我こそは

春永永春

我こそは(1話完)



 虫の音に、男は起こされた。十月の夜。まだ、それほど寒くはない。

 男は苦しそうに立ち上がると、辺りを見回した。月明かりに照らされて、彼と同じ格好をした死体がいくつも転がっていた。百か、二百か。状況を整理しようとするが、うまく頭が回らない。彼自身、負傷し、疲れ果てていた。


(とにかく、帰らねば……)


 原に横たわる死体に躓きながら、千鳥足で歩き出した。本当は今すぐにでも横たわって休みたいが、この場所に留まっているのは危険すぎた。

 途中、土の盛り上がった部分に足を取られ、野原に倒れこんだ。口の中に入り込んだ枯草を吐き出し、起き上がろうとするが力が入らない。何か支えになるものをと手を動かすと、布きれに触った。

 引き寄せて見ると、旗だった。折れて、血が滲んでいる。月明かりに照らされて見えるのは、三つ葉葵。男は途端に顔を歪ませ、思い出したかのように泣きはじめた。自らの不甲斐なさに打ち震えた。

 その時、遠くから怒号が届いた。


「――我こそは松平元康也! 生きて帰るは恥ゆえ、我が最期の一太刀受ける者はおらぬか!」


 耳を疑うその言葉に男は疲れも忘れて立ち上がり、駆け出した。


(まさか、殿はお逃げにならなかったのか!)


 声の元へたどり着くと、騎馬武者が敵に囲まれて暴れ回っていた。殿の兜に、殿の愛馬。月明かりの下、その姿はまさに松平元康そのものだ。しかし。


「どうした、武田の力はそんなものか!」


 男はその声に聞き覚えがあった。これは家臣の夏目吉信のものだ。夏目は殿を逃がすため、囮となって単騎、敵中へ突撃したのだ。

 男は夏目の元へ駆け寄るが、なす術もない。すでに十数人に取り囲まれている。みな男のことなど眼中に無いとは言え、多勢に無勢。やがて突き出された槍が掠り、夏目の耳と兜が飛んだ。


「おおおおおお!」


 馬上の夏目は雄叫びを上げ、何人かを斬り伏せたが、直後に数本の槍で串刺しにされた。ずるりと馬から落ちると、雑兵は一斉にその首へ群がった。大将首を前に、味方同士で争いが始まった。

 呆然と立ちすくむ男の視界に、地に落ちた兜が映った。はっとして、それを手に取る。男の目に光が宿った。不甲斐ない身でも、役に立つ方法を見つけたのだ。

 男は誰も気づかぬ間にさっと馬に乗り、兜をかぶって駆け出した。そして夏目のように、あらん限りの声で叫んだ。


「――我こそは、松平元康也!」


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