6


 ひょっとしたら。この場所はもう残っていないと思っていた。


「俺もだよ。いや、ほんとうは残ってなければ良かったって思ってたのかもしれねぇな」


 五年前までは、合宿に使う宿泊棟にするとかいう計画が上がっていたみたいだが。結局、建物の老朽化が酷く修繕程度では補えないということで、ゆくゆくは解体されるなんて噂が僕たちの代では流れていた。


「どうせ解体費用が足らないんだろ。今の校舎に金かけすぎたんだよ」


 まあ、一番考えられる理由とすればそれだろう。


「あんなことがあったのに……少しも手、加えられてねえんだな」


 昇降口扉を潜り、見覚えのある木製の下駄箱が立ち並ぶ中に入った僕たちは、ライトで床と天井を照らしつつ、もちろん土足ですのこを渡り、奥に進む。


 振り返っても外の様子は曇ったガラスのせいで見えない。外からの光も差さないから、スマホを無くせば僕たちは真の意味で闇に呑み込まれてしまう。


「東、おまえ、充電今いくつ」


 心細くなったのは僕だけではなかったらしい。正直に。34%、君は? と聞き返すと、ガッツは気まずそうに答えた。


「俺。今、16パー……。昼間電話かけまくってたせいだ」


 今すぐにではないにしろ。スマホの寿命は刻々と迫りつつある。こ早く百合子を探し出さなければ。


 下駄箱を通り過ぎれば左右に腕を広げたような廊下が暗闇に続く。どっちに進むか。そんなの考える必要はなかった。右の廊下は床が殆ど抜け落ちて、先に進むことは容易ではないと見て取れたから。僕らは迷わず左の廊下を進むことに決めた。


 それでもなんだろうか、昔のトラウマか、それともこの廃校に立ち込める暗く冷たい雰囲気がそうさせているのか。なぜか踏み出す一歩が重くなる。


「またこんなとこ来ちまうなんてな……俺、夢にも思わなかったぜ」


 ああ、僕もだよ。

 お互い黙らないように、至極どうでもいい話題を振り、投げ返すも。これが見事に続かず、すぐに沈黙が二人の間に流れる。それでも気がつくと、僕らはまたなんでもないような話をしていた。


 昨晩の夜のように、五年前の出来事を脳内で思い浮かべないように。歩くたびに悲鳴を上げる床板が抜け落ちないよう慎重に進みつつ、僕らは一階の教室を巡回していく。


「垂瓦、来なくて正解だったな……」


 天井に伸び上がった影だけが僕らの後をゆっくりとついてくるのに、必要以上に振り返りたがるガッツは、今にも吐きそうだといわんばかりのしかめっ面で言ってライトで教室内を照らした。


「見ろよ、あの頃と殆ど変わってねえ……、机も椅子も」


 多少荒らされた形跡はあるものの、古びたそれらをはじめとする教室内の備品。

 壁から外れかけた黒板や、壊された教卓。教室内に貼られたプリントや新聞もほぼそのままだった。

 小さな唸り声を噛み殺して、必死に恐怖と吐き気に抗おうとしているのだろう、ガッツは壁に手をついて俯く。


「だめだ……さっきから心臓バクバクし過ぎて頭痛くなってきやがった」


 吐きたいのなら吐いた方がいいと、廊下に備えてある水も出ないだろう水道を僕は指差したが。油を売っている暇はないと彼は百合子の名を何度か呼んだ。


「は……まったくよ、迷惑なやつだと思うだろ。ごめんなぁ、東、巻き込んじまって」


 ガッツが謝ることじゃないだろう。


「……百合子をあんなにさせちまったのは、俺らの責任でもあるからよ」


 かなみが死んでから、あの頃はみんな、自分の心の穴を埋めるのに必死になっていたと彼は言う。

 頑なに忘れようとするか、自分の罪を認めて打ちひしがれるか、あれは事故だったと保身に走り自分を守るか。逃げ方はさまざまあって、僕がいなくなったあと、映画部のメンバーたちは互いを避け、たいした言葉も交わさぬまま解散し、一時バラバラになったそうだ。


「あんなのがあって、仲良しこよしなんてできるはずもねーしな」


 今でこそ垂瓦、左門とたまに顔を合わせてはいるが、関係を再び修復させるには時間がかかったのだとガッツ。


「高校は近いからっていう理由でたまたま百合子とかぶってさ。つっても最初はお互いなんも口きかないまま他人のふりしてたけどな。それで二年にあがる頃、俺はやっと心の整理がついてきて、百合子も割と元気そうに見えたから、久々に話してみようと思ってよ、あいつあの頃から一人暮らししてて、それで俺、ある日、百合子の家に行ったんだ。また昔みたいに話そうぜってさ。そしたら……どうしたと思う」


