さよなら、星の王子さま。 ①

 あれから、ずいぶん時が過ぎていった。

 街の風景も人の心も変わっていくのに、封印された想い出は色褪いろあせず、今も私の心の中に棲みついている。

 星になってしまった、私の王子さま――。


 ふたりの職場と職場を結ぶ合流地点の鉄道駅、そのコンコースにある大型書店がある。

 私たちは本が好きだったので、デートの待ち合わせ場所は、いつもここと決めていた。当時、OLだった私は先にきて婚約者の彼を待っていた。急な仕事で待ち合わせに遅れることもよくあったが、駅構内の書店だと好きな本を見て回れるので遅れても気にならなかった。

 婚約者の深町秀之ふかまち ひでゆきは、小さな出版社に勤めていた。

 その会社は主に学校教材を扱う業務だったが、将来、小説家を目指す秀之は、書籍や文章に触れているだけでも満足なんだといっていた。それくらい彼は無類むるいの本好きだった。

 かつて私たちは同じ大学に通っていた。一学年上の秀之とは同じ文学部で『現代小説を読む』というサークルで知り合った。

 彼の文学への造詣ぞうけいは深く、太宰治、三島由紀夫、安倍公房といった日文学の巨星たちの作品をわかりやすく解説してくれる。『現代小説を読む』では、彼の語る文学論や作家たちの逸話いつわに、みんなで耳を傾けていたのだ。

 しかし日本文学だけではなく、海外の翻訳ものも好きだった。特に、サン=テグジュペリの〔星の王子さま〕が大好きで、小学生の時に祖母に買って貰った、その本を宝物のように後生大事に持っていた。サン=テグジュペリの〔星の王子さま〕は読む度に発見があるんだ。そこには感動とひらめきがある! 

 ――そう熱く語っていた秀之の笑顔を一生忘れられないだろう。


 あの日、一時間以上待っても秀之は待ち合わせ場所にこなかった。まだ携帯電話が普及してなかった時代だったので連絡がつかない。駅の公衆電話から彼の会社に電話かけたら「深町は帰宅しました」と告げられた。おかしいなぁーと思いつつ……さらに三十分ほど書店で待っていたが、結局こなかった。

 自宅に帰ってから、彼の自宅に電話したら「事故にあった」と家族から聞かされた。

 私は急いでタクシーで病院に駆け付けたが、どの病室には秀之の姿が見当たらなかった。ナースステーションにいた看護師に訊ねたら、エレベーターで地下に案内された、「なぜ? 地下室?」いいようのない不安で手足が氷のように冷たくなっていく、着いた場所は『霊安室』だった。

 地下にある小部屋には祭壇が設えてあり、そこに白い布を顔に被されて冷たい身体で秀之は横たわっていたのだ。私は信じられない状況に気が転倒して、彼の遺体に縋りついて、ただ大声で泣き叫んでいた。


 会社を出て、駅に向かう途中の横断歩道を青信号で渡っていた秀之を、右折してきたノーヘル二人乗りのバイクが撥ね飛ばした。道路に激しく叩きつけられて倒れていた彼を見捨てて、二人組はそのままバイクで逃走したという。

 事故を目撃していた通行人がすぐに119番通報をしたが、病院に搬送する救急車の中で彼は息を引きとった。――死因は頭部打撲による外傷性くも膜下出血だった。

 通行人の目撃情報から数時間後に犯人は捕まったが、盗んだバイクを乗り回していた未成年者たちだった。

 小説家になる夢を抱いて、本を読み、小説を書き、文学賞の公募にも頑張ってきた秀之――。将来を嘱望しょくぼうされていたのに……そんな彼の夢と命を暴走していた少年たちが一瞬にして奪ってしまった。やり場のない怒りと堪えようのない悲しみで、私は壊れてしまいそうだった。

 半年後には結婚式を挙げる予定だった私たち――本来ウエディングドレスを着るはずだった私は喪服に身を包み、一生の伴侶たる人は遺影になっている。人はこんな深い喪失感をどうやって埋めていくのだろうか。――私にはそんな術がない。

 婚約者のお通夜、葬儀を終えてから、しばらくして彼との思い出の詰まったこの街を私は出ていこうと決めた。形見に貰った、秀之の愛読書サン=テグジュペリの〔星の王子さま〕だけを、この手に持って……。


