3

「……そう言われるんじゃないかと、思ってた」


 風に吹かれた白い花弁が、二人の周囲で小さな円を描いた。

 花紗里は小さく呼気を漏らした。真意を探るように、緑の瞳が由を見つめている。

 彼は決まり悪げに頭を掻いた。


「いや、違うな。山潟さんならそう考えるだろうって思ってた……ことに、気が付いたんだ。やっと。自分のことなのにさ」

「……」

「だから僕は放っておけなかった。頭のどこかで、このままじゃ山潟さんが擦り切れて、いつか消えてしまうような気がしていたから」

「……別に、そうなったって私はいいもの」

「僕は嫌だ」


 花紗里が目を逸らしかける。その動きを遮って言葉を重ねる。


「僕は山潟さんを失いたくない。……つまり、そう思ってたんだ。いつからかは分からないし、ずっと曖昧なままで、今だってうまく言えないんだけど――」


 由はただひたすら、渦巻く感情に名前を与えて送り出した。

 理路整然と伝えるには、今しがた悟った自分の心を整理する時間が必要だった。

 そんな暇はないと思った。


「僕も、今日は楽しかったし、それ以上に嬉しかった。山潟さんが楽しいと思ってくれて。それが僕の喜びだったんだ。だから、僕は……山潟さんには、笑っていてほしい」

「そんなの。……余計な、お世話だよ」


 花紗里は顔を歪めた。

 押し出す言葉は切れ切れで、しかし何と言うかは決まっていた。運命が定まってより後、幾度も自分に言い聞かせたことだったから。


「……私は、前なんか向いたりしない。ずっと後悔し続けて、あの喪失が、忘れられるものじゃなかったって証明するんだ」


 それは自らへの呪い。何も得ないことと引き換えに、思い出を永遠とする誓約。

 山潟花紗里の、ただ一つの特別。


「忘れなくていい」


 ――そのはずだったものを。

 南ヶ川由は迷わずした。


「……え?」

「だって、そうだろ。そういう山潟さんに、僕は助けてもらった。そういう山潟さんに出会って、僕は――」


 花紗里は由を見た。

 そこには緊張した、しかし揺るがない少年の顔があった。


「――僕は、君を好きになった」


 永遠のような一瞬があった。

 写真が風景を切り取るように、二人の目はこの時の世界すべてを焼き付けた。

 動きを止めた互いの姿。陽光を受けて輝く草花。あるいは風の色すらも鮮やかに。


「…………私は」


 花紗里は震えた。

 それは実際には、由の言葉からどれだけ経ってのことだったか。


「いいじゃないか、後悔してたって。山潟さんにあったことを、僕は人から聞いたくらいでしか知らないけど――それでも、忘れられるわけないって、思うよ」


 いい加減、そろそろ前を向く頃なんだ。

 松村千はそう言っていた。そうできるなら、無論それでいい。だが他の解答も存在するのではないかと、今の由は思う。


「僕は今までずっと、ああだこうだ考えながら、結局は自分のやりたいようにやってきてさ……色々な人に、迷惑をかけたと思う。それと比べたら、山潟さんみたいに、ちゃんと自分を見つめられる方が、ずっと良いよ。でも、そうだとしたって、笑ったり喜んだりしちゃいけないなんてことはない。悲しい気持ちを抱えたまま、その上で希望を持って生きたって、誰も文句なんか言えないはずだ」


 由は言い切り、肩で息を整えた。

 彼にも余裕はなかった。本当に正しいかどうかの確信もない。だが偽らざるところを述べた。何度同じ話をするとしても、この答えは変わらずに言える。


「……そんなの、ずるい」


 花紗里は言った。

 末期まつごの息と共に発するかのような、ひどく弱々しい声だった。


「南ヶ川くんは、ずるいよ」


 伏せられたその両目の端に、儚い光の粒が生じた。


「……ごめん」


 由は頭を押さえるようにした。

 大方吐き出してしまった後で、言わない方がよかったのではと後悔の念が渦巻き出す。自分も案外マイナス思考なのかもしれない。そんな思いが脳裏をよぎる。

 だが彼は努めて表情を保った。示すべき言葉が残っていたから。


「……僕は山潟さんに命をもらった。その分は、少しでも返したいんだ。山潟さんが忘れたくないことがあるなら、僕がそれを思い出させる。……僕がやっぱり邪魔になるなら、二度と関わらないって約束するよ」

「…………」


 首を振る動きが、その返答だった。

 思い詰めたような花紗里の顔を、一筋の雫が伝い、地に落ちる。


「……いい。そんなこと、言わない、から」


 ベンチがわずかに軋んだ。

 躊躇ためらいがちに彼女が距離を詰める。その動作一つで、二人の距離はほぼ失われる。


「ただ、少しだけ」


 由は目を閉じた。

 その腕の中に、暖かくも軽い質量が預けられる。


「少しだけ、このままでいて」


 すん、と鼻を鳴らす音が、一度だけ聞こえた。







 何処とも知れぬ闇の中に、重く鈍い音が響いた。


「……そう。ご苦労さま」


 赤く染まった指先をねぶりながら、少女は気のない様子で言う。

 彼女が背中を預ける壁の、ちょうど耳元にあたる場所に、一匹の蜘蛛が張り付いていた。


 ただの人間では明らかにない。

 腰まで伸びた滑らかな髪は、自ら光を放つような銀色。肌は透き通るほどに白く、切れ長の眼窩がんかに収まった瞳は、不吉な星のごとき赤。

 身に着けるのは紺色のセーラー服。だがそれとて奪ったものだ。その本来の持ち主は、たった今彼女に貪り尽くされ、土色の屍となって倒れ伏す。

 浮世離れした容姿の娘がありふれた装いに身を包む様には、どこか異界の美めいたものがあった。


「ずいぶんと活躍してるのね、魔法少女。でも、それももうおしまいよ」


 ――蜘蛛の子を散らすように、とはよく言ったもの。

 表向き、彼女に変化はない。しかし壁にいた彼女の下僕は、八本の足ですぐさま逃げ去った。主の大いなる怒りを感じて。


 剥き出しのすらりとした脚が、哀れな犠牲者の肉塊を小突く。

 戯れるようにごく軽く。傍目には少なくともそう見えた。だがその一撃で屍は吹き飛び、乾いた音を立てて四散する。


 冷たい目でそれを見届け、少女は薄い瞼を閉じ、片手をその胸に当てた。

 祈りにも似た姿勢。非道な行いの直後でありながら、美しい娘のそうした仕草は、一葉の聖画を思わせる気配を生む。


「イバラのお姉様。このキヌが、必ずや仇を討ちます」

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