第3話 エモンの腕とモモの舌

 野菜をそろった大きさに刻み、肉を一口大に切り分ける。その手つきは流れるようによどみなく、熟練の手さばきだ。

 だが中華鍋にそれら用意した材料を入れ、炒め始めた辺りから、動きが怪しくなる。

 ちょっと味を見て首をかしげ、追加する調味料は、はたから見ていても、種類も量もおかしい。

 しかしモモは、そんな料理もまったく意に介さない様子で、もくもくと食べている。最初タコライスを食べた時に涙目だったのは、あわてて食べてのどに詰まらせていたから、らしい。

 そんなモモの様子を見て、エモンは満足げにうなずく。

「よしよし、うまいだろ。どんどん作ってやるからな」

 張り切って次の皿に取り掛かる。見守る周囲からは驚きの声が上がる。

「そんな馬鹿な!」

「エモンの料理といえば、豚の餌どころか、豚もそっぽ向くレベルなのに!」

「ふざけるな! 豚の餌とか、ありえねーだろ!」

 ひどい言い草に、エモンは抗議する。だが言った男は真剣な顔だ。

 喜矢敷タカラ。がっしりとした体躯の、よく日に焼けた若い男。エモンの飯テロをしょっちゅう受けている一人だった。だからこその恨めしそうな顔で、エモンに告げる。

「本当だぞ、俺、前にむりやりお前におみやげ持たされたとき、捨てるのもなんだと思って、家で飼っている豚にやったんだよ。そっぽ向いて、悲しそうな声で鳴いてたぞ」

 タカラは養豚を営んでいるのだ。豚の餌は例えではなかった。

「く……」

「そんなことない。食べられる。ふつう」

 そのやり取りをそばで聞き、劣勢のエモンを見かねたか、モモが助け舟を出す。

「おなかすいて、どろぼうした。でも、怒らなかった。ご飯、食べさせてくれた。エモン、いい人」

 援護射撃を受けて、エモンは胸を張って、周囲を見渡す。

「聞いたか? 恩知らずのお前らとは違うね。むしろ豚の舌が間違ってるし、お前らの舌が豚レベルなんだよ。分かる奴にはちゃんと分かるんだ。ほれ、もっと食え、もっと食え」

 エモンは喜び勇んで次の皿を出す。豚肉とナスの炒め物だ。

「どういうことだ?」

「恩義を感じて、我慢してるってことか?」

「それじゃ、いい子過ぎるだろ。ちょっとやそっとの我慢じゃきかないぞ、あれ」

「まさか、何か突然変異が起きて、食べられる物を作れるようになった……?」

「お前、試してみろよ」

「冗談じゃない、俺はこの間、それで三日寝込んだんだぞ」

「一体何が起きてるんだ……」

 いつもならありえない光景にとまどい、周囲はじっと、モモとその手元の皿を見つめる。

 見つめられて照れたようにしながら、けれどモモは箸を止めない。

 エモンの出した三皿目も、肉料理だった。それに気づいた男が、ついと自分の皿を出す。

「そんな脂っこい肉料理ばかりじゃ、つらかろう。ほら、口直しにこれもお食べ」

 常連の中でも古株の橋下はししたカイジ。ハシシさんと呼ばれている。中東のアラブ人と見まがう、濃い顔とひげからついたあだ名だ。見た目はそんなこわもてだが、面倒見のいい、気の優しいおじさんだった。

 差し出したのは、自分のテーブルに出されていた、きゅうりと塩昆布の漬物だ。こちらはこの店の女主人、アキが作ったもので、さっぱりとした味の、箸休めの一品。口直しにはちょうどいい。

 ぺこりと頭を下げて、その皿を受け取ったモモは。

 一つ箸でつまむと、ぽりぽりとかじり。

「わううううう!?」

 突然、がたんと立ち上がった。

 口元を押さえて、目から涙をぽろぽろと流している。

「どうした?」

「口に合わなかったか?」

 周りは心配になって、次々と声をかける。

 だが、モモの様子をよく見ると、みんなが心配していることとは少し違っているようだ。耳はピンと立ち、ローブの下で尻尾をちぎれんばかりにぶんぶんと振っている。

 周りの問いかけに何も答えられずに、ただ真っ赤な顔で激しくうなずくだけだったが、ようやく言葉を口にした。

「おいしい! これおいしい! 食べたことない!」

 ものすごく興奮している様子で、握り締めた両手を上下させながら、「おいしい、おいしい」と繰り返す。

「うわあ……」

「これは……」

「普段豚の餌以下のものしか食べてきていなかった、というオチか……」

「かわいそ過ぎる……」

 なぜエモンの料理に平気だったのか、納得がいった。おいしさの基準が低すぎるのだ。おいしいものをろくに食べたことがなく、それが普通だと思って育っている。それはあまりに不憫だと、みんな思った。

