IF:波乱万丈なクリスマス

永らく更新が滞っており、すみませんm(_ _)m

なかなか時間が取れず重い腰が上がらないのですが、ふと子ネタを思いついたので、ゲリラ企画として投稿します。この話は前回投稿した「IF:真っ赤なクリスマス」から1年後のお話になります。

思いのほか長文になってしまい、急いで書き上げたので誤字脱字が多いかもしれませんがご容赦ください。

因みにこの物語は題名に『IF』が付いている通り本編とは全く関係ありません。なんなら人間関係図すらも無視しているかもです(汗)

それでは時間のある時にでもお読みください。


◇◇◇


 年末も差し迫り街にはイルミネーションが華やかに煌めいている。その中をコートの襟を立て風で捲れないように手で押さえながら足早に過ぎ去る人もいれば、二人で楽しく手を繋いでイルミネーションを眺めながらゆっくりと歩く人達もいる。

 手を繋いでいる二人は時折イルミネーションを指でさし、お互いに優しそうな笑みを向けあって一言二言言葉を交わしては、またイルミネーションに目を向けて楽しそうに歩いている。

 普段は街行くカップルなど気にも留めないのだが、この寒さのせいで少しばかり寂しさを感じているせいか、そんなカップルを見掛けるとつい目で追ってしまう。俺には関係ないことだと分かっているのだが…。それでも少しばかり暖かい気持ちになるから不思議だ。

 そんな中、俺の横を男性が腕時計を見ながら小走りに過ぎ去っていった。今の人は家族のもとへ急いで帰る途中なのだろうか? それとも彼女と待ち合わせをしている場所へ向かっているのだろうか? いずれにしても今の人にも幸せな時間が待っているのであればいいなと思う。


 俺はそんなことを考えながら人混みを避けるように歩を進めた。特段、イルミネーションを見るためでも、街行く人を見るためでもない。こんな俺にも街に足を向ける目的ぐらいはあるのだ。それも立派な。

 いつになくしっかりとした目的がある俺は周りの熱に負けぬように堂々と胸を張り目的地へ向かった。


 俺は目的地に到着すると何気に中を伺い見る。俺の目の前にある建物は1階の扉の横の壁もガラス張りになっていて中が綺麗に見通せる造りになっている。

 そのガラス張りの壁には雪の中を走るトナカイとトナカイが引くソリ、そのソリに乗ったサンタクロークスが白い塗料で描かれていた。クリスマスまでの数週間の間だけ描かれるその絵は、雪の結晶が描かれているにもかかわらず、その奥に見える中の雰囲気と合わさって何故だか暖かい気持ちにさせてくれる。考えた人は天才だな。


「こんにちは!」


 俺は外で眺めるのも程々に扉を潜って中に足を踏み入れた。

 俺の目の前にはガラスで覆われたショーケースの中に色とりどりの商品が綺麗に並べられている。その商品の一つ一つには鮮やかでかつ繊細な装飾が施されており、それらがガラスケースの中に並べられると、人によってはまるで温室の中に花が咲いている光景にさえ見るのではないかと思えるほどに見事な彩を放っている。店主の並々ならぬ想い入れを感じずにはいられない。


「あ、新見君、よく来てくれたわね。今年もよろしくお願いね」


 俺を出迎えてくれたのは、この店の店長の奥さんだ。

 店長と言ってもこの店は個人で経営している店なので本来オーナーと言った方が正しいのかもしれないが、店長が『オーナー』だと店を誰かに任せて自分は経営だけをしているように取られるのが嫌だという理由で従業員に店長と呼ばせている。

 まぁ、偏見だ。でも、その偏見が嫌らしい。

 実際問題、この店の商品は全て店長が丹精を込めて造っているし、時間があれば自らも売り場に立って客の反応を直接その目で確かめているので、拘りがあるのも納得できる。


「はい。よろしくお願いします」


 これからのこの店で俺のアルバイトが始まる。

 とはいっても、去年もこの時期にこの店でアルバイトをしていたのでさして緊張感はない。

 今、俺の目の前にいる店長の奥さんたるこの店の女将さんが去年の俺の実績を買って今年もアルバイトとして声を掛けてくれたのだ。


 この時期のアルバイトは多いようで意外とみつからない。特に時給が高く好条件だったりすると優先的に大学生が採用されるので高校生の俺は採用されにくかったりする。まぁ、採用する側も経験の豊富な者を採用する方が使い勝手も良く重宝するので当然の選択なので仕方ないのだが。それを考えると先方から声を掛けてもらえるのは本当にありがたいことで感謝しかない。


「新見君、今年も一緒だね」


 俺が女将さんと挨拶を交わしていると横から女の子が顔を覗かせた。去年俺と一緒にアルバイトをしていた南條だ。

 今年も一緒と言ってもなぁ…

 俺からすれば南條とは学校もクラスも同じなので目新しさもなければ今年も一緒だと言われても感慨めいたものは何もない。ただ、向こうからすればこういった場でもない限り俺と話すことはないので新鮮かもしないが、それでも今更って感じだろう。

 俺がそんな人情もへったくれもないことを考えながら南條の方に目を向けると、彼女は俺とは裏腹に嬉しそうに微笑んでいた。

 ま、いっか…、わざわざ話の腰を折るほどでもないしな。


「あぁ、今年もよろしく」


 彼女も去年の実績を買われて今年も声を掛けられたのだろう。それともどちらか一方だけに声を掛けるのが憚られて両方に声を掛けたのかもしれない。この店の店長夫妻は人情に厚いところがあるのでなんとも言えないが、二人して声を掛けられたのは俺にとっても幸いなことだと思う。休み明けに学校で顔を合わせた時になんとなく気まずい思いをしないで済むし、なにより気を使わなくてもよい相手なのが助かる。

