9-3 決闘と少女と大賢人

 俺は慌てて手を上げた。むろん制止の所作だ。無駄な努力であるのは承知の上で。


「ま、待て。尻が痛い」

「待つ理由としては的確でないな」

「そう焦るな。それに考えてもみろ、ここは元々音楽の祭典が行われていたんだ。戦いの前に、一つ神前に捧げる曲でも聴いて、互いの健闘を天におわす戦の神々に祈ろうじゃないか。最高神はもとより、〈戦と季節風の女神〉だろ、後は雷となんとかの神、ほかにもえーと、なんとかとなんとかの」


 早々に神名の在庫が尽きてしまい後のほうはぐだぐだになってしまったが、喋ってるうちに我ながら名案だと思った。神に捧げる曲。これなら数分は時間を稼げる。


「なんだそれは。さては怖じ気づいたか?」

「違うっつーの。お前こそ神々への配慮を怠りやがって。余裕がないのはむしろお前のほうじゃねーのか」


 頼む。乗ってくれ。


「なんだと?」ゴルバンは顎鬚を揺らして眼を剥いたが、「てっきり神官団を唾棄する無神論の輩と思っていたが、意外な一面もあるようだな。あい判った。貴殿の言葉に従おう」


 乗った。俺は臀部の痛みも忘れて心中おらび上げた。

 一旦は剣を下ろし、戦々恐々としている楽師の集団に視線を転じる軍部大臣。それから髭をしごきつつ頭を振ると、


「賛同しておいてすまぬが、皆恐れをなしていて、満足に演奏できそうな者が見当たらぬぞ」

「お前の眼は節穴か?」


 俺は剣先で集団の一点を指し示した。


「ほら、あそこに横笛を持った小娘がいるだろう」


 震え戦く人々の間で、アルシャは独り背筋を張り、俺を直視していた。その真摯しんしな眼差しと引き結んだ唇に宿る決意を、師匠たるこの俺が見逃すはずはない。


「あの見慣れぬ服の少女か。しかし、まだ若いぞ」

「年齢は関係ない。ほかに適任者がいるか?」

「……いや。いそうにないが」


 公安相のほうを窺い見るゴルバン。

 まあいいわ、と呆れがちに首肯するエトリアに目礼して、ゴルバンは楽師たちの集まりへ足を向けた。


「評議会議長ライアの命である。娘よ、その横笛、吹いてくれるか」


 他を圧する魁偉かいいな軍部大臣を見上げ、我が弟子は強く頷いた。

 ゴルバンは少女の上着に留められた番号札を見て、アルシャと申すか、珍しい綴りだがいい名だ、と呟いた。


「では、アルシャよ。神々の御前にその音色を捧げるがよい」


 舞台の最前へ出るよう促され、アルシャは靴音を響かせぬよう注意深く歩いた。

 舞台上の、そして舞台下のあらゆる者たちが、年端も行かぬ少女の一挙手一投足を注視する。あの強情な姫君でさえ、悲愴感を湛えた眼でアルシャの後ろ姿を見つめていた。

 静々と一礼をし、唇の前に笛の歌口を翳す。


 それから程なくして奏でられた、〈正午の半魔神のための前奏曲〉の流麗な笛の音は、舞台を瞬く間に和やかな空気で包み込んだ。譜面と寸分違わぬ、それでいて生身の音楽が放つ躍動感を伴う妙なる調べに、人々は身動ぎすら忘れてその笛に聴き入った。

 動くものはといえば、曲に合わせて肩を揺らす演奏者自身と、涼風に舞う一片の花びらばかりだった。


 やがて曲は終わり、訪れる静寂……。


 舞台のここそこから、深い溜め息の積み重なった、空気の振動めいたものが低く轟いた。足下の広場も同様だ。万雷の拍手が沸き起こってもおかしくない名演だが、時節柄そんなことをする者はいなかった。小生意気な文部相と若造の労働相と、あと少女を目の敵にしていたはずの姫君を除いては。

 それら三人の疎らな拍手を浴び、コクンとお辞儀をしてアルシャは振り返った。照れ臭そうに鼻を摩るその笑顔が眩い。


「ご苦労であった……ならば、改めて参る」


 剣を構えるゴルバン。

 お前、気持ちの切り替えが早すぎるぞ。そんなに俺を斬りたくてウズウズしてやがったのか?