「じゃあ、これも食べなさい」

 ハシシに続いて、やせた学者風の風貌の、寺田コレシゲが、ナスの揚げ出しを出した。

「ほら、これも……」

「俺も……」

 みんな次々と自分の皿を、モモの前に置く。

 それを一口食べるたび、モモは身体を震わせ、涙を流して喜んだ。

「くっ……。そんなボリュームのない、酒のつまみなんぞで腹がふくれるかっ! もっと食え、ほれ!」

 しかし、本当においしいということがどういうものなのか知ってしまったモモは、エモンの出した皿を前にして、悲しそうな顔で見つめるばかり。箸をつけようとはしない。

「くう……、裏切り者め! いいだろう、お前にうまいと言わせてやる!」

 エモンはよほど悔しかったのか、歯ぎしりしながら、厨房の奥へと向かった。そこの扉の向こうは、冷蔵室になっているのだ。中から出てきたときには、カツオを一匹持っていた。

 おおっと、周囲がどよめく。

「エモン、それは?」

「今日、内地から届いた、養殖物のカツオだ。静岡、焼津産。上物だぞ」

「おお、あそこのなら、最高級じゃないか」

 その言葉通り、魚体はつやめき、黒と銀の縞模様はくっきりとしていて、大きく丸々と太っている。鮮度も脂の乗りも抜群である様子が見て取れる。

 見つめるみんながみんな、舌なめずりでもしそうな表情で、身を乗り出した。

 昔、天然物の方が上等とされていた海産物は、今では養殖物に立場を逆転されている。養殖技術が上がり、畜産のように、よい血統を選んで育てるようになっている。

 また、オキナワ近海では、違法な排水で水質が悪くなり、安全性にも問題が出ていた。その点でも、内地産の養殖物は安心できる。

 エモンはそんな特上のカツオをまな板に乗せると、包丁を頭の脇に当てた。

 次の瞬間、すっと頭が、身から離れた。

 モモは驚いて目を丸くした。

 それは、切り落としたといったふうではなく、本当に、身から自然と離れたように見えたからだ。

 ちゃんとした料理に縁遠かったモモには気づけないことだったが、さらに言えば、その手順にも少々おかしなところがあった。

 カツオは鰹、堅い魚と漢字で書く。由来はそのうろこの硬さにある。カマの部分、首の付け根から胸びれの辺りに硬いうろこがあって、包丁の刃が立たないのだ。

 力任せに切り落とそうとすれば、柔らかい身が崩れる。なのでカツオをさばくときには、まず横向きに刃を入れそのうろこをそぎ、それから頭を切り落とす。頭を落とすのも、当然中に骨があるので、左右から刃を入れておき、最後に骨を絶つ。

 ところがエモンは、まるで、そこに何もないかのように。

 まるで、豆腐でも切るかのように。

 すっと無造作に刃を入れた。

 硬いはずのうろこは刃が当たったとたんにぱっくりと割れ、骨もその存在を主張する様子はなかった。

 カツオの身が自ら刃の通り道を開けていくように、割れていったのだ。

 それが料理の道理から外れたことだとは、知識のないモモには気づけなかったが、魔法のように身が離れていく様子には目を奪われた。洗練された技巧は、美しさをまとうものなのだ。

 そこでモモは席を離れ、カウンターをくるりと回って、エモンのそばで見ようと近づいた。

 しかし、ふと、その足が止まる。

 エモンの気配に、気づいたからだ。

 集中している、というのとは、何か違う。

 いや、次元が違う。

 触れると自分の身まで裂けてしまいそうな、そんな雰囲気をエモンの周りに感じたのだ。

 となりに行くのがためらわれ、モモは少し離れたところから作業を見守った。

 エモンは背びれの脇からV字に切り込みを入れ、背びれを外す。胸びれと硬いうろこもそぎ落とす。腹に刃を入れ、内臓を取る。その腹から背骨に沿って包丁を滑らせて二つに割り、さらに背側、腹側に切り分ける。

 ここまで、見ほれてしまうほどの流れるような手つきだ。そしてやはり、刃が触れるだけで、身がきれいに割れていく。

 モモはその様子を、息をするのも忘れて、見守っていた。一つ工程が終わるたび、思い出したように、ふうと息をつく。それだけの緊張感と美しさが、エモンの包丁さばきにはあった。

