れんあい脳

泡沫恋歌

貧乏神 福の神 ①

「おまえとは別れる」

「えっ! なんで?」

 昨夜、私の部屋に泊まりにきていた男が朝おきて一番にそんなことをいい出した。

「おまえは貧乏神びんぼうがみだ!」

「……どういうこと?」

「俺たち付きあって一年ほど経つよな? その間に俺はロクな目に遭わない。車で二回事故ったし、スピード違反と駐車違反で三回も違反切符を切られた。マンションには空巣に入られたし、酔って転んで腕骨折して医療費かかった上に、上司と喧嘩して会社までクビになった。おまけに八年も飼っていた金魚が昨日死んだんだ」

 そんなことを一気に男はまくし立てた。

 それって、全部自分自身が原因なのに、どうして私が貧乏神なんだろうか? 散々ないわれ方に私は言葉を失った。 

 思えば……夕べ、ベッドの中でずいぶん丹念に愛撫してくれたのは「お別れH」のつもりだったの? 最近、機嫌が悪くてなかなか会ってもくれなかった男なのに、急にやってきて、なんだか様子がオカシイと思っていたが――。

「……だって、そんなの偶然よ」

 私がそういっても、

「いいや! おまえと付きあい始めてから俺に悪いことばかりが起きる。おまえは貧乏神だ! だから縁を切るんだ」

「ちょっと! そんないい方はあんまりじゃない!」

「おまえとは別れる俺の意思は固い! 貧乏神の女に付きまとわれるのは真っ平なんだ! じゃあな」

 一方的にいいたいことをいうと、私の部屋の鍵を置いて男は出ていった。

 その後、電話をかけても、メールを送っても返事はなく、その内に携帯を変えたのか繋がらなくなってしまった。一応、男の家は知ってはいたが、ここまで嫌われているのに……押しかける勇気はもはやなかった。これ以上、惨めになりたくない。

 泣いて縋りたいほど、好きでもなかったのかもしれない。自己中な男だったし……。もういいやと諦めた。

 ――小早川智美こばやかわ ともみ、三十一歳と三ヶ月、何度目かの失恋をする。


 あながち『貧乏神』だといった男の言葉は外れていないかもしれない。

 たしかに、私自身も貧乏だし、実家も決して裕福ではない。高校を卒業してから働いた会社が倒産したり、次に就職した会社では不況でリストラされたりして、今では人材派遣の会社に登録して細々と生計を立てている現状なのだから。

 最後の望み結婚の夢も断たれた今は……。もうわらうしかなかった。


 前の会社との契約が切れたので、今週から新しい職場に派遣される。

 特に資格や技能のない私は、工場などの現場作業が多い。お金が少しでもよければ、3Kだろうが、ブラックだろうが、文句などいってられない。生活のために働くしかないのだから。

 今度の派遣先は大手家電メーカーの協力会社だと聞いている。まあ、いわゆる下請け会社のことだが、大手家電メーカーからの資金も入っているので仕事は安定しているようだった。

 ここでの仕事はベルトコンベヤーから流れてくる電気部品の検査の仕事だった。単調な仕事だけれど、やたらと目が疲れるし肩も凝った。毎日々、同じ仕事でうんざりするが文句もいえず、淡々とこなしている。

 この職場は自宅から自転車で二十分ほどでいける距離なので近くて便利だった。


 派遣はパートに比べると時給が高い。だから、パートのおばさんたちに露骨ろこつにイビられたりする。けれど、その職場で嫌われたら、なんだかんだと難癖をつけられて派遣だからと、すぐクビを切られてしまう。そうならないように、目立たないように、挨拶もきちんとして真面目そうに見えるように、職場での好印象には気を配っていた。

 あの日、男から『貧乏神』といわれてから、すべてに自信が持てなくなってしまい、すっかり委縮した人間になっていくようだった。

 職場には手作り弁当を持っていって、少しでも食費を浮かすために社員食堂では絶対に食べない。ロッカールームでひとりお弁当を食べ終えたら、少しでも早くに現場に戻り、午後からの仕事の準備を始める。パートより多く仕事をやらないと「給料泥棒」陰口を叩かれることは分かっているから……。


 その日もお弁当を食べ終えて、現場に戻っていったら。

 窓辺のブラインドを開けて男がひとり、なにかモソモソやっている。どうしたのだろうかと通路を通りかかった時にチラッと見たら、指にトゲが刺さったようで、陽の光にかざしながら爪で抜こう悪戦苦闘している様子だった。

「大丈夫ですか?」

 思わず声をかけてしまった。

「ああ、爪のあいだに金属部品のバリが入ったみたいで痛くて……」

 そういって、顔をしかめながら指の皮をめくっていた。

 その人はこの会社の品質管理課の主任で、たぶん三十歳を少し過ぎぐらいだと思う。ハンサムではないが、温厚で清潔な感じがする人物だった。

 ところで、バリというのは金属の部品に付いている切断の時にできる金属の破片のことで、針のように尖っていて、うっかり素手で触るとよく刺さるのだ。しかも深く刺さると自分ではなかなか抜くことが出来ないのである。

「あのう、ちょっと待ってください。私、トゲ抜き持ってますから……」

 トートバックから裁縫セットを取り出すと、

「トゲ見えますか?」

「うん。黒いのが見える」

「取ってあげます!」

 主任の爪のあいだにトゲ抜きを差し込んで一気に抜いた。

「痛い!」

 抜く時、思わず声をあげた。

「取れましたよ。これ!」

 トゲ抜きの先に、取れた金属片が光っていた。

「ありがとう! やあ、助かったよ。トゲがチクチク痛くて仕事ができなかったんだ。ずいぶん深く刺さっていたんだなあ」

「バイ菌が入らないように消毒してくださいね。では、失礼します」

 それだけいって、立ち去ろうとすると、

「君の名前は?」

 背中を追いかけるように主任の声がした。私は振り返って、

「は? 派遣の小早川です」

「小早川さん、恩にきるよ」

 にっこりと主任が笑った。 少年みたいな無邪気な顔になった。

 私の作業服にネームプレートを付けているのに、わざわざ名前を訊くなんて……。もう一度、振り返って見たら、まだニコニコしながら、こっちを見ている。ヘンな人。

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