「ま、待て。あれは前奏曲だ。まだ本楽章が」

「見苦しいぞ。既に演奏を終えているではないか」


 と、そのとき。

 舞台の奥で場違いな笑いが響いた。かなりの年輪を経たしゃがれ声。嗄れてはいるが不思議とよく響く声。


「何奴だ!」


 視線を巡らせ、ゴルバンが叫ぶ。

 俄にざわめく舞台周辺。それらに混じって未だ聞こえる笑い声と、硬い床をコツコツ叩くもう一つの物音。

 出入り口の穹窿の下に、まずは一本の杖が現れた。続いてそれを手にした、独りの小柄な老人の姿。

 外衣。禿頭。そして決して開かれることのない、双つの眸。


「じいさん……」

「フォッフォッフォッ、見事な笛だったのう」


 物置で雨宿りをしていた、あのじいさんだった。


「誰だ貴様ッ!」

「断りもなく舞台に上るな!」

「引っ捕らえろ!」


 ゴルバンらの命令に、出入り口を塞ごうとする私兵たち。


「どうしたことじゃ? 儂は大音楽祭に招待されてここに来たんでの。演奏を褒めて何が悪いのだ」


 じいさんは敢然としてそう主張した。

 そうか、

 じいさんの立ち姿が、俺には未曾有の危機を取り除くべく来臨した、救い主の如く大きく見えた。随分待たされたが、それでも待った甲斐があった。ああ、あったってもんだ。


「やめろ!」俺は無礼な私兵どもに向かって叫んだ。「そこにおわすは慈雨と、ええとなんだっけな……最高じゃない、そうそう、光彩の大賢人なるぞ! 大・賢・人! 控えろ!」

「な、何ィ?」

「慈雨と……」

「光彩の……」

「大賢人!?」


 効果は覿面だった。

 名立たる大賢人の登場に連中は浮き足立ち、狼狽え慌てるばかり。驚愕の波は老人を軸に見る見る外側へ伝播していき、神官団に行き渡ったところで頂点に達した。


「あわわわわ、コ、コニシャスハール様!」

「い、い、生ける伝説が!」

「こ、このような場所に、お出でになるなんて!!」

「ぶぶぶ無礼者どもがっいいい医療と休息の神のけけけ顕現に向かってななななんたることををを!!」


 泡を喰って戸口のほうへひれ伏す神官長。それに倣う神官たちも続出し、舞台は益々騒然となった。

 そんな中、冷静に振る舞う抜け目ない議員が一人。


「お初にお目にかかります、〈慈雨と光彩の大賢人〉コニシャスハール殿」片膝を突いてエトリアが最上級の礼をする。「わたしはこの国の公安大臣にして評議会議員のエトリアと申します」

「ふむ。公安大臣とな」

「ええ。お畏れながら大賢人様、この場は少々取り込んでおります故、しばらくの間外でお待ちいただきたいのですが」


 さらりと退去を促す辺り、公安大臣もなかなかに強かだ。


「のう、公安大臣とやら」

「なんでございましょう」

「取り込んでおるのはお前さんの都合だ」


 有無を言わせぬ口調でじいさんは言った。その小さい声量を補って余りある風格と年季。幾星霜を経た人生の大先輩にしか出せない味だ。


「儂は議長に用があるのでな。好きにさせてもらう」

「お待ちください」

「儂を呼んだのはお前さんではない。お前さんに用はないのだ。さらばだ」

「…………」


 エトリアをやり込めると、大賢人のじいさんは杖を打ち鳴らしながらのんびりした足運びで俺の前に来た。


「また会ったのう」


 その両眼は鎖されたままだが、いかにも懐かしげに顔を綻ばせる。好々爺たる相貌に、大賢人の威厳はおよそ感じられない。権力を笠に着るどこぞのジジイとはえらい違いだった。


「ああ、まさか、前に顔を合わせてたなんてな」

「フォッフォッ、人の世はあまねくそういうものだ。時に議長、儂は音楽祭の客として呼ばれたはずなのだが、次の演奏はいつ始まるのだ?」

「その件だが、あんたに頼みがある」

「頼みとな? そりゃ困るのう」じいさんは真っ白な髭に手をやり、「何故に儂が流浪の民なのか判るか? 儂は誰にも頼み事をされたくないから、こうして一箇所に住まわず旅して回っておるのだ。聞いたことがあるかの? 〈世界三大放浪者〉というのを。儂はそのうちの一人なのだ」

「はあ」


 そんなの聞いたことないが。放浪者なら、それこそ世界中に遍くいるだろう。


「残りの二人が気にならんかの?」

「いえ、別に」

「詰まらん男だの」じいさんは不躾ぶしつけな態度になって、「それはさておき、儂が来たのはあくまで快い音楽を聴くためである。議長や、どんな頼み事か知らぬが、そういうことはほかを当たってくれんかの」


 議長に対してもこの態度。さすが世紀の大賢人と言うべきか。だが俺は公安相ほど往生際がよくないんだ。ここで断られては、粘りに粘った今までの苦労が水の泡になっちまう。


「じいさん、あんた音楽が聴きたいんだろ」俺は喰い下がった。「なら、望み通り飛びっきりのやつを聴かせてやるよ。けどその前に、彼女の傷をどうしても治してほしいんだ」

「む、彼女とな?」


 俺は所在なげに立ち尽くすアルシャを手で示した。視覚を持たないはずの大賢人は、確かに手の方向に顔を向け、一瞬の沈黙ののち、ほほうと感嘆の声を上げた。


「これは驚いた。こんな所に〈〉がおるとはの」


 またしても周囲の者たちが騒ぎ立つ。


「し、島?」

「島の民! あの娘っ子が?」

「ひ、〈羊と真珠の島〉の、住人か」


 やはりそうだったか。

 見憶えのない服に褐色の肌。俺とロッコムの予想通り、アルシャは西の海を越えやって来た、〈羊と真珠の島〉の民だったのだ。

 だがしかし、それだけじゃない。俺の推測が更に正しければ。


「しかもこの娘、喉に傷を負っておるのう。〈〉の生き残りかの」

「う、唄狩り?」


 〈唄狩り〉……やはりな。

 注意深く周囲を見やる。さっきまでの過剰な反応に引き替え、この言葉に反応した者は極めて僅かだった。数名の神官たちと、後はエトリアくらいか。俺もロッコムからの情報がなければ、この単語を前もって知ることはなかったろう。


