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 だというのに、そいつはこのタイミングで全員の注目をさらい、僕らが知る限りおよそ初めて、自らその存在を主張した。


 それも地面を踏み鳴らすという、シンプルかつ大胆な方法で。


 彼女は黒子を脱ぎ捨てストーリーの中に踏み込んできた。いや、黒子と言うにはいささか皮肉だろうか。


 だって、彼女の外見ほど、黒子という言葉の似合わない者はいない。


 何故なら彼女の容姿は、この場の誰よりも目立ちに目立つ。


 暗闇でも発光しているかのような、透き通るような長い白髪に白いワンピース、白い底の低いサンダル。全身真っ白い、それこそ幽霊みたいな出で立ちをしていた。


 北島きたしま かなで――。


 確か彼女の名前はそうだったはず。


 彼女がいつから存在していたかといえば、僕らが飲み屋に入った時には既にお座敷の奥の奥の方に一人で座っていた。


 そして、百合子を連れて出て行ったガッツ、それを追う僕に少し遅れて、まるで影のようにゆっくりついてきて、今の今まで一言も発さず、本当に後ろの方で、背後霊みたくそこに、静かに佇んでいた。


 もっと言えば、彼女は最初からそこにいた、五年前のあの日も、映画部として活動していた時も。


 いつも一人で、どこかに佇んで、静かにしている。外見とは反対に影の薄い子だった。


 入部当初からいるはずの彼女を、僕含め部員たちは背景のように、エキストラのように、モブのように、いてもいないような存在として扱っていたっけ。


 保身に聞こえるかもしれないが、けしていじめとかではない。


 だって彼女は一言も喋らないし、常に一線を引いた場所にいたから。自然とその扱いが定着していた。


 ……違う。一つ訂正する。

 喋らないのではなく、彼女は――そう、喋れなかったのだ。


 詳しくは知らないが、彼女は幼少から患っていた珍しい声帯の病気で声が出せず。


 喋ることができなかった。


 その病の治療として服用していた強い薬の副作用で、重度の貧血や目眩、頭痛に悩まされ、さらには髪の毛の色素が全て抜け落ちてしまい。


 中学の頃には既にこのような外見だった。


 体育の時間はいつも見学、日傘をさしての登下校、話すときは筆談でコミュニケーションをとる、だが体力面で劣る分頭は良く、常に成績はトップを独占していた特殊な境遇を持っていた彼女。


 そんな彼女を良く思わない輩も当時多くいて、陰でいじめを受けていたとか。


 それをかなみが気の毒に思い、映画部を避難所として提供するため連れてきたのだ。


 その後部員として正式に身を置くことになった彼女は、殆ど僕らとコミュニケーションを取らず行動を共にしていた。


 たまに筆談で少しかなみと会話する程度で、僕らのことは警戒していたのかもしれない。


 だから僕らも無理に踏み込まず、彼女に好き勝手させることにしていた。


 僕もどちらかというと無口な方だが、話を振られれば喋りはする。


 だが彼女は、喋ることもできず、会話しようともせず、僕たちの意識から遠ざかろうとするように、いつも黒子のように影薄くそこにいた。


 そんな背景さながらに浮いていた彼女がアクションを起こしたのは、前代未聞の出来事だった。


 コンクリートを踏みつけ。

 その存在を皆に知らしめた北島 奏は、物凄く不機嫌そうな顔をして、ワンピースのポケットからサインペンと片手に収まるサイズのリングメモを取り出すと、それに素早く何かを書き殴って、僕らに見えるように乱暴に突き出した。


《いい加減にして》――。


 達筆な太文字で、メモ帳にはそう書かれていた。


 それを全員が認識したことを確認し、彼女は顔を俯かせ枝のように細い指でメモ帳にサインペンを走らせ、再びそれを突き出した。


《そんなに行きたいなら行けばいい。》

《行く気も死ぬ気もないくせに、軽々しく言葉を吐かないで。》


 百合子以上に肉つきの悪い、ひ弱そうな彼女の本音とは思えぬ鋭利な言葉の数々に、最初に口を開いたのは垂瓦だった。


「なん……なのよいきなり……! 知ったふうなことを言わないで! あの頃、あなたはただ傍観していただけじゃない! そんなあなたに、百合子先輩を責める資格なんてないわ!」