 ガッツは声のトーンを低くして、小さく笑った。


「部屋から出てきたのはあいつじゃなくて、知らない裸のおっさんだった」


 部屋を間違えたかと思ったが、そこは確かに百合子の部屋で。気だるげな顔をした中年男が「誰だお前」と問うのも聞こえず、ガッツがその男の先にある、薄暗い廊下のむこうに見たのは。散らかった二人分の衣服と下着、意味深に転がったティッシュボックスと、扇情的で艶めかしい背中と、見たこともない女の表情をした百合子の横顔だった。


 たまに教室で見かける、優等生の気風漂わせるその姿とは比べ物にならない、遊女のような物憂ものうげな顔をしていた百合子に、ガッツはなにも告げられず立ち去ることしか出来なかったという。


 あれはなにかの間違いだと思いたかったが、後から聞いた彼女の噂がけして思い違いではないことを彼に知らしめた。


 彼女をよく知る者が言うには、普段はおとなしく誰にでも優しい気さくな彼女だが、精神的には驚くほど脆く、制服の下には自傷行為の痕がいくつも刻まれ、援助交際というよりかは一時の不安を掻き消すことを目的とした体だけの付き合いを何人もの男と繰り返しているということだった。


 そしてその後も耳にするのは彼女の驚くべき裏の顔と、衝撃的な情報ばかりで。そんな彼女に心底失望したガッツだったが、興味本位なんかであんな馬鹿な真似をする彼女ではないことは知っていた。


 他人が知らず、自分だけは知っている、百合子がそうなってしまった理由。深い心の闇。

 体を傷つけ、汚してでも、その闇を消し去ろうとしたか、それとも更に深みに嵌ろうとしているのか。

 そんな脆く弱くなってしまった彼女をいくら拒絶しても、見捨てることだけはできないと、ガッツは百合子に寄り添うようになった。


「ありえねぇって最初は思ったよ。いくらなんでも人として堕ちすぎだって、気持ち悪ぃって、軽蔑もしたさ。でもよ……よくよく考えたら、そうなることは当然だったのかもしれねえ。あの良くも悪くも真面目な性格のあいつが、俺らの中で一番責任感じてたって……そしてそれに気がつかずにいたせいで、百合子はそうなっちまったって」


 僕も少しは覚えている。かなみと幼馴染だった百合子は、あの事件の後。真相を聞かされ激昂したかなみの両親に散々暴言を吐かれ、僕たちの中でもっともと言っていいほどに責め立てられていた。


「あなたが死んでくれればよかった」と、殺意まじりに罵られ、床を舐めるように、頭を下げて。土下座をしていた百合子。声が枯れるまで、謝り続けていた百合子。


 自分の思いつきが、一番親しかった友人を殺してしまった。あんなにもかなみが大好きだった百合子が、そう思わないわけはない。

 ガッツの言う通り。彼女の真っ直ぐな性格は、人一倍あの事件の罪を重く自分に背負わせるものだっただろう。


「ほんとうはあの時、てめえを楽にしようなんて思うんじゃなくて、自分と同じか、それ以上に辛い奴のこと考えてやらなきゃならなかったんだよ……、バラバラにならずに、人殺しかもしれねえけど、それでも前むいて進んでいくしかねえって、支え合わなきゃなんなかったんだよ。そうしてれば……百合子は」


 もしかして。ガッツが百合子を好きなのって。いや、本当は好きなんじゃなくて。

 贖罪しょくざいってことなのか。


「うるせえな……何度も言うなよ。ああ、確かに罪の意識もあるよ……、あいつには見えねえとこで精神ボコボコにもされてきたしな。ほんっと……それなのに、なんであんな女良いって思っちまったのか、今でも疑問だよ」


 彼が今までどんな時間を百合子と過ごし、そしてどれだけ傷つけられてきたか、今の話だけでは到底把握し兼ねるが。


 それでも。彼にとって百合子は想い人に変わりないのだ。必死な形相で今も前に進んで行こうとするのは、百合子への想いがあってこそだろう。


「――いいよねそういうのって。憧れちゃうなあ」


 僕の後ろで声がしたのは、ガッツがもっと奥に行こうと歩き出した時だった。


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