「抹殺された歴史だ」大賢人はぽつりぽつりと語り始めた。「〈島狩り〉とはつまり〈唄狩り〉、唄を狩ることだったのだ。〈唄狩り〉と呼んだほうが、行為の真意を正しく伝えていよう」

「唄を狩るとは、一体?」


 誰かが問いかける。大賢人はうむとがえんじて、


「古来より、〈羊と真珠の島〉には歌声の力で人々の心を魅了し、和らげ、あるいは奮い立てるという神秘的な存在、〈悠久と水晶の歌い手〉が少なからず存在していたのだ。その能力と技巧は代々受け継がれ、永きに亘り島の民の拠り所となっていた。ところが、僭主たる護民卿はそれを快く思わなかった。彼らが〈人心を惑わす邪悪な輩〉であり、〈いずれ島を征服し、この大陸に攻め込む可能性がある〉と言を弄し、多数の武装兵を送り込むと、歌い手と思しき島民を手当たり次第に殺していったのだ」


 ロッコムが調べた書物に記載されていた、歴史学者の推論とも合致する。その歴史学者は疑問符付きではあるものの、次のように結論を述べていた。


『大量虐殺の主目的は、高度な歌い手らの抹殺だったのではないか?』


 〈悠久と水晶の歌い手〉たちの殲滅。それが〈島狩り〉の実態だった。

 俺と出会った最初の日、アルシャが役人の許へ赴くのを頑強に拒否したのも、その帝国時代の兵隊に対する恐怖心が故のことだろう。帝国が共和国に変わっても、ひとたびアルシャに植えつけられた疑念は、簡単には晴れなかったのだ。


「娘よ。お主のその傷、親御さんがつけたのではないかの」


 アルシャの眼からは、大粒の涙がポロポロと零れていた。


「歌い手たるお主の歌声を封じるため、声帯だけを傷つけて、敵兵から逃がそうとしたのではないかの。両親は健在か?」


 下を向いたまま、アルシャは大きく頭を振った。


「そうか。哀しいことを思い出させてしまったのう。すまんの」


 神官の一団から微かな啜り泣きが聞こえた。姫君だろうか。


「あい判った。議長や」

「引き受けてくれるかい?」

「むろんだ。そして儂にしかできぬことでもある。歌い手の娘よ。お主のその喉、治してやろう」


 そう言って、大賢人は皮膚の弛んだ右腕を持ち上げた。両手を顔に当て、声もなくしゃくり上げるアルシャの腕の間に手を伸ばし、薄布に覆われた喉許にそっと指先を触れる。

 大仰な身振りも、長たらしい呪文の詠唱もなく、それは一瞬で終わった。

 浅葱色の布がはらりと落ちる。

 ……消えていた。

 少女の、喉の傷痕は。

 跡形もなく、きれいさっぱりと。


「あ……あ……」早くも声を取り戻したアルシャの眼から、第二陣となる涙が零れ落ちた。「ありがとうございます……大賢人様……!」

「礼には及ばんでの。さ、早う歌っておくれ」

「はい……!」


 固唾を呑んで見守る舞台の一同。アルシャは歌い出す前に俺の許へ駆け寄ってきて、


「あの、議長」


 涙で顔をくしゃくしゃにしたまま話しかけてきた。


「本当に、本当に、本当にありがとうございます」

「な、なんだよ急に。俺何もしてないぞ」

「いえ、全部議長のおかげです。わたし……わたし」

「あー、黙ってて悪かったな。俺が議長だってこと」

「いいえ、全然、全然悪くないです」


 笑顔が戻ってきたアルシャの頬に手を伸ばし、指の甲で涙を拭ってやる。


「傷は治せないが、これぐらいのことならな」


 えへへとアルシャは鼻を啜り、満面の笑みを返してきた。


「ありがとうございます」

「そうそう、笑え。お前は笑顔のほうが似合う。あと敬語はよせ。他人行儀で気持ち悪い」

「はい!」

「はいじゃなくてさ」

「あ、うん」


 よしよし、と頭を軽く叩いてやる。快適な猫のように薄く瞼を閉じたアルシャは、俺が手を離すと、今までにない力強い眼でこっちを見上げた。


「歌ってくるね、わたし」

「ああ。力むなよ、自然体でな」

「うん!」


 アルシャは再び舞台の前に移動した。数え切れない聴衆を見渡し、目立たない所作で深呼吸をする。

 大きく息を吸い込んだのち、彼女は歌い始めた。


 それは、今朝海岸で奏でていたのと同じ、あの旋律だった。

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