 と、そんな挨拶から始まった俺のアルバイトだが、不安がないとは言い切れない。というのも去年はサンタ衣装改め真っ赤な特攻服を着せられて売り子をさせられたので、今年もあれをさせられるのではないかと思うと背筋に冷たいものが伝う気持ちも分かるといものだろう。


「今年も売り子をするんですか?」

「あ、今年はあれはなし」

「え?」


 俺がさり気なく確認をしてみると、意外な答えが返ってきた。

 いや、普通に考えれば意外でもなんでもないのだが、この女将さんは素であの衣装が普通にカッコイイと思っているので、この女将さんからこんな答えが返ってくるとは思っていなかったのだ。

 まぁ、その答えを聞いて若干一名、驚きとともに寂しそうな顔をしている者がいる。

 俺は目線だけを横に向けた。去年、南條はノリノリだったからな…。年を明けて南條がロングスカートで学校に登校するんじゃないかとヒヤヒヤしていたのが懐かしい。

 そんな彼女に向けてか女将さんが苦笑気味に「商店街の会長さんからクレームが来たのよ…」と呟いた。

 うん。まぁ、そうだよねぇ。商店街のど真ん中で堂々とあんな衣装を着た者達がいたら、そりゃまあ、商店街としても迷惑ですもんねぇ。会長さん、グッジョブです!


「そうですか、それじゃあ、今年は何をすればいいですか?」

「そうねぇ、…商品の陳列、店の掃除と…、お客さんの対応、あとは…、レジかな」


 女将さんは顎に手を当てて少し上を見ながらぽつりぽつりとやることを連ねていく。


「普通ですね」


 去年のこともあり、女将さんが悩みながらやることを探している様子を見て、少々身構えていたが、結果的にどの仕事も普通にどこの店でもやることばかりで肩透かしを食らった気分になる。


「さすが新見君、物分かりが早くて助かるわ」


 いや、物分かりが良いと言われても困るな~。それ考えないと出てこないような仕事じゃないよな~。ねぇ、普段どうしてるの? この店本当に大丈夫か?

 大丈夫なら去年のようなことは考えないだろうし、そう思うと大丈夫ではないのだろうが、そこを心配しても俺にはどうしようもないので、サクッと頭の中から消し去ることにする。


「それじゃあ早速で悪いんだけど今日から頼めるかしら?」

「分かりました」


 俺に異存はない。むしろ一日でも多く仕事ができることがありがたい。

 隣で南條も「分かりました」と返事している。


「じゃあ、奥の部屋で着替えてきて。奥の部屋に制服用意してあるから」


 女将さんのその言葉に俺は一瞬ビクッとしたが制服と聞いて安心する。

 どうにも特攻服のインパクトが強すぎてそちらに意識を持っていかれるが、制服とは去年真っ赤な特攻服を着せられるまで来ていた制服だろう。

 俺がそんな他愛もないことを考えながら奥の部屋に行こうとしたら、南條が何やら店の外に視線を向けていた。俺もつられて視線を向ける。

 そこには電信柱の影に隠れてこちらを見ている少女がいた。年は小学校中学年ぐらいだろうか? 顔は可愛いのだが残念なことに服装に興味がないのか、お世辞にもおしゃれとは言い難い。いや、興味がないのとは違うのか? むしろ、服のよれ具合からお気に入りの服を着倒しているのかのようにも見える。

 その少女は俺達と目が合うと、はっとしように一瞬体を強張らせ、その後逃げるように走り去ってしまった。

 俺と南條は顔を見合わせお互いに首を傾げる。あの少女はいったい何だったのだろう?

 俺達が不思議そうにしているとそれに気づいた女将さんが「どうしたの?」と聞いてきた。


「そこに小学3・4生ぐらいの女の子がいたんですけど、目が合ったら逃げて行っちゃって…」


 女将さんは南條の返答に苦い笑いを浮かべて、「あぁ…」と呟いた。その顔には後悔と悲し気な哀愁とが入り混じっているような気がした。

 女将さんはあの少女を知っているようだ。知っているというより女将さんの顔から察するともっと訳ありの何かがある気がする。一体、何があったんだろうか?

 しかし、女将さんはそれ以上何も語る気がないのか、少しばかり目を伏せて俺達に背を向けた。

 それはきっと俺達が知る必要もないことなのだろう。そう思った矢先、俺の頭に何かが閃いて窓の外に目を向ける。

 まさか、あの少女は去年着ていたあの真っ赤な特攻服を見に来たのではないだろうか? もしかして隠れファン?

 しかし、今年はあの衣装を着ることはない。そう考えると、女将さんの顔に哀愁が漂っていたのも、少女と目が合った途端逃げて行ったのにも頷ける。そう言えば少女の履いていたスカートの色も赤みがかっていた。


「新見君、どうしたの?」


 俺の不審な行動に南條が首を傾げている。

 俺は南條の顔を見て考える。そう言えば、南條はあの特攻服が気に入ってたんだよな。もし、その南條がこれを知ったらどうなるだろうか? 考えるまでもない。間違いなく女将さんと共闘を組んで商店街の会長さんのところへ突進する。

 俺としてはそれは避けたい。それだけは避けたい。

 だって、後ろ指刺さるのって誰でも嫌でしょ。例え少女の願いが込められていたとしても嫌なものは嫌なのだ。薄情者と言われてもそれだけは死守したい。


「いや、なんでもない」


 俺はそれだけ言うと、逃げるように奥の部屋に向かった。


◇◆◇


 それから数日、俺達は特に変わったこともなく普通の店員としてのアルバイトをこなしている。うん、普通って大事! 心も体も軽くなる。

 しかし、俺の平穏を知ってか知らでか、相変わらず店の外の電柱の陰には少女が佇んでいた。

 あの少女には申し訳ないが、我慢してもらうしかないだろう。一人の少女の希望で店や商店街に迷惑をかけることはできない。そう、決して俺のためではない。でもまぁ、心の中で少女には誤っておこう。ごめんなさい。

