怒る女

 笑顔は美しいと一般的に世間ではそう言われる。


 だが、笑顔が似合わない者だっている。笑い顔が妙に下品に見えたり、低能そうに思えたり、歯を見せて笑うとマヌケで興醒めしてしまうような――。

 朱里じゅりは、まさにそんな感じがして、笑顔がちっとも似合わない女だった。

 よく『ツンデレ』などという言葉をきくが、朱里の場合は『ツン』だけで、『デレ』はいらない。ツンツンと尖った、あの性格が好いのだ。 

 朱里は怒った顔が一番美しい。 

 怒りでつり上がる眉、唇を強く結び、キッと睨みつける瞳――怒れば、怒るほどに朱里は妖艶ようえんで美しくなる女だ。


 初めて朱里と会った時、彼女は激しく怒っていた。

 地元で人気のあるイタリアンレストラン。そこは、いつも満席で予約を入れないと食事ができないお店だった。その満員でざわついた店内で、突然、女の怒鳴り声が聴こえた。

「いつまで待たせるつもりなのよっ!?」

 そういって、店員をつかまえて怒鳴っていた。

 慌てて、店の奥から出てきた支配人が何やら説明していたが、

「七時に予約入れて、もう八時過ぎてるのに、まだテーブルに着けないなんて! どうなってるのよ? ちゃんと事情を説明しなさい」

 と、かなり女が怒っている。

 きつく睨みつけて支配人に抗議している、あの女の尖った美しさが、ナイフのように僕の胸へ突き刺さったのだ。

《なんて魅力的な女だ!》

 僕の脳裏に『怒る女』の面影が焼きついて、この女のことが昼も夜も忘れられなかった。――こんな僕はドMなのかもしれない。


 意外なほど早く、思い焦がれる『怒る女』と出会うことができた。

 今度も彼女は怒っていた。そこは駅の改札口だったが彼女は転倒していた。膝小僧から血を流し、ハイヒールの片っぽのカカトが折れて歩けない状態だった。

「ヒドイわぁー!」

 大声で叫んでいたのだ。

 改札から出てきた人に突き飛ばされて彼女は転倒したが、相手は謝りもせず逃げていってしまったようなのだ。――確かにヒドイ、怒る気持ちもよーく分かる。

 しかし、僕にとってこれはチャンスだった。

 転んで座りこんでいる彼女に、ハンカチを渡して、これで患部を押さえていなさいと言うと、彼女を優しく抱き起こした。そのまま、肩に手を貸してタクシー乗り場まで連れていくと、運転手に一万円渡して、「これで彼女を自宅まで連れて帰ってください」と言った。

 タクシーが発車する間際に、彼女が連絡先を訊いたので、僕の携帯の番号を教えた。

 偶然にしろ、こうして彼女と話す切欠ができて嬉しかった。怒っている彼女の顔を思い出す度に胸がキュンと鳴った。――やっぱり僕は真正ドMだ!


 首尾よく携帯にかかってきたらラッキーと思っていたら、二、三日して彼女の方から連絡が入った。

 僕は嬉しくて舞い上りそうだったが、できるだけ冷静を装い対応する。

「先日はありがとうございます」

「どういたしまして、ケガは大丈夫ですか?」

「はい。傷痕は残りましたが、もう痛くないです」

「それは良かった」

「あのう……お借りしたハンカチをお返ししたいので、一度会って貰えませんか?」

 彼女の方から会いたいと言ってきて、僕はもう小躍こおどりしたい気分だった。

「そうですね。都合が付けばお会いしましょう」

 と、僕はちょっと勿体もったいをつける。

 すると彼女は自分の都合を話して、「どうでしょうか?」と返答を求めてきた。

「ああ、その日ならたぶん空いてますよ」

 わざと気のない風に答えたが、しかし内心はウハウハだった。


 そして、彼女が指定したカフェで会って、その後、近くのバーでお酒を飲んだ。

 ふたりでいろいろ話している内に、どうやら彼女が僕に好意を持っていることが分かった。

 朱里は僕より一つ年下で小さな出版社に勤めていると言っていた。

 昔から短気な性格なので彼氏ができても、すぐにフラれちゃうのと肩をすくめて笑っていたが、その笑い顔はちょっと……微妙だった。

 それにしても、なんてバカ男たちなんだ。怒っている朱里の美しさは女神レベルだぞ! それを分からないで、『怒る女』を拒否するなんぞ、まったく骨頂こっちょうだ。


 ……だけど僕と付き合うようになってから、朱里はぜんぜん怒らなくなってしまった。

 あの美しい顔が見られないなんて……残念だ。僕は悲しかった。

 代わりに、僕の前では最悪の笑顔を作るようになっていた。

 イヤだ、イヤだ! 朱里の笑顔はヘラヘラして下品で不細工だ。そんな顔は絶対に見たくない!


