[4] 極限状態

 モスクワは戒厳令によって平静を取り戻したが、依然としてその頭上には暗雲が立ち込めていた。ドイツ軍が首都に近づくにつれ、空襲はますます頻繁になっていった。市民は待避所に入ろうが、自宅に居ようが危険の度合いに大差が無いことを感じ取っていた。

 10月28日、この日の空襲は最悪の被害を出した。スタライヤ広場にある共産党中央委員会の建物が大型爆弾の直撃を受けた。ある医師はこの日の空襲の模様を次のように書き記している。

「ボリジョイ劇場が昨日やられた。中央電信局の隣を走るゴーリキー通りにも爆弾1発が落下。食糧品店の外の行列から多数の死傷者が出た。すべて警報が鳴る前のことだった。みんな品物を持ち、リュックを担いで歩き回っている。まるで旅行に行くか、よそに引っ越すみたいに」

 10月29日、ゴーリキー通りのモスクワ市共産党本部のすぐ近くで爆弾が炸裂した。議長のシチェルバコフをはじめとする会議の出席者たちは爆風に吹き飛ばされ、ガラスと漆喰の破片が雨あられと降り注いだ。ドアが固く閉まって開かなくなったが、消防隊がそれを蹴破って全員を救出した。負傷者はいなかったが、シチェルバコフは軽い脳震盪を起こしていた。

 11月に入ると、ドイツ第2航空艦隊は護衛戦闘機を付けることのできる距離にまで近づいていた。夜間のみならず昼間爆撃も可能になった。空襲警報のサイレンは1日に何回も鳴り響き、警報が鳴ってから市民が待避所に駆け込む時間の余裕は、ある時には5分も無かった。死傷者が増えはじめ、市の監察医務院は残業を余儀なくされた。共同墓地もスペースが無くなり、遺体をまとめて埋葬したり、墓穴の間隔をせばめたりした。

 スターリンが最も危惧したのは、モスクワ市民の心理的恐慌が首都防衛を担う赤軍将兵へ飛び火することであった。実際、前線のソ連軍部隊では「台風作戦」の開始後、所属部隊からの脱走や戦友への投降の呼びかけ、部隊の戦意低下を引き起こすような噂を流布したなどの理由で銃殺される兵士の数が急増していたのである。

 この状況に対して、各正面軍司令部は所属する各部隊に政治指導員(ポリトルク)を派遣した。政治指導員たちは他の部隊で友軍の兵士が見せた英雄的な行為を力説し、兵士の戦意と「ドイツ軍への復讐心」を鼓舞する働きかけを絶えず行っていた。

 中央軍集団の南翼を担う第2装甲軍は小休止を取った後、ブリャンスク包囲戦を終了した第2軍の歩兵部隊がようやくオリョール周辺まで進出したことで装甲部隊がオリョール街道の側面防護を後退することができ、オリョールからトゥーラに向かう総攻撃を再開する準備を整えていた。

 10月24日、第2装甲軍の第24装甲軍団はようやくムチェンスクを占領した。

 10月25日、第2装甲軍で組織変更が行われた。第48装甲軍団と2個兵団(第34・第35)は第2軍に転属され、第43軍団(ハインリキ大将)と第53軍団(ヴァイゼンベルガー大将)が第2装甲軍の指揮下に入った。

 10月29日、第24装甲軍団はトゥーラの郊外にまで迫った。16世紀はじめにモスクワをタタールの侵略から護る要塞として発展したトゥーラは重要な兵器工場、製鉄所や化学工場が密集し、首都南方を走る鉄道の重要な結節点であった。

 10月末の時点でトゥーラ市とその周辺に展開していたのは第50軍の3個師団のみでいずれも兵力が半分近くにまで減少していた。トゥーラ市の共産党はNKVD連隊、労働者連隊、警察大隊などを編成して師団に組み込ませ、市の防衛と徹底抗戦を命じた。第24装甲軍団と第50軍の間で激しい戦闘が11月7日まで続いた。

 11月4日、南方軍集団司令官ルントシュテット元帥は部隊の消耗と補給体制上の問題からただちに進撃の停止を命じた。そして陸軍総司令部に1942年の攻勢のために軍集団の建て直しを要請した。

 このルントシュテットの要請に、中央軍集団の各軍指揮官たちも続いた。グデーリアンも前線からの報告を分析した結果、トゥーラ市の外周から4キロの地点で前線を確保した上でいったん停止する決断を示した。後続の部隊と補給物資の到着、そして地表の凍結を待つという判断だった。

 中央軍集団ボック元帥は「台風」作戦を冬の到来までに完了させるべく、攻撃再開を急ぎたいと考えていた。しかし「台風」作戦はモスクワ攻略を狙う第2次攻勢を眼前にして、計画全体の見直しを迫られることになった。

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