 だが、事情を知らないもう一人のアルバイトの女の子はそうではなかったらしい。南條は店の掃除をしている手を止めると、ばっと店の外に駆けだした。その動きは瞬きするよりも素早かった。

 俺は南條の行動に一瞬惚けてしまうが、南條が何をしようとしているのかを理解すると慌てて南條の後を追いかけた。マズい。南條に知られてはならない。そんな思いで南條の手を掴もうと手を伸ばすが、当然のことながら追いつけるはずもなかった。

 あぁ、これは終わったな…。

 俺が諦めの境地に至ろうとした瞬間、もっと素早く動く者がいた。電柱の陰に隠れていた少女は、南條が迫って来るのを見て瞬時に危険を悟ったのか、南條に捕まることなく、その横をするりと抜けると颯爽と逃げ去っていった。こちらを振り返ることもなく一目散に。

 危なかった…。

 南條はおっとりしているようで時折予想外に行動が素早かったりするのでこちらの肝が冷える。油断大敵とはこのことだ。

 俺が安心したのも束の間、南條の顔を見ると獲物を捕り逃がして悔しそうにしている姿が目に入る。この様子だと次もきっと捕まえようとするに違いない。これは何か対策が必要かな?


「どうしたの?」


 店の軒先で南條が地団駄を踏んで悔しがり、俺がそれを眺めて対策を思案していると、それに気づいた女将さんが店の中から出てきた。隣には珍しく店長もいる。


「いつも電柱の陰から見てる少女に逃げられちゃいました…」


 南條が悔しそうに答えると店長と女将さんは目尻を下げて悲しそうに商店街の出口の方に顔を向けた。その方向は少女が走り去った方向だ。

 店長と女将さんはしばらく寂しそうに無言でそちらを眺めていたが、一つ溜息をつくと覚悟を決めたような顔つきで南條の方に振り直り、…そしてまた視線をそらした。

 女将さんの顔には躊躇いの色が伺える。言うか言わざるか悩んでいるのだろうか? できれば今年は平穏に終わりたいのだが、南條の行動力を考えると話した方がいい気もする。俺も覚悟を決めるか…

 そんな女将さんを見かねて隣に立っていた店長が眉根に皺を寄せながら口を開いた。


「あの娘この家、今年の初めに父親が亡くなったんだよ」


 俺と南條は一瞬何を言われたのか分からず呆然とする。


「その上、あの娘のお母さんも病弱でね…、お父さんが亡くなるまでは、ことあるごとによくうちのケーキを買ってくれてたんだけど…」


 店長と女将さんの口から紡がれた言葉は予想だにしない衝撃的な内容だった。

 その言葉の意味が頭の中に染み込んでくると、先程まで考えていたことへの反省と合わせて揺り戻しの如く言葉にならない感情が押し寄せてきて、無意識に顔と体に力が入った。ギリっと奥歯が鳴り俺の拳は固く握られる。

 父親が亡くなり母親が病弱ということは、彼女はきっとケーキが買えないのだろう。

 おそらくあの少女が着ていた服はお気に入りでもなんでもなく、着るものが少なくて必然的に着倒していたに違いない。

 俺は店の中のショーケースに視線を向けてそこに並べられているケーキを見た。

 あぁ、そうか…、あの娘は父親との思い出を見ていたんだ…

 今年の初めに亡くなったということは去年のクリスマスは家族で楽しくケーキを食べたのかもしれない。ことあるごとに買っていたなら他の機会もあったかもしれない。それは俺の想像にしか過ぎない。ただ、はっきりと分かるのは、この店のケーキには彼女の大切な思い出が詰まっているとうことだけだ。

 もしかしたら今は父親の死は乗り越え、残された母親と一緒に食べたいのかもしれないし、単にケーキが食べたいだけかもしれない。それでも彼女の中に強く根付くものがあり毎日店の中を覗いていたのではないだろうか。


「なんとかあの娘にケーキを食べてもらえないかな…」


 南條は二人の話を聞いて俯き加減にぽつりと呟いた。捕まえようとしても逃げる相手にケーキを渡すのは難しい。そんな気持ちからの言葉のように感じられる。

 そんな南條に対して女将さんが首を左右に振る。店長も目を塞ぎ俯いた。


「前にあの娘に店の余り物だからってケーキをあげたことがあるのよ…」


 店長夫妻は情に厚い。そんな夫妻が毎日店の中を覗く少女を放っておくわけがない。それは店長夫妻が彼女の家庭の事情を知っていることからも伺える。


「でも、その後お母さんがあの娘を連れてうちに来てね。ケーキ代だと言ってお金を置いていったのよ…」


 それを聞いて南條の顔が一瞬で険しくなる。強く握った拳が震えていることから、おそらく南條は怒っている。親がそんなことをすれば少女は二度とケーキを受け取らなくなる。せっかく少女にケーキを渡したのにそれを親が拒否するなど南條には考えられないのだろう。

 でも、俺からすればそうじゃない。俺の家も父親が居ず、居るのは病弱の母親だけだ。だから俺にはその母親の気持ちが痛いほど良くわかる。

 病弱の母と娘二人が暮らしていくにはどれだけの苦労と我慢が必要となることか。小学生の彼女が働きだすまでには最低でもあと5・6年はかかる。その間、彼女は我慢をし続けなければならない。

 俺は物心ついた頃にはすでに父親がいなかった。だから我慢することが当然だと思って生きてこられた。それでも我慢するのはきつかった。周りが幸せなのを見なかったことにする。俺がそうやって耐えられたのは初めから父親の記憶とお金がなかったからだと思う。