 だから、美しき『怒る女』朱里を見たいがために怒らせようとした。

 つまらないことで上げ足を取ったり、わざと勘に触る言い方でネチネチ嫌味を言ったりして、彼女を怒らせようと僕は必死だった。――だが、何を言われても耐えているのか、動じない、まったく怒ってくれないのだ。

 ちょっと、キッとした表情になるが思い直したようにヘラヘラした笑顔になってしまう。ああ、なんてことだ……そんな朱里を見る度に、彼女への愛情が冷めていく……僕が好きなのは怒った時に見せる、あの尖ったナイフのようななのだ。


 最近、僕の機嫌が悪いからと朱里が気を使って、家にきて自慢の料理を作ってくれるというのだ。

 朱里の手作り料理なんて楽しみ、嬉しくてスキップしたい気分だった。そして、白いエプロンをつけた朱里がキッチンに立って料理を作ってくれた。

 料理はオムレツとあさりのボンゴレ、シーザーサラダだった。心を込めて作ってくれた料理はどれも美味しくて大満足だった。

 怒っている彼女と一生幸せに暮らせたら――なんて、矛盾した夢を胸に描いていた。


「ねぇ、どう?」

 ヘラヘラしながら僕に料理の感想を訊いてきた。

 その最悪の笑顔を見た瞬間、ムカッとして皿をテーブルにひっくり返した。

「こんな、マズイ料理が食えるかっ!」

 その言葉に朱里の表情が固まった。僕を凝視したまま、静かな声で質問した。

「私の作った料理が口に合わなかったのかしら?」

 テーブルの料理を片付けながら、必死で怒りを堪えている樹里――。

「ああ、カップラーメンの方がずっと美味いさ」

 嫌味たっぷりに答える。

「――そんなに、私のことが嫌いなの?」

「ばかっ!」

 吐き捨てるように投げつけた言葉に、朱里は青ざめ、唇をギュッと結ぶ、瞳だけが異様にギラギラ光っている。

 おおー! これぞ怒りマックスの朱里の顔だ。

「あんたなんか、最低よ!」

 憎悪を込めて睨みつける。

 いいぞ! いいぞ! その顔だ。ゾクゾクしてきた。

「うるさい! このブスがぁー」

 もっと怒れ! もっと怒って、美しい顔を僕に見せてくれ。

「おまえみたいな低能な女はうんざりだっ!」

 思いっきり罵倒ばとうしてやったら、朱里はいきなりキッチンに走っていった。戻ってきた時、手には包丁が握られていた。

「そんなもの持ってきて、どうする気だ?」

「あなたのことが好きだったのに、本気で愛していたのに……」

「おまえなんか大嫌いだ!」

 ついに朱里の怒りが爆発した。

「許せない! 許せない! 許せない!」

 ヤバイ! 本気で怒らせ過ぎた。

 彼女は怒りで自制が利かない状態になっている。包丁を握ったまま突進してきた。怒りで燃える瞳で――ああ、神々しいほどに美しい。


 包丁が胸に突き刺さっている、僕は死んでしまうのか? 


 怒り狂った朱里に殺されるのなら本望だ! その美しい顔を心に刻んで死んでいこう。――だって僕は究極のドMだから。


「ああ……刺しちゃった。ゴメンね。あなたのことが大好きだったのに……。だから、何を言われても怒らないよう、ずーっと我慢してたけど……いつもの短気がでちゃった」

 死に逝く僕の耳に、最期の言葉が届いた。

「あなたのために笑顔の似合う女になりたかった」

 僕の愛する女は『デレ』はいらない、『ツン』だけでいいから――。


 胸に包丁を刺したまま死んでいる男の傍らで、『怒る女』は泣き崩れた。



                  ― END ―

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れんあい脳 泡沫恋歌 @utakatarennka

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