 食らいつく垂瓦に、怯むことなく北島 奏は、膝裏まで届く白髪とワンピースの裾を揺らして百合子たちに近づき、筆談で返す。


《責めてなんかいない。ただ、見るに堪えないと思っただけ。そもそも右京さんの傷は、周りにいるあなたたちが執拗に甘やかして、いつまでも舐めわましているから落ち着かないんじゃないの》


 言われて、いや、書かれて。

 垂瓦の目付きがいっそうきつくなった。


「甘やかしてるってなによそれ、勘違いしないでよわたしは! 百合子先輩の為に! いなくなったかなみ先輩の代わりになろうと思って……! 西川先輩だって!」


《それが甘やかしてるっていうのよ。ほんとうに今すぐどうにかなってしまいたい人がいたら、誰にも告げず静かにそうしているはず。でもあなたたちに堂々と助けを求め、自傷行為を見せるということは、自分への関心を繋ぎ止めて、辛いけどそばに寄り添ってくれる人たちのいる生ぬるい場所を守っていたいという心の表れとも言える。》


 違う? と付け足して、彼女は百合子を見る。図星だったのか、百合子は逃げるように視線を逸らした。


「じゃあ、どうしろって言うの! あなたに、それがわかるの!」


 百合子を批難されたと、ますます声を荒げることになったが、北島 奏がその問いの答えを知るはずもなく、小さく溜め息を吐きメモ帳を再び見せた。


《右京さんがどうしたら救われるかなんて、私にはわからないわ。》


 そしてもう一枚メモを捲って返す。


《でも、忘れることはできなくても、記憶を薄れさせることはできるはずよ。南野さんに会うことは現実的には叶わないということをもっと強く周りがイメージさせるべき。でないと彼女、これから先もずっとそうよ。私だってあの時のことは忘れたこともない。やってしまったこと、自分だけ罪がないなんて思っていない。それでも、死者は蘇らないし、時間だって巻き戻せない、右京さんはこれ以上、南野さんの影を追ってはだめ。》


 この言葉を忘れないで。みんなも。


 そう最後に書き、彼女は再び距離を置くように一歩そこから下がった。


 垂瓦はまだなにかを言いたそうにしていたが、ガッツが肩を叩きそれを止め。取りあえず、今日のところは帰ろうと、全員に促した。


「……北島さんの言う通りだよ。あたし……二人がいてくれることに甘えて、いつまでも尻込みしてた……。……そう言われても仕方ないよ。前ッ、いい加減向かなきゃなのに……っ。みんなごめん……この埋め合わせは必ずするから」


 百合子も、突然掛けられた厳しい言葉に頭を冷やしたのか、弱々しくガッツたちに謝罪し、そして北島 奏にも頭を下げた。


「ごめんなさい。ほんと……せっかく久々に会ったていうのに、その……今度は薬飲んでくるから、よかったらでいいから、ご飯食べに行こう、北島さん。……凛も、ガッツも、もう平気、車運転できそうだから、東君も変なこと言ってごめん、正気じゃなかったよ……ほんとごめんね」


 何度もぺこぺこ頭を下げる百合子に北島 奏は少しだけ微笑み。


《元気な時に、誘ってください》


 と筆談で返した。

 やっと僕たちがそこから動き出すと、コンビニの中にいたおっさんは、話が纏まったかと胸をなで下ろしているようにも見えた。


「あんま話したことなかったけど、サンキュウな……北島。せっかくこうして再会したんだ、お前も大学夏休みだろ、また、なんつうか、集まれるといいな」


 と、気をきかせて彼女に言うも、素っ気なく彼女は会釈して。

 最後に僕を見ると、小さく折り畳んだメモ帳の切れ端を手渡した。


 え、これなに?

 尋ねる僕に彼女はメモ帳を目の前に突き出す。


《あとで読んでくれればわかる。》


 いや、今知りたいから聞いたんだけど。と返そうと思った時には、彼女は僕たちと反対方向の暗い路に歩みを進めていた。


 進めば進むほど街灯が少なくなっていく路を白い髪を靡かせ歩いていく彼女に、送っていこうかと声を投げたが、振り向くこともなく。


 北島 奏は僕らの前から消え去った。

 そして、彼女の姿が暗闇にのまれたことを確認して、僕らも反対側の路を歩き始める。


 雑木林が生温い夜風に吹かれ、揺れて、そのざわめきが。

 

 化け物の叫びに聞こえた。

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