 しかし、彼女にはその記憶がある。幸せな記憶があればあるほどその対極にある我慢は辛いものになる。ギャップがあるほど苦しいものになる。それでも彼女は我慢し続けなければならない。もしそこに他人から優しくされたとしたら、きっと彼女はそれに飛びつくだろう。そして人の優しさに触れ、その記憶を増やし、その代償として我慢をさらに辛いものへと変えていく。いくら店長夫妻の情が厚くとも彼女がこれから我慢することに比べたらその優しさをもってしても圧倒的に足りないのだ。それを割り切るには彼女は幼過ぎる。だから、彼女の母親はお金を持ってきた。自分一人ではなくその娘も伴って。他人の優しさに甘えることによって彼女の苦痛が広がらないように。


「南條さん、あまり怒らないであげてね。お母さんにも事情がるのよ…」


 女将さんは南條の表情と強く握り震えた拳を見ながら、そんな言葉を投げかけた。女将さんの表情には苦痛と悲しみの色が滲んでいる。まるで南條にかつての自分を見ているような、そんな気がした。

 おそらく話の流れから女将さんは返しに来たお金を受け取っている。その時に母親から事情を聞いいたのかもしれないし、そうじゃなくとも母親の行動を飲み込む程度には理解できる何かがあったのだろう。


「なら、試食品としてみんなに配るのはどうですか? それならあの娘にも食べてもらえるんじゃないですか…」


 女将さんの言葉を聞いても納得できない南條は、『なら…』と他の案を出してきた。なんとかあの少女にケーキを食べて欲しい気持ちが少々強めな語気にも表れている。

 しかし女将さんはその言葉にも首を振った。


「それも試してみたわ…」


 そう言った女将さんの顔は先程までとは比べ物にならないほど悲しみにまみれていた。店長は上を見上げ歯を食いしばっている。

 俺は二人の表情を見てなんとなく全てを察し店長夫妻から視線を外して地面を見た。たぶん知らない方が苦しまずに済むに違いない。知らずに過ごすことの方が幸せなことは五万とある。知っても何もできない。これもその一つだと容易に想像できた。

 だが納得できない者もいる。南條は不安な表情を浮かべながら店長夫妻を見ている。そんな者に応えるように女将さんは深く息を吸ってごくりと何かを飲み込むと続きを口にした。


◇◆◇


 その日、店長夫妻は朝から気合を入れてたくさんの試食品を準備したらしい。あの少女がいつ来るのか分からないため、少女が来る前に無くならないように充分な数を用意するために頑張ったようだ。そして店先に試供品を並べ、商店街の中を行き交う人達に配り、無料だということをアピールすることも忘れなかった。

 その上で少女に逃げられないように用心深くそっと陰から近づいたとのことだ。


「これ、どうぞ」


 女将さんは腰を屈めて少女の目線に自分の目線を合わせると、少女を安心されるように精一杯の笑顔を向けて、ケーキを手渡そうと差し出した。

 少女は突然現れた女将さんにびっくりして半歩ほど後ずさったが、目の前にいるのが女将さんだと理解すると、女将さんの顔とその手にあるケーキの箱を交互に見て、さらに時折店の方へと視線を彷徨わせた。


「これは無料で配ってる物だからもらってくれる?」


 女将さんは少女が受け取るのを躊躇っていると感じると、少女を少しでも安心させるように言葉を紡いだ。少女は逃げずに目の前に留まっている。前回の轍は踏まない。あと少し。あと少しでケーキを渡せる。この少女の笑顔が見られる。そんな思いを抱いて言葉を投げかけた。

 その思いが通じたのか、少女はしばし伏せていた顔を上げて女将さんの顔を見た後、徐に店の方を指さした。

 それに釣られて女将さんも店の方に顔を向ける。

 そこには試食品をもらった親子が「他のも買っていく?」と楽しそうに会話しながら店の中に入っていく姿があった。

 この時、少女がどんな顔をしていたのか思い出せない。ただ思い出せるのは少女が口にした言葉だけ。


「私、もらっても他のを買えないし…、お返しできないから…」


 そんなことは気にしなくてもいいと、少女の方を振り返ったが、少女の顔を見た途端その言葉は出てこなくなった。少女の頬には雫がこぼれていた気がする。それすらはっきりと思い出せない。

 そして、女将さんの顔を見て少女が最後に口にした言葉が…、


「ごめんなさい…」


 少女はそれだけを言うと、ケーキを受け取らずに女将さんの横をすり抜け走り去っていった。

 私はあの娘に何をした? 何をしてしまったの…?

 聞きたかったのは「ごめんなさい」などという言葉ではない。

 小さな子だと、幼い子だと思い込んでいた。侮っていた。店の中を覗く姿だけを見て判断していた。しかし、あの娘は自分が思うより遥かに賢い子だった。自分の立場を理解し、それでも気丈に生きようとしていた。今まさにもがき苦しんでいる最中だった。そんなことも知らずに、私はあの娘に取り返しのつかないことをしてしまったのだと気づかされた…

 先程まで少女がいた場所には、少女を追うこともできず、体を震わせながら少女の言葉に押しつぶされるように膝をつき地面に頭を擦り付ける女将さんの姿だけが残されていた。


「ごめんなさいは…、私の方よ…」


◇◆◇


 人に良かれと思えることはままある。されどそれが相手にとって良いものとは限らない。

 この時の少女はどんな思いをしただろうか。本当は喉から手が出るほどケーキを受け取りたかったかもしれない。女将さんの優しさが嬉しかったかもしれない。それは誰にも分からない。ただ少女がケーキを受け取らなかった事実だけがあり、それが様々な憶測を呼び、時に人を苦しめる。

 そしてその当事者が目の前にいる。その人の顔には悔やんでも悔やみきれないような苦しさが滲んでいた。南條もいつからか目を閉じて俯いている。

 俺は神を信じない。生まれ変わりも信じない。もし、神がいて生まれ変わりがあるとするなら、あの少女が前世で何をしたというのだ? これほどの仕打ちを受ける何かをしたとでも言うのか? 人からもらった優しさに応えられない自分を理解して誰を責めることなく我慢しようとする少女が一体前世で何をしたというのか? 俺には到底理解できない。