「ママ、この本買って!」

 六歳になる息子が書店の棚から本を持ってきた。

「あら? その本はうちにあるでしょう」

「僕は新しい〔星の王子さま〕が欲しいんだ!」

 息子は怒ったように口をヘの字にした。この子はどこか強情だ。


 街を出ていった三年後に心ならずも結婚した。一生結婚しないで亡くなった婚約者との思い出を胸に抱いて生きていくつもりだったが、独り暮らしの孤独感に圧し潰されそうでもう限界だった。そんな時、今の夫と出会った。

 当時、勤めていたデザイン事務所の取引先の社員だった人で、いつも独りぼっちで暗い顔をした私に興味を惹かれたようで、親切に食事や映画に何度も誘ってくれた。

 最初は頑なに断わっていたが、彼の明るく屈託のない笑顔と押しの強さに負けて付き合うようになり、ついに深い関係にまでなってしまった。

 夫にプロポーズされたが、亡くなった婚約者のことが忘れられないので、あなたの気持ちは受け止められないと何度も断わってきた。それでも君のことが好きだという夫の言葉に甘えて関係を続けていたら、彼の子を身籠ってしまった。

 内緒で妊娠中絶しようかと迷っていたが、ぐずぐずしている内に月が満ちて堕胎だたいできなくなってしまった。

 仕方なく妊娠したことを告げたら、すごく喜んで結婚式を挙げようと話がとんとん拍子に進んでいった。しかし、私は結婚式の前日まで躊躇ちゅうちょしていた。――本当は愛していないのに結婚するのは人を騙すようで後ろめたかった。

 若くして非業の最期を遂げた婚約者のことを思うと、私だけ幸せになってはいけないのだという罪悪感もあった。

 けれど子どもは欲しかった、シングルマザーで育てる決意がつかず、お腹の子の父親である夫に縋ってしまった。

 結局、結婚して息子が生まれた。


 いままで夫の転勤先のアメリカに住んでいたが、息子の就学前に日本へ帰ってきた。息子を連れて実家へ里帰りする途中の乗り換えする駅。つい懐かしさで、昔、婚約者と待ち合わせた鉄道駅の書店に立ち寄った。

 あれから十年経っていたが、店内はほとんど変わっていない。通勤帰りのサラリーマンや学生たちで店内は賑わっていたが、本を買う人はわずかで、立ち読みや雑誌ばかりが売れているみたい。

 死んだ者はもどってこない……そんなことは分かっている。いつも心の中で彼の存在を求めて、街ゆく人々に中に、あの日の彼の幻影を追っている。

 ――私の心は、今も十年前の婚約者をここで待ち続けていたのだ。


 ふいに息子の声が私を現実にたち戻す。


「ママの〔星の王子さま〕はボロボロだからもう捨てよう」

「ダメよ。あれはママの大事な〔星の王子さま〕なのよ」

「だって、あの本を見ている時のママは悲しそうだから、僕はイヤだ!」

 今でも婚約者の形見の〔星の王子さま〕を時々読んでいるが、彼を思いだして涙ぐむこともある。そんな自分を息子は見ていたのだ。

「ママはいっつも見えないとしゃべってるんだもん」

「えっ?」

 息子の言葉が胸に突き刺さった。

 この子は私の過去を知らないはずなのに……幼い目で私の中にいる《だれか》をちゃんと見抜いていたのだ。――そのことに驚かされた。


 夫は本を読まない。スポーツとカラオケが好きで、仕事ができる、人望も厚い。子煩悩で家族思い、バイタリティー溢れる男だ。ロマンはないが生活者としては申し分ない。――それなのに、この夫に満たされなかったのは死者への幻想が捨て切れない私のせいなのかもしれない。

 ある夜、夫婦の営みの後で夫に背を向けて眠る私に……。

「俺はいつまで経っても、君の死んだ婚約者には勝てないのかなあ?」

 溜息交じりに夫が呟いた。

 私が一度も本気で愛していないことを分かっていたのだ。夫の愛を拒み続けていたから、ずっと寂しい思いをしていたのであろう。

 突然、愛する者を喪ったトラウマのせいで、私は愛することが怖くなっていた。夫に対しても息子に対しても、どこか愛情をセーブしてしまうのだ。


「ウワバミってなぁに?」

 書店の〔星の王子さま〕のページを捲っていた息子が訊く。

「大きなヘビのことよ」

「ゾウなんかのみこんだら、お腹がふくれて動けないや」

「そうね。こなれるのが苦しいでしょう」

 ゾウを吞み込んだウワバミって?

 死んだ婚約者との想い出は、大きな塊となって、私の心の中に残っている。いつまで経ってもこなれないまま苦しめ続けているのはたしかだ。私という容れ物はそのせいで、他の物を容れられなくなってしまっているのだから――。

 息子とのなに気ない会話がズシンと心に響いた。

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