白い建物は温かな陽光に照らされて、滑らかな表面が鏡のように輝いている。森で聞こえていた鳥の声や枝葉のそよぐ音を遠く聞きながら、建物を回りこむ。真っ白なさいころには、森の道からほぼ反対側に位置する一面にだけ扉がある。焦げ茶色の木の扉を叩いてしばらくすると、サティーが顔を出した。

「どうぞ。入ってください」

 ほほえんで、道を空ける。扉を閉めると、サティーは先導し始めた。以前に歩いた時と何も変わらない、飾りのない長い廊下だった。

「あなたの望みは、見つかりましたか?」

「うん……。でも、うまくあの人に聞いてもらえるか、わからないよ」

「きっとうまくいきますよ。私もできる範囲で、こっそりとお手伝いします」

「ありがとう、サティー」

 二人は無言で廊下を歩いたが、やがてアロイスはサティーを引きとめた。まだ扉からは遠いところで、帽子と引き換えに願うこと、オフェリアの指輪のことをサティーに打ち明ける。指輪のくだりで、サティーは笑い始めた。美しい発音をして、涼やかに話すサティーの声が珍しく乱れて、息のすべてを使って笑うような、無邪気な声を上げた。

「オフェリア! 彼女は退屈だと私にもよく話していましたが、彼女の退屈しのぎのおかげで、私まで退屈しないでいられます。素直にさせる魔法の指輪! 素直! すばらしい!」

 盛大にはしゃぐサティーは、呆気にとられているアロイスに向き直った。

「オフェリアは今まで、ズロガートさん自身や村の不変について数多の発破を仕掛けてきましたが、この指輪はその中でも、最高といってもいい傑作です。これは期待できそうです。アロイス君。この変化の芽を育ててくれて、感謝します」

「いや、僕は何も……助けられてばかりで……」

 表情を曇らせるアロイスに、サティーは笑うのをやめて、いつものようにほほえんだ。

「あの帽子を被ったでしょう? いつも被っていないからと言って、帽子をしまいこんでしまっていたら、こうはなりませんでした。オフェリアが種を蒔き、ドロテアさんが育てた芽を、あなたが受け継いで育てたんです。ベアタさんと編み物の話をし、ヴィク君とヴァルド君と都の話をしましたね。変化の小さな波紋は、彼らにも及んでいます。予定外のことを通して、相互に変化の波紋を投げ続けているんです。確かに、あなたが全てを成したわけではありませんが、この出来事を動かす一員であることに、違いはありませんよ」

「どうして僕たちの話のこと、知ってるの?」

「村でのことは、庭番が何でも教えてくれます。彼らは皆、時には動物に姿を変えて……。そのための庭番ですから」

 アロイスは小さく首を振って、まだ遠い扉を見た。人に助けられてばかりなのは、それだけ彼らが目を光らせていたということでもあるのだろう。

「指輪を、どうしたらズロガートに着けさせられるかな? 何かいい案はない?」

「残念ながら、私から頼むのは難しいでしょう。かえってへそを曲げてしまいますから」

「そうなんだ。じゃあ……やっぱり真正面から、やってみるよ」

 不安げなため息を聞いて、サティーは少し考えた後、口を開いた。

「アロイス君。もしうまくいかなかった時、試していただきたいことがひとつ、あります」

 片目をつぶってほほえむと、サティーはアロイスに耳打ちをした。聞き終えた少年は、恐ろしげに身ぶるいする。

「そんなことして、大丈夫なの?」

「私はこうすることを、最後の手段として考えていました。オフェリアもそのために、お膳立てをしているはずです」

「でも……」

「大丈夫ですよ。これならば何が起こっても、最後にはうまくいきます」

 恐怖を振り払うように、大きく首を振っているアロイスの肩に手を置き、真剣な面持ちでサティーは続けた。

「庭番たちから聞いたところ、あなたも夏の夕涼みのお芝居に出ていますね」

「う、うん。みんなが出るからね」

「念のため本人に確認しますが、何の役を?」

「……隠居する王様をいじめる姉妹の、妹の方。ねえ、まさか最初から……」

「すばらしい! あの名作! お芝居で経験済みとは、私の助力など出る幕もありませんね!」

 アロイスにはサティーが理解できなかった。少年の尻込みを押し流してしまうように、サティーは彼の手を取って握った。

「いいですか。この案で重要なのは、いかにズロガートさんを怯えさせるかです。おそらく彼が泣き出すであろうほどの行為を、あなたに頼まなければならないことは、お詫びします。もちろん、演技で構いません。あなた自身が実際に非道である必要はないのです」

「演技はともかく、本当に刺すなんて……。やっぱり、できないよ」

「私があなたにお願いしたのだということを、どうか忘れないで。私の体はすべて、部品が壊れても、修理と交換ができます。傷ついても痛みません。オフェリアが、あなたにナイフを持たせたでしょう?」