 それぞれに思いを抱き、それぞれが苦情を浮かべ、その場が暗く沈む中、南條が横目でちらりとこちらに視線を向けてきた。

 その眼にはそれでも諦めきれない思いが浮かんでいる。

 他に何か案はないか、そう言いたいのだろう。彼女の目が語っている。でも彼女は口には出さない。女将さんの話を聞いてこれ以上少女を苦しめたくはないという思いが言葉に出すことを躊躇わせているのか、あるいは南條が俺の家庭の事情を知っていて、俺なら何かを思いつくかもしれないと思っているのか。いずれにしても今この場で言葉に出すのを躊躇う気持ちだけは理解できる。


「学校の給食にでも出れば別だろうけど、無理だと思うぞ…」


 試食品でも駄目だったのだ。人の優しさが絡む以上、何をしてもあの少女を苦しめる。そんな思いから人の優しさが見えない方法を口にしてみたが、それも現実的ではない。

 俺は店の中のショーケースに顔を向ける。そこには陳列されたケーキの前に値札がかかっていて、いずれも400円前後の値段が書かれていた。

 南條も俺の視線の先を見て、俺が言いたいことを理解したのか再び悲しそうに俯いた。

 そんな時、店の中からお客さんに「すみません」と声を掛けられた。

 よく考えたら店の従業員は全員店先で話し込んでいて、店の中にはお客さん以外誰もいない。そのことに気づくと俺と南條は慌てて店に駆け込み、お客さんに頭を下げて、その後の接客対応に追われることになる。

 本来、一緒に入ってくるはずの店長がいないことにも気づかずに…


◇◆◇


 今日は朝から異常な眠気に襲われている。これから仕事だというのにあくびが出てくる。

 昨晩、布団に入ったのはいいが、店長夫妻から聞いた話が頭から離れず、結局朝方まで眠れなかったせいだ。

 俺は眠い目をこすりながら自転車を走らせた。寝不足で自転車もどうかと思うが、俺にはこれしか交通手段がないので仕方ない。幸いなのは今が冬で肌にあたる風が刺すように冷たいことだろうか。この寒さで幾分眠気がましになる。

 俺が店に着くと南條がすでに店にいて掃除を始めていた。

 今日は平日なので学校の授業が終わった後にこちらに向かったのだが、電車で移動した南條の方が早かったようだ。いつもなら自転車の俺の方が早く着くのだが、今日は眠気が酷かったため安全な道を優先して回り道をしたせいかもしれない。


「新見君、大丈夫?」

「南條こそ大丈夫か?」


 南條は俺が店に入ってきたことに気づくと開口一番そんなことを聞いてきた。学校では南條と話すことがないので、ここで聞いてきたのだろうが、俺から言わせると南條の顔色の方がよほど酷いように思える。人の心配をする前に自分の心配をしろと言いたくなる。

 女将さんはそんな俺達を見て苦笑を浮かべている。本当なら体調管理もできないのかと怒られても仕方ないのだが、女将さんに限ってそんなことを言うとは思えないし、むしろ俺達のことを心配して笑顔が苦いものになっている気がする。

 ちょうどそこへ店長が眠そうに奥の部屋から出てきた。この人も寝られなかった口だろう。


「ちょうど良かった。みんな揃ってるな」


 店長は俺達を見つけるとそう言って手に持っていた紙をテーブルの上に広げた。

 店を空にして奥の部屋に全員を集めるわけにはいかないので、わざわざこちらに持ってきたのだろう。

 俺と南條は何が書かれているのか気になってその紙を覗き込んだ。

 そこには『諸事情により12月21日(木)は臨時休業いたします』と書かれてある。

 俺と南條はその文字を読んで顔を見合わせた。まったく意味が分からない。南條も同じ気持ちなのか不思議そうに目を瞬いている。

 平日とはいえ21日といえばケーキ屋にとって書き入れ時真っ只中である。しかもクリスマス数日前となれば尚更だ。そんな時に店を休むなど余程の事があったのだろうか?

 昨日の今日ということもありなんだか嫌な予感がする。

 そんな俺達の心情を察したのか店長が説明し始めた。


「22日の給食にうちのケーキを出すことになった。それで準備のために前日休むことにしたんだ」

「はぁ?」


 予想だにしなかった斜め上の内容に思わず素っ頓狂な声が出た。

 いや、それ無理でしょ!? どう考えても値段が合わない。一人当たりの量を減らしてショートケーキの半分程度にしたとしても200円前後になる。そんな予算を給食の、しかもケーキ一つに使うとは思えない。例え年に一度の行事だとしても無理がある。

 南條も俺と同意見なのかショーケースの中の値札を見ている。

 驚きを露わにしている俺達を見て店長は頭を搔きながら苦笑いした。


「いや~、昨日、新見君達と店先で話した後、この商店街中の店長に声を掛けて、みんなで話し合ったんだよ」

「へ?」


 驚いているところにさらに驚く内容が出てきた。

 そう言えばあの後店長の姿を見ていない気がする。店長は常日頃から奥でケーキを作るか事務仕事をしていることが多いので気がつかなかったが、そんなことをしているとは思わなかった。

 って、そうじゃなくって! 商店街中の店長を集めったって…、あなた何してるの? いや、そもそもなんで集めたの? 何を話し合ったの? 全く話の内容が理解できずに頭の中で疑問が次から次へと湧きだした。軽いパニック状態である。


「いやほら、今の値段だと許可が降りないだろ? だから、商店街のみんなにも協力してもらえないこと思って…、幸いここは商店街だからなんとか安く材料が仕入れられれば、行けるんじゃないと思ってな」


