[2] 「ルジェフ=ヴィアジマ」作戦

 1月8日から10日にかけて、西部正面軍とカリーニン正面軍は「ルジェフ=ヴィアジマ」作戦を開始した。カリーニン正面軍がルジェフ、西部正面軍がヴィアジマの攻略を最上目標とされた。この作戦にかけるスターリンの期待は大きかった。

 1月8日、カリーニン正面軍の第29軍(シュヴェツォフ少将)、第39軍(マスレンニコフ中将)と第11騎兵軍団(ソコロフ大佐)はルジェフ突出部の北翼から第9軍の第6軍団と第23軍団の間で戦線を突破することに成功した。

 第9軍司令官シュトラウス上級大将は北翼から突破してきたカリーニン正面軍に対する反撃を命じたが、ルジェフ西方のオレニノで第23軍団の3個師団(第102・第206・第253)とSS騎兵旅団が包囲されてしまった。第6軍団はルジェフの西と南西に新たな防衛線を構築することに成功したが、予断は許さない戦況は続いていた。

 1月11日、スターリンは「最高司令部」の命令としてカリーニン正面軍司令官コーネフ大将にルジェフの即時攻略を命じた。

「いかなることがあろうと、1月12日までにルジェフ市を奪回せよ。最高司令部は、この目的のために当地区にある砲兵隊、迫撃砲隊、航空隊を用い、市街地の被害に臆することなく、ルジェフ市を全力で壊滅させることを勧告する」

 さらに、スターリンは緒戦から生き残っていた5個空挺軍団(実質的には第4空挺軍団・第5空挺軍団とその他の再編された軍団の一部)をヴィアジマ方面の前線に投入させる決断を下した。

 ソ連軍が対独戦で空挺部隊を投入したのはこの時が初めてではなかった。

 前年の12月14日にカリーニン正面軍の戦区に位置するテリャエヴァ・スロボダに1個大隊、1月3日には西部正面軍戦区のモジャイスク南方のメドィンの西に2個大隊の空挺部隊をそれぞれ降下させた。いずれも現地のパルチザンとともに道路や鉄道の遮断など妨害任務を行わせたが、効果はきわめて小さかった。

 最初の空挺降下は数個連隊の兵力によって行われることになった。西部正面軍の第5軍、第33軍、第1親衛騎兵軍団の前進を助けることが任務とされた。

 1月15日、陸軍総司令官を兼務するヒトラーは前年12月18日付けの「総統指令第39号」で言及した「陸軍総司令官の指示する防御に適した前線」を次のように定義する命令に署名した。この命令は中央軍集団の各軍司令官に下達された。

「私は中央軍集団司令官に対し、第4軍、第4装甲軍、第3装甲軍をルジェフからグジャツク東方を経てユフノフに至る街道沿いの線まで退却させることを許可する。これらの都市間では、相互の連絡線が維持されなくてはならない。そして、敵の攻勢作戦は前述の線で迎え撃ち、停止させなくてはならない」

 中央軍集団に降りかかった脅威は容易ならぬものだった。カルーガからヴェリョフに至る陣地に約30キロもの間隙が開いてしまった。第1親衛騎兵軍団はこの間隙に対して突撃を敢行し、第4軍と第2装甲軍の背後からヴィアジマに迫ろうとした。

 西部正面軍に背後を衝かれる事態に置かれた第4軍司令官キュブラー大将はただちに北翼のヴォロコラムスクから南翼のカルーガまで展開していた前線部隊に対して、ヒトラーが文書で指示する線まで退却するよう命じた。

 ヒトラーはまた、スターリンが前年の11月に下した「指令第428号」すなわち「焦土作戦」に類似した内容の命令を退却するドイツ軍の前線部隊に向けて発した。

「対峙する敵から離脱する時は以下の手順で行うこと。

 離脱作戦はあらかじめ後退線を用意した上で最小限の行動で行う。装備の損失は最小限に留めるが、携行できない火砲や機関銃、車両、弾薬は無傷で敵の手に落ちることのないよう、完全に破壊せよ。ただし、負傷兵を敵陣に残して離脱することは部隊全体の汚点となることに留意すべし。すべての交通手段(鉄道、関連建造物など)は徹底的に破壊せよ。そして、すべての村々を焼き払い、暖炉もすべて破壊せよ」

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