 エモンは腹側の身を一つ取ると、さらに二つ割りにして、そこから刺身を作り始めた。大葉をしいた皿に盛り、生姜をすりおろして、モモを振り向く。

「ほら、できたぞ。席に戻って、食え」

 そう言われて、モモは席に戻った。しかし、目前に出された皿に対して、あまり食欲はわかなかった。いろいろ食べて、そろそろおなかが満ちてきたのだ。

 それに、世の中には今まで自分が食べてきた物より、ずっとおいしい物があると知ってしまった今。

 せっかく作ってくれたのに悪いけれども、エモンの料理にはあまりそそられなかった。

 確かにエモンの包丁さばきは美しく、心奪われた。しかし、先ほどまでの食の記憶も鮮明なのだ。

 エモンの料理はおいしくはない。いや、むしろみんなの言うように、まずいのかもしれない。

「これは大丈夫だから、食べてみ」

 そんなモモに、ハシシが声をかける。いやむしろ、自分が箸を持って、すぐにも食べたそうにしている。

 それは不思議なことでもあった。ハシシも他の常連も、さっきまでは、エモンの料理を散々けなしていた。なのに今は、待ちきれない様子だ。

「生姜をこうして、醤油に溶いて、ほら、これにつけて食べるんだよ」

 それでもまずモモに、という心遣いなのだろう。小皿も用意してくれて、至れり尽くせり。そこまでされたら断るわけにもいかず、モモは一切れ、口に運んで食べてみた。

「わううううう!?」

 驚いて立ち上がる。

 頭の先から尻尾の先まで、また震えが走った。

 ふわっと口の中で旨味が広がる。ひやりと冷たいカツオの脂が、とろりととろけだすようだ。

 刺身は言ってしまえば、ただの生肉だ。魚を切って、盛っただけ。だが、それがなぜ、こんなにもおいしいのか。モモはまた、涙ぐんで立ちすくむ。

「うまいだろ。ただ切るだけじゃないんだよ。角を立てて、切り口が照るように、身を崩さずに切るのはけっこう難しいんだ。そうして初めて、魚の旨味が余すところなく伝わる。エモンはその腕は最高だから」

 ハシシの言葉に、モモはただうなずく。

 そんなモモの様子を見て、エモンは一つ溜飲を下げたようだ。とたんに機嫌がよくなって、今度は背側の身を取ると、串を打ち始めた。

 身を支えるように、扇形に打った五本の串。それを手に持ち、カツオをコンロの火であぶる。皮目が焦げ、脂がばちばちと爆ぜる。香ばしい匂いが漂うと、もうモモは我慢ができない。

 これは絶対においしい匂いだ。尻尾が勝手にぶんぶんと左右に振れ、それを隠すローブがわさわさと揺れる。

 エモンはあぶったカツオを、氷水の入ったボールに沈めた。熱を取る間に、手早く薬味を用意する。氷水から取り出したカツオを切って大皿に盛り、薬味のネギをたっぷり乗せる。カツオの叩きができあがる。

 それを食べたモモが泣き震えたのは言うまでもない。脂が落ちて、香ばしさが加えられ、また違うおいしさが口の中に広がる。

 周りのみんなも、それを見て、それではとご相伴に預かり、舌つづみを打つ。

「いやあ、うまいね」

「さすが、上物だ」

 本当にみんな、満足そうだった。

 だが。

「さて、それじゃ、今度はマリネでも作ろうか……」

「待て!」

「それはやめろ!」

 さらに気分よく、エモンが次に取り掛かろうとしたところ、間髪入れずに静止の声が上がった。

 ずっと事態を静観していたアキが、苦笑混じりに言った。

「勝手に上物のカツオを一本おろしといて、さらに半身をだめにするつもりかい。そんなもったいないことはさせないよ。ほら、どいた」

 カツオの前をエモンから奪い取ると、こちらも手馴れた様子で料理を始める。それを見て、みんなほっとした様子。

「エモンは、味付けだけが壊滅的なんだよなあ」

「包丁さばきと焼き具合は最高なのにな」

「無理に味付けしなけりゃいいのに」

 そんな勝手な声に、エモンはむすっとした表情で答える。

「さばいて解体ばっかりじゃ、そんな人生むなしいだろ」

 その声を聞いて、モモは、はっとエモンを仰ぎ見た。

 先ほど感じた、寄ると自分の身まで裂けてしまいそうな、剣呑な雰囲気。それをまた、まとっているような気がしたからだ。

「命あるものから、命を奪う。形あるものから、形を奪う。人生が、ただそれだけだったら、俺は耐えられないね」

 料理の話だったはずだけど、大げさな言い回し。他のことを言っているように聞こえる。何の話をしているのかは、分からない。

 エモンは深刻な声色でしゃべっている。だが、その顔には何の表情も宿っていない。それが逆に、心の深淵を覗かせているようだった。

 何か重大なことなんだなということだけは、モモにも分かった。

「だから俺は、新しいものを生み出す人生を送りたい。自ら新しい味を生み出すんだ」

「それは迷惑だから、やめてくれ」

 黙って聞いていたみんなだったが、最後の一言には突っ込みが入る。

「なんでだよ! これだけ立派な志なのに! みんな感動しただろ? それなら食べてみようかなと思っただろ?」

 エモンは大きく手を広げ、芝居がかったアピールだ。いつもの身勝手な口調に戻った。

 だが、モモは、あの剣呑な雰囲気が気になった。

 それは、時折モモが感じたことのある雰囲気。

 いやな思い出とともに、記憶の中にある雰囲気。

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