 店長も値段のことには気づいていたようだ。

 この店で仕入れている材料は品質を上げるために高級なものを使っている。そんなものを使えば当然安くはならない。削れてもせいぜい店長夫妻の人件費ぐらいが関の山だ。

 そう考えると店長の言っていることには一理ある。確かに商店街の人の協力が得られれば安く作れるかもしれない。しかし、普通は商店街中を巻き込もうなどとは考えないし、考えたとしても断られる可能性もあれば、今後の付き合いを考えて行動には移さない。

 悪く言えば猪突猛進、良く言えば底なしのお人好し。俺には絶対にまねができない芸当だと思う。でもそれをやってしまうのが店長であり、少し羨ましくも思える。


「で、夜通し必要な材料の量とか、誰がどこからどれだけ仕入れられそうかを話し合って、朝から仕入れ先に問い合わせてもらって今さっき行けそうだと分かったところだ。あ、もちろん給食センターにも話は通したぞ」


 店長は誇らしそうにニッと笑って腰に手を当て胸を反らせた。

 この人が眠そうにしていたのはこれが理由か。昨日の店先での話の後から今までということは完全に徹夜している。それは目の下にあるクマからも察せられる。

 本当に何をしてるんだか…、そう思いながらも俺の頬も緩んでいる気がする。

 こちらを静かに伺っていた女将さんの顔も先程までとは違って嬉しそうに見える。南條も満面の笑顔で今にも飛び跳ねそうだ。本来であればクリスマス直前に店を休むなど以ての外だろうに、本当にお人好し過ぎる人達だ。

 結論から言えば、商店街の店長さん達もあの少女のことが気になっていたようで、なんとかしてあげられないかと考えていたそうだ。そのためか、店長が話を持っていくと皆さん二つ返事で首を縦に振り、話を持って行ってから1時間もかからずに全員が集まったとのことだ。

 そんな人達が集まったのだから話し合いが白熱しないわけがない。俺はこれだけ仕入れられるようにするだとか、俺はこの値段で仕入れられるようにするといった話が飛び交い、最終的に必要以上の材料が集まることになったのはご愛嬌といったところだろう。


「まぁ、品質は落ちるけど、そこは俺の腕でなんとかする!」


 店長は腕に力こぶを作って、もう片方の手でそれを叩いている。

 そんなことは全く心配していません。ここまで全力で行動する人が造るケーキが不味いわけがない。不味くなるわけがない。そう人信じられるから。

 それにしてもこんなことが現実に起こるとは想像もしていなかった。

 給食で出すということはこの人達の努力も優しさも直接あの少女に届くことはない。それでもこの人達はそれを惜しまず全力で成し遂げようとし、実現させた。

 端から無理だと分かっていて、それでも南條を納得させるために俺が何気に口にしただけなのに、まさかそれを真剣に実現させようとする人達がいるとは思わなかった。

 この世界はままならない。気づかぬところに優しさが隠れている。こんな人達がいるから世の中は平穏に回っているのだろう。そんな気分にさせられる。


◇◆◇


 そして22日当日。俺は授業が終わると一目散に店に来た。

 南條も遅れて店に来たが、息を切らしていることから途中走ってきたのが伺える。

 もちろん、俺達が直接あの少女に何かをするわけでもないことは分かっているのだが、それでも少しでも早く店に着きたくて足を速めずにはいられなかった。

 今日、俺達が出来ることはたかが知れている。普通に店の仕事をしながら、あの少女が店の前を通った時に少女の様子を伺う程度だ。

 少女は当然のことながらこの店長夫妻が、商店街の皆さんが頑張ってケーキを準備したことなど知らないし、喜んだとしてもこちらに向かって笑顔を向けてくることなどない。

 それでも少女が少しでも笑顔でこの店の前を通ってくれればそれだけで満足なのだ。

 それを見るために俺達は急いで店に来て、少女が店の前を通った時に見過ごさないようできるだけの仕事を済ませた。当然、店の前に「準備中」という札を出すもの忘れない。少女が通った時に接客している暇などない。まぁ、これも店長の指示だけど。

 それから程なくして、ちらちらと学校から帰る小学生の姿が見え始また。

 俺達はそわそわとしながら店の外に視線を向ける。


「店長、そんなに凝視したら不審者ですよ」

「いや、でもな~」


 店長は腕を組んで仁王立ちの状態で扉の中から外を見ていた。

 店長の気持も分からなくはないが、少女が前を通り過ぎる際に店の中にこんな姿の店長を見掛けたら、驚いて慌てて走り去ってしまう。そんなことになったら元の木阿弥だ。

 女将さんも南條も店長を見て苦笑いしている。

 そして、いよいよその時がやってきた。

 少女が店から見えるところに現れた。

 しかし…、そこには想像していたものとは全く異なる少女の姿がった。

 少女がランドセルを背負って歩いているところまではいつもと一緒だ。でもその少女に覇気はいない。俯き肩を落としてとぼとぼと歩いている。むしろいつも以上に暗く沈んでいるようにさえ見える。その少女の隣には彼女を気遣い時折肩に手を掛ける女の子の姿がある。

 それを見て、ここにいるみんなの顔が一瞬で凍り付いた。

 よく見ると少女の歩いてきた後には店から出てきた店長さんたちの姿が見える。どの店長さんの顔にも心配と不安の色が混じっている。みんな店の中らから少女の姿を伺っていたのだろう。だからといって少女に声を掛け事情を聞くわけにもいかない。黙って見送るしかできないもどかしさが店長さん達をおろおろとさせていた。

 そんな少女がこの店の前を通りかかっ時、ふと足を止め、店の中をちらりと見た。見られたみんなの体が強張る。だがそれも一瞬で、少女は再び顔を俯けるとダッとその場から駆け出した。走り去る少女の頬には涙が流れているのが見えた。