 サティーの目は穏やかだが決意は固く、他者に刺してもらうなどという行為自体を、得体の知れない、何か別の意義を見出して期待していた。その美しい緑の目はまっすぐに、ポケットに忍ばせた小刀に向けられている。背筋の凍ったアロイスが後ずさると、サティーは気の毒そうに少年を見た。

「確かに、最終的に決断を下して行動に移すことができるのは、あなたにしかできません。私には強制することも、約束させることもできません。ただ、あなたが考えるより多くの手段が存在することを、心に留めておいてください」

 さんざん渋った末にようやく小さくうなずいたアロイスに、サティーは満足そうにほほえみかけると、再び廊下を歩き始める。

 扉の前に立って、サティーは振り返った。

「気になっていることや、相談しておきたいことは、もうありませんね」

 アロイスが黙ってうなずくと、サティーは真鍮の取っ手に手をかけた。



 扉の向こうでは、部屋を真ん中で隔てるようにして光の幕のようなものが展開していた。よく見るとそれは、無数の小さな、光る硝子の窓のようだった。薄絹にも見える窓それぞれの中でせわしなく何かが動き、びっしりと書きこまれて白く燃える文字が、勝手に現れては消えていく。月明かりに似た青白い光が、部屋を暖める炎の橙色を塗り替えていた。眩しい蒼白の幕の向こうに、ソファに座るズロガートの姿が見える。彼は部屋に入ってきたサティーとアロイスに気がつくと、虫を払うようにして小さく手を振った。無数の窓が瞬きの間に消え、部屋は少し暗くなり、橙色の明かりが部屋を塗り替えた。

 ズロガートは白いシャツに灰色の毛糸のベストを重ねて、くつろいだ様子だった。サティーが扉を閉めてアロイスのそばを離れ、ソファに腰を下ろした。

 ズロガートはどこへともなく視線を落としながら、おもむろに口を開いた。

「過去にも、何度かこのようなことがあった。オフェリアの手出しもあったが、私がどれほど腐心しても、ここの人間は何かしらの取引材料を得て私のところへやってくる。お前の親しい者で言えば、牛乳屋の娘……の妹も、ここまで来たことがある」

「ベアタが?」

「三十年ほど前、先代のベアトリクスだ。何をもって取引したかは忘れたが、彼女に知識の蓄積を許した。その他の記憶は消すこと、他言しないことを条件に。学校で教わることや、三冊の百科事典ごときでは飽き足らなくなった彼女の求めに応じて、教師に解禁していた知識の水準を引き上げ、他の箱庭の語学教本を二百ほど与えた。今はまだ未習得の教本が残っているらしくおとなしいが、知に飢えればまた、何らかの手を見出してここへ来るだろう」

 アロイスは愕然とした。学校の教室で見る彼女は、その日学んだことに飽かず目を輝かせる少女だったからだ。家業の手伝いの合間にいったいどうして、それほどを学ぶ時間を捻出するのだろう? 彼女がくまを作っているところなど、見たことがなかった。

「お前の両親もそうだった。息子を生かす代わりに、父親は家を離れ、母親は夫の思い出を封印すると自ら決めた。さて、アロイス。お前も、彼らに恥じない取引をしてくれるだろうね」

 アロイスは部屋の入り口からまだ動かず、靴の泥に目を落とした。ポケットに手をつっこんで立ち、決断をする前に最後とばかりに、廊下でのサティーの話を考えていた。やがて鞄から帽子を取り出すと、守るように胸に抱いた。ズロガートはあいかわらずの、心ここにあらずという笑みで、小さく首を傾げて返答を促した。アロイスは深呼吸をする。

「僕は……家族と一緒に、この村で思い出を作って生きていきたい。このお願いを聞いてくれるなら、この帽子をあなたに渡そうと思う」

 そう言い終えて、ズロガートを見る。彼はあきれたように天井を仰ぎ見て、うんざりしたように疲れた笑みを浮かべていた。

「うまく考えたが、欲張りな願いだな。その中のどれかに絞ったらどうだ?」

「これ以上はどれも捨てられないから、お願いしてる」

 言葉に祈りを込めて送り出す。ズロガートの灰色の目を見つめても、それはアロイスの理解の及ばない、遠く深いどこかへと向けられていた。

「でも、本当に約束してくれるの?」

「お前が帽子を持ってきた以上、取引には応じるつもりだ。私としても、伐採の手間も省ける。信じるも信じまいもお前の勝手だが、私は詐欺じみた恥知らずな真似はしない。サティーが立ち会っていることに感謝するんだな」

 アロイスは安堵の息をついた。少なくとも、この願いだけは聞き入れられるようだ。胸に抱いていた帽子を見納めて、今度は別れのため息をつく。

「じゃあ、帽子を渡すよ。母さんが作ったものだから、大事にしてくれたら嬉しい」

「私のことを、そんなものに価値を置く人間に見るな」

 アロイスは笑みが浮かびそうになるのを必死で抑えこんだ。庭番たちやサティーから聞いていた彼の人となりは、アロイスにとっては信じ難かった。しかし意外なほど些細な言葉の端々から、彼の実態は、語られた彼の姿へと重なっていってしまう。

