Action.4 【 愛の逃避行 】

 先ほどから、駅構内の時計ばかり見ている。

 もう何本電車を見送ったことだろうか。駅から見える海岸線をぼんやりと眺めながら男が来るのを二時間以上も持っていた。携帯にかけても留守電なので、同じメッセージを何本も入れた。

蓉子ようこです。江ノ電の鎌倉高校前かまくらこうこうまえで待っています。早く来て……」

 最後の言葉は涙声になった。

 ここで待っていろと言ったのは男なのに、なぜ来てくれない? 足元のボストンバッグに目を落とす。もう家に帰らない覚悟で出て来たのに……男のために外した結婚指輪の跡がしらじらと目に痛い――。


 私はごく普通の専業主婦だった。

 サラリーマンの夫と大学生の息子、高校生になったばかりの娘と四人家族で、庭付きの二階建て住宅で暮らしていた。裕福ではないが貧しくもない、たぶん世間並み。

 あの男と知り合ったのは娘の受験だった。

 今まで通っていた塾の先生に、この成績では志望校は無理だとさじを投げられた。その頃の娘は、学校が嫌いで不登校が続き、教師にも反抗的な態度を取って、学校によく呼び出しを受けていた。

 娘の進路で悩んでいる時だった、小さな私塾だが不登校の子どもの面倒もみてくれるというので、友人の紹介で行ってみることにした。


 先生は四十代半ばの男性、清潔な身なりと丁寧な言葉使いで第一印象は良かった。

 友人の話によると、一流大学を出て東京の出版社に勤めていたが、身体を壊して学習塾を始めたらしい。個別指導で生徒は20~30人はいるようだ。

 三年前に離婚して、今は自宅兼塾で独り暮らしをしているが、わりとイケメンなので生徒の母親たちにも人気があるとか――。

 娘の受験でわらをも掴む思いだった私は、少々月謝が高くても、この塾に通わすことにした。案外、娘も先生のことが気に入って機嫌よく通ってくれた。

 あんなに嫌がっていた学校も、塾の先生に諭されて真面目に通学するようになったら、たちまちち成績がアップして、難なく志望校にも合格できたことは驚きだった。

 夫と相談して、塾の先生に謝礼として二十万円渡すことにした。


 これも先生のお陰だと、謝礼の入った封筒を渡そうとしたら、「受け取れません」と最初は固辞されたが、「娘にとって先生は神様ですから……」とお願いして、ようやく納めて貰った。

 数日後、先日のお礼にと先生から食事のお誘いがあった。

 どうしようかと迷ったが、夫は出張中だったし、息子も娘も友だちと出掛けると聞いていたので、独りで食事も味気ないと思い切って食事の誘いを受けることにした。

 地元だと人の目があるので都会のレストランで食事をした。その後、ショットバーでお酒をしたたかに飲んで酔った私はホテルまで行ってしまった。

 夫とは何年もセックスレスだった、三つ年下の先生に夢中になって、月に2、3度は近郊のホテルで逢引するようになった。


 半年ほど二人の関係は続いていた。

 あの日、夫が急に出張になって、子どもたちも友人の家に泊りに行くと言うので、私は独りになってしまった。先生が恋しくて逢いたくなって電話したら「夜から塾があるから無理だ」と断られたが、それでも私がしつこくねだったら、近所にあるホテルで逢おうということになった。

 絶対に先生は自宅には呼んでくれない。町内のそういう場所で逢うのは危険だと分かっていたが……理性では抑えられなかった。

 偶然にも運が悪かった! 

 先に帰った男の後で、ホテルの通用門からこっそりと出てきたら、知り合いの主婦が犬を散歩させている所に鉢合せになった。

「蓉子さん?」

 相手に声を掛けられたが、無視して私は走り出した。

 どうしよう顔を見られた? あの主婦は近所でも噂好きで有名な女だし、明日になったら私が浮気をしてると町内に広まるだろう。

 パニックになった私は、先生に電話をして浮気がバレたと大声で泣き出した。そんな私に不機嫌そうな声で「明日、鎌倉高校前の駅で待っていてくれ」それだけ言って電話は切られた。

 翌朝、ボストンバッグに着替えを詰めて、ヘソクリを貯めたキャッシュカード持って私は家を出た。

 もう帰って来ないかも知れない。――今から愛の逃避行だ。


 ああ、いくら持っても男は来ない。

 不審そうな顔で駅員が私を見ていく、駅のベンチに何時間も座っている中年女が、電車に飛び込みはしないかと心配になったのだろう。

 男から携帯にも連絡がない。……私に泣き付かれて迷惑だった、それで遠ざけるためにこの駅を指定したかも知れない。

 昨夜は知り合いの主婦に会ったけれど、暗がりに私はサングラス、日頃着ないワンピース姿だった。呼びかけても返事をしなかった私を本人だと特定する証拠はどこにもない筈だ。

 仮に噂になっても「あ~ら、私もまんざらでもないわねぇー」と笑って誤魔化そうか。

 この半年、遊びだとは思いたくないけど、全てを失うほどの恋ではなかった。今なら間に合う、まだ誰も気づいていない、危険な愛の夢から目を覚まさなくては!


 急いで出て来たので、家の戸締りが心配になってきた。もう一度、薬指に結婚指輪をめ直し、次の電車で我が家へ帰ろう。

 たった一日の『愛の逃避行』に、さよならを告げて……。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る