 店の前に置き去りにされた女の子がおろおろとしている姿が目に入る。

 それが目に入ると同時、店長が店から飛び出しその女の子を捕まえた。周りからも商店街の店長さん達が集まってくる。

 囲まれた女の子は周りを見渡しながらびくびくと震えていて、その目にはうっすらと涙が滲んでいる。店長さん達はこの女の子に事情を聞きたいだけなのだろうが、この女の子にしてみればとんだ災難に違いない。それでなくとも少女が走り去ってどうすればいいのか思い悩んでいたところに突然現れた大人達に囲まれたら誰だってそうなる。


「こら! あんた達、いい加減にしない! 女の子が怯えているでしょ!」


 周りを取り囲む大人達に檄が飛ぶ。女将さんは大人達を一括すると店長を押しのけて女の子の前に屈んで優しく微笑んだ。


「ごめんなさいね。怖かったでしょ」


 女将さんは女の子と目線を合わせ、頭を優しく撫でるとポケットから飴玉を取り出して女の子に渡す。それを受け取った女の子も幾分落ち着いたように見える。

 この女将さんがいるからこの店は保っているのだろうとふと思う。情には厚いが店長のように猪突猛進でもなく、冷静に物事を判断する能力を持っている。この女将さんがここにいて良かった。そう思うのは俺だけではない筈だ。


「それで、もし良かったら、今走っていった娘に何があったのか教えてくれる?」


 うん。女将さんもやっぱり店長の奥さんだったわ。まぁ、この状況で事情を聞かない方が難しいかもしれないが、それでも先程まで怯えていた女の子に聞ける雰囲気でもないのは確かだ。それでも聞かずにいられないところがこの女将さんの良いところでもあるのだが。

 女の子はしばらく周りを見渡して躊躇っていたが、周りの大人達の雰囲気から逃げられないと観念したのか、恐る恐る口を開いた。


「あのね、時部ときべ君がね、希衣きいちゃんのケーキを食べちゃったの…」

「それって給食に出たケーキのこと?」

「うん」


 初めて知ったが、あの少女は希衣ちゃんというらしい。そしてその希衣ちゃんのケーキを時部君がたべちゃったと…

 うん、これはダメやつだ。

 周りの大人達の顔に一瞬で怒気が宿る。店長に至っては殺気すら放っている。

 それを見た女の子がまたおろおろとしだしたので女将さんが女の子の頭を優しく撫でて大人達にがんを飛ばし始めた。その眼が「お前ら、おとなしくしてろや!」と雄弁に語っている。うん、ごめんなさい。


「教えてくれて、ありがとね」


 女将さんは女の子にお礼を言った後、ポケットからもう一つ飴玉を取り出して女の子に渡してから女の子を解放した。

 大人達はというと、何も言わずにそれぞれに肩を怒らせ店に戻っていった。今この場で口を開けば怒りが怒涛の如く溢れ出てきて収集がつかなくなることを知っているのだろう。

 普段なら虐めでもない限り子供の悪戯として流せる程度のことかもしれない。少なくとも商店街の店長さん達が気に留めることではないはずだ。本来ならその程度のことのはずなのに、何故だか心を深く傷がつけられた気がする。この後、大丈夫だろうか?

 それからクリスマス当日の24日までの間、店の外に希衣ちゃんを見掛けることはなかった。あの娘は大丈夫だろうか? そんな心配も他所に日にちだけが過ぎていく。

 そんな中、一組の親子が手を繋ぎ店に入ってきた。

 手を繋いでいた男の子は店に入るなり手を放しショーケースに駆け寄り中のものを見まわし始める。それを見て母親が「おとなくしていない」と注意した。

 この店ではよくある光景だ。

 その母親は真っ直ぐレジのところへ来ると、「時部ですけど、注文していたケーキを受け取りに来ました」と、笑顔で告げてきた。

 うん? 時部? どこかで聞いた名前だと思いながら予約票を開いて確認する。

 南條も名前に聞き覚えがあるのか、こちらに駆け寄ってきた。

 そして予約票を数枚捲って名前を見つけたのだが…、南條と二人、顔を上げお互いに苦笑いを浮かべてあってしまう。

 そこには『時部』という名前の上に大きくバツが付けられていたからだ。

 これを見て思い出したが、今ここのいる男の子が希衣ちゃんのケーキを食べてしまった男の子だろう。このバツ印も店長がつけたものだと容易に推測できる。

 これは少々俺達には荷が重い。そう思い、レジの前にいる母親に「しばらくお待ちください」と告げて、奥の部屋にいる店長夫妻のところに早足で駆け込んだ。

 当然のことながら店長夫妻も予測していたのか、静かに立ち上がると店の方に出てきてくれた。あとは女将さんに任せよう。俺達は見守ることしかできないのだから。

 女将さんはレジに立つと、優しそうな表情を浮かべ、にこやかに微笑んだ。

 それを見ている俺の背筋に冷たいものが伝う。女将さんは微笑んではいるのだが、目が明らかに笑っていない。その眼は冷ややかに母親を捉えている。


「申し訳ありません。うちにお客様にお売りする商品はございません」


 女将さんから出てきた言葉はまさにそれを証明するかのような言葉だった。

 いや、ストレート過ぎるでしょ! 母親がぽかんと口を開けて唖然としているよ。

 説明! 早く説明してあげて! こんな思いが喉の奥から込み上げてくる。


「実はですね…」


 女将さんもそれだけでは伝わらと理解しているのか、その理由を母親に説明し始めた。

 女将さんの話はケーキを食べられない少女がいることから始まり、その少女になんとかケーキを食べさせたくて商店街が総出になって給食にケーキを出したことが簡潔に述べられる。


