しんみりと分かった風に頷く。

「何をおっしゃってるんです?」

 紅葉が不思議そうに首を傾げた。

「え? 違うんですか?」

「違います。それではお嬢様が今まで自分の望みを叶えてないみたいじゃないですか。逆です。お嬢様が我儘を言ったことがないのは、すべて自力で叶えてしまえるからです。言ったでしょう? お嬢様は残念だけどハイスペックなのです。そこに恋という名の劇薬が混ざるとどうなると思います?」

 とんでもないケミストリーが生まれそうな予感がする。

「お嬢様を止められるものが存在しなくなります。しかも弘原海家の権力と財力が後ろ盾にあるのです」

 弘原海、さっきも大智に引っ掛かりを覚えさせた言葉だ。二度の出会いによって大智の脳が刺激され、記憶を引っ張り出す。

「弘原海・・・その、紅葉さん」

「なんでしょう旦那様(予)」

 (予)って何だそれ、(仮)の親戚か何かか? と、どんどん追いつめられている自分の現状をしばし横に置いてといて

「弘原海、て、あの?」

「どのような想像をされているか知りませんが、おそらく合っています。その弘原海です」

「世界有数の財閥の? 毎年就職志望者百倍の、一度就職したら一生安泰間違いなし、不況もなんのその、そこだけバブル継続中の?」

「それですね」

 一般と比べてテレビなどからの情報がなく、世俗と離れている大智でも耳にしたことがあるはずだ。この世界の製品に弘原海の名が使われていないものはほとんどないと言っていい。原材料からブランドに至るまで全てを所有しているのだから当然と言える。

 そのお嬢さんが、跡取りが

「うふ、うふふふう。駄目ですわ。大智様。お戯れが過ぎますぅ」

 ここでよだれ垂らしながら悦に浸っているというのか。

 世の中、なんか間違ってる。大智は天を仰いだ。

「で、それが僕がバイトを辞めさせられていることと何か関係があるんですか? もうどうでもいいことになってきてますが」

 自分で言っている以上にすべての事柄がどうでもよくなってきた。バイト? いいさ。また探せばいいよ、そんな感じだ。質問に答えるべく紅葉が言葉を探す。

「たとえお嬢様があんなのであろうと、弘原海は弘原海、その影響力は計り知れません」

「さっきから思ってましたけど、紅葉さんてお嬢様に容赦ないよね?」

「これも愛です。こういう接し方もあるのです。それはともかく、その弘原海家の一人娘の婚約者となったあなたには、もれなく権力に群がる亡者たちから様々な接触を受けること間違いなしです。お嬢様に婿をあてがおうとした連中には命を狙われるでしょうし、次期当主の婿に取り入ろうとする連中からはハニートラップから脅迫まで飴と鞭を使い分けた勧誘がなされるでしょう」

 ネットニュース並みに人気急上昇だなあと他人事のように大智は思う。

「ゆえに、保護する、という意味合いも兼ねて、あなたにはこれから弘原海家内で生活してほしいのです」

「・・・・・・・なんと?」

「あなたに理解しやすく言い直しますと、住込みのバイトを提供します。業務内容はお嬢様のお世話他、お屋敷での雑務です。給与は月二十万、各種保険と三食家付き、このご時世、なかなかの好条件かと思われますが」

 条件は文句のつけようがない、どこの会社でものなかなか望めないものだろう。

「そうですね。むしろこちらからお願いしたいくらいなんですけど」

 ちらと大智は視線を向けた。紅葉も同じ方向を見つめる。

「ほらあなた、見てください、この子の目元はあなたそっくり。うふふ」

 唯一の問題である月代の脳内では、すでに子供が生まれていた。誰との子かは言うまでもない。

「正直あの方の相手を勤める自信がありません」

「そのご心配はごもっともです。長年勤めている私でさえ、たまに本気でやめようかな、と思うときがあります」

「なら、どうしてやめなかったんです?」

 疑惑のまなざしで大智がそう尋ねると紅葉は苦笑して

「それ以上に、お嬢様は魅力的なのですよ。マイナスをすべて打ち消すほど、プラスの要素がわんさかあるのです」

 とてもそうは見えないと、大智は首を傾げるばかりだ。

「今すぐ理解しろ、とは申しません。ただ少し、付き合って、あの方を知っていただきたいのです。ああ見えてあの方はとてもさみしがり屋なのです。もろく儚い存在なのです。できれば、あなたにはあの方の力になってほしいのですよ」

「なぜ、僕に? 弘原海家であれば、それこそ彼女の力になってくれる人間を探すことなんて造作もないことでしょう? 僕よりも賢く、僕よりも強く、僕よりも家柄も学歴も立派な、素晴らしい人間を」

「無理ですね。お嬢様は人見知りが激しいのです。たとえるならカーニバルダンサーの腰ふり、熱帯雨林のスコール、五打席連続三振の四番打者に送られる野次のように」

 激しいなあ、と大智は感慨深げに頷いた。

「そんなお嬢様が、学校の御学友ですら虫けら、路傍の石程度にしか思わないお嬢様がご家族や私たちのようなお仕えするもの以外で、しかも自分から興味を持ったのはあなたが初めてなのです」

 光栄なのかそうでないのか判別がつかない。

「それに、このままではお嬢様は社交性のかけらもない引きこもりになる可能性が大です。これは、旦那様、奥様、ひいては我々使用人一同も望んではおりません。失礼な言い方をさせていただければ、あなたで訓練させていただきたいのです。あなたを通して、他の人を知っていただければ、と」

 話を聞き終えた大智は顎に手をやり唸る。内心ひやひやしながら紅葉は返答を待つ。ややあってから「わかりました」と苦笑交じりの返答があった。

「不安があるのは確かですけど、僕でお役にたてるなら」

「そう言っていただけると私も・・・」

 言葉の途中で忽然と紅葉が消えた。何らかの衝突音が遅れて聞こえてきた。驚く暇もなく、大智は両手をギュッと包み込むように握りしめられた。

「本当でございますか大智様っ! ああ、やはり私たちは結ばれる運命であったのですね」

 彼の目の前には月代がいた。自身に都合のいい言葉が耳に入った途端、一瞬で妄想の世界から舞い戻り、一瞬で距離を詰めその場にいた邪魔な紅葉を跳ね飛ばし愛しい彼の手を取って包み込んだのだ。

「お嬢様この野郎・・・」

 剣呑な空気を漂わせながらゆらりと紅葉が立ち上がる。そんな様子に、当然月代が気づく訳もなく、両方を視界に収める大智が気づかないはずもなく。

 結局大智が部屋を後にしたのは二人が暴れ、疲れ果てて、倒れて、歩けるまで回復してからのことだった。

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