「ところが、そのケーキを少女から横取りした男の子がいるんですよ」


 女将さんの目は母親から店の中を走り回っている少年へと移っている。

 女将さんの言葉のチョイスに少々悪意も感じるが、事実なので良しとする。


「で、ですね。主人がそんな子供に食べさすケーキはうちにはないって言って聞かないんですよね」


 うん。最後は店長の責任にしちゃったよ。

 とはいえ、母親と面と向かっている女将さんのせいにするよりはここにいない店長のせいにしておく方が穏便に収まりそうな気がするので、何も言わずに見守ることにする。

 最初は何を言われているのか分からなかった母親の顔も、みるみる内に険しくなっていってるし、可能な限り穏便に事を進めるのは大事なことだと思うから。

 女将さんは最後まで話し終えると、笑顔で母親に退店を促した。うん、器用だ。

 しかし、何を思ったのか、目の前の母親は鞄から財布を取り出すと、そこから1万円札を出して、レジにダンっと置いた。


「私達に売れなくても、このお店にはケーキがあるんですよね?」


 女将さんは言われた言葉が今一つ理解できないのか、首を傾げた。


「ありますけど売れませんよ?」

「ええ、分かっています」


 それを聞いてさらに首を傾げる。


「本当は私がその娘この家に行って謝るのが筋なんでしょうけど、あいにく私はその娘の家を知らなくて…、だから、すみませんがケーキをその娘のお宅に届けて頂けませんか? もちろん後日学校に相談してちゃんと謝罪しますので…」


 女将さんもさすがにそこまでは予測できなかったのか、目の前に置かれたお札と母親の顔を交互に見ている。

 昔は連絡網なるものが配られていたらしいが、最近は個人情報の関係からそれも廃止されている。この母親が希衣ちゃんの連絡先を知らなくても当然だろう。しかも今日は休日で学校も閉じているので先生にも相談できない。


「せっかくならクリスマスに食べて欲しいじゃないですか」


 母親から出た最後の言葉がとどめを刺したのか、女将さんが「分かりました」と答えてお金を受け取った。そんなことを言われたらこの女将さんが受け取らないわけがない。

 それを見て母親もほっと息をつくと、子供の手を掴み店から出て行った。当の男の子は「え? ケーキは?」と言っていたが、母親の顔を見てその口を閉ざしたのは言うまでもないだろう。


「困ったことになったわね」


 一言そう言うと女将さんは奥の部屋から上着を持ってきてケーキを箱に詰めると店を出て行った。

 はたしてこれが吉と出るか凶と出るか…

 以前、希衣ちゃんの母親は希衣ちゃんにあげたケーキ代を持ってこの店に来た。それを考えると母親はケーキを受け取らいかもしれないし、それによって希衣ちゃんがまた傷つくかもしれない。

 女将さんが言う『困ったこと』とはこのことだろう。

 俺は、女将さんの持って行ったケーキがあくまで謝罪の品であり、給食の代わりのケーキだと理解して受け取ってもらえることを、切に願わずにはいられなかった。

 それからしばらくして帰ってきた女将さんの手にはケーキはなかった。


「とりあえずケーキは受け取ってもらえたわ」


 女将さんのその言葉から、後日先程の母親が謝罪する際にどうなるのか分からいという含みが込められていることを理解した。希衣ちゃんの母親はしぶしぶ受け取ってくれたのかもしれない。

 どうか、希衣ちゃんが何の憂いもなくケーキを食べられますように…

 俺は心の中でそう繰り返した。


◇◆◇


 年も明け学校も始まり数日が過ぎた頃、南條が俺の席に来て「今日、お店に行ってみない?」と声を掛けてきた。

 お店というのはあのケーキ屋のことだとすぐに分かった。あれからひと月近く経っている。謝罪の件も含めてそろそろ何かしら進展があったかもしれない。

 俺も気になっていたので願ったりのお誘いに二つ返事で首を縦に振った。

 授業が終わると、俺は自転車で、南條は電車で目的地に向かう。こればかりは俺の事情で申し訳ないが、別行動となる。南條もそれを知っているので何も言わず従ってくれた。

 俺達は再度店の最寄り駅で待ち合わせると、店に向かって歩みを進める。少しばかりの期待と不安を抱えて。


「すみません」

「あら、新見君、南條さん、いらっしゃい」


 店の扉を潜った俺達を見て女将さんが嬉しそうに近づいてきた。


「そろそろ来る頃かなって思ってたわ。あれが気になってたんでしょ」


 少々聞きにくい事柄だったのもあり、女将さんの方から言い出してくれたのはありがたい。こういうところは本当に頼りなる。

 その後、女将さんから教えてもらったのは以下の通りだ。


 あの後、年が明けて男の子の家族と希衣ちゃんの家族が学校で面会したが、その際、希衣ちゃんの母親はその謝罪を素直に受け取ったそうだ。

 男の子も店から帰った後に両親に怒られ、男の子の家ではその年のクリスマスは行われず、サンタからのプレゼントもなくなったようで、それが余程堪えたのか、素直に希衣ちゃんに謝ったらしい。まぁ、面会の際に男の子の母親が先生に向かって「またこの子が同じことをしたらすぐに家に電話してください」と言ったのも大きかったかもしれないとのことだが。

 それを聞いて、俺達の気持ちも少しばかり和らいだ。話をしている女将さんの顔も和らいでいる気がする。

 俺達は一通り話を聞くと「おじゃましました」と告げて、店の外に体を向けた。

 そこにはちょうど希衣ちゃんが店の前を通り過ぎる姿があった。

 希衣ちゃんはちらりと店の方を見たが、その顔には以前のような追い詰められた色もなく、すぐさま隣にいる女の子の方に視線を戻すと、楽しそうにお喋りしながら店の前を通り過ぎていった。

 それを見て、あぁ、希衣ちゃんは一つ山を越えられたのだと、そんな風に思った。

 後ろで見ていた女将さんも隣にいる南條も嬉しそうに微笑んでいる。

 これから彼女にはまだまだ試練が待ち受けている。先のことは分からない。それでも、今回のことが彼女を少しでも楽にさせたのなら、今はこれ以上言うことはないだろう。

 今年もこの店でアルバイトが出来るといいな。そんな思いで俺達は店を後にした。

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俺の辞書に青春と恋愛は載ってない 御家 宅 @oie_taku

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