「少なくとも、サティーのことは大事にしてる。あなたの良心に期待してるだけ」

 帽子を手に、アロイスは部屋の中央へと踏み出した。ズロガートのそばまで来ると、席を立った彼に帽子を差し出した。彼は疑り深くアロイスを見つめていたが……やがて帽子を手に取る。手を離れた帽子を切ない思いで見送りながら、もう一度、口を開いた。

「これはお願いじゃなくて、提案なんだけど」

 ズロガートは動きを止めて目を上げた。二人はまだ、互いに手の届く緊迫した距離にいる。アロイスはポケットから、紐を解いた指輪の片方を取り出して、彼に見せた。

「サティーの望みのこと。僕のお願いを聞いてくれるんだから、お礼に代えて、それに僕の願いのためにも、あなたに教えてあげたい」

「いや。やっぱり結構だ。いいから早く帰れ」

 指輪を見て不穏な予感がしたのか、ズロガートは早くも踵を返す。アロイスはすかさず彼のシャツの袖を掴んだ。つんのめった彼は、憎々しげに振り返って腕を払ったが、アロイスは手を離さなかった。

「何を考えている? 礼など無用だ」

 わずかに動揺するズロガートに、アロイスはたたみかける。

「サティーは、あなたとこれからもずっと、そばにいたいと願ってるんだ。この指輪は、あなたのための指輪。これを着けると、あなたは素直になるんだって。受け取って」

「待て。やめろ……何だ、その指輪は?」

「オフェリアが作った、魔法の指輪だよ。あなたが素直になってくれれば、皆が幸せになれる。……オフェリアって、そんなことができるの?」

 ズロガートは後退する力を緩めず、鼻で笑った。

「魔法! 魔法の魔も知らぬくせに、おこがましい。いいか、彼女にできるのは魔法じゃない。私が教えた暗示とマインドコントロールだけだ。先代が何か要らぬことを仕残したか、時に予知夢まで見るようになったらしく、面倒なことこの上ない。……そうか。彼女の入れ知恵か。だが、諦めた方が賢明だ。その指輪に力はない」

「……やってみなきゃ、わからない!」

 静かな力比べとなり、サティーは手出しはせず、二人の間で腰を下ろしたまま見守っている。ズロガートは嫌悪に食いしばった歯の間から、苦い声で言う。

「私の機嫌を損ねない方が得策だと思わなかったのかね?」

「あなたは約束を守ってくれる。サティーが証人だもの。反故にできるはずないよ」

 ズロガートは苦々しく舌打ちをして抵抗するが、アロイスは構わず続けた。

「正直に言うと、とても不愉快だった。こんな単純なことを――家族で一緒に暮らして、変化と思い出を積み重ねていく生活を、どうして改まってあなたにお願いしなきゃいけないんだろう? だから僕なりに考えた。今、あなたが僕の願いを叶えてくれるだけじゃ、だめなんだ。まだ、あなたには逃げ道がある」

「約束はしただろう。疑うなら村ででも勝手にしていろ、私にやつあたりをするな」

「サティーがここで一人ぼっちでいる限り……あなたはまた、ありもしないサティーの心変わりが恐くなる。そしてまたいつか、皆に変化を禁じるんだろう」

 掴んだ袖は、奇しくも左手だった。アロイスはもがく彼の手首を掴み、薬指に狙いを定めた。火傷でもするかのような勢いで臆病に引っこめられる手を、欝憤が晴れるほど容赦なく、力いっぱいに引き寄せる。

「だから、結論から言うと……あなたたちが一緒になればいい。サティーをあなたの所有物でなく、例えば伴侶として認めて、いつも一緒にいればいい。あなたへのサティーの愛情が変わりないことを、知ってほしい。こんな幸せな変化を拒んでいるのは、あなただけだ」

 もみあいで揺れる視界の中、指輪がアロイスの手を離れた。ズロガートは身をもぎ離すと、背後の壁にくっつくほどに後ずさり、不気味で不潔なものを見る目でアロイスを睨んだ。指先にわずかに嵌った指輪を鷲掴みにして引き抜くと、忌々しげに床へ投げ捨てた。憤りからか、もみあいのせいか、息を荒げて吐き捨てる。

「結婚など形ばかりの代物だ。私とサティーの関係にも必要はない。侮辱は許さんぞ」

 指輪はアロイスやサティーのすぐ足元で、絨緞の上で煌めいている。アロイスは唇を噛み、脳裏を浸蝕する失意と後悔を振り払うと、指輪を指さして、頑なな男に声を上げた。

「それなら、この指輪を嵌めてサティーへの愛情を認めることくらい、平気でしょう」

「愛情? 作品として大切にしている。それ以上でも、それ以下でもない。私も、サティーも変わらない。間柄も感情も変わらない。いいか、この話は終いだ。もう一度でも蒸し返せば、お前は先の取引を自分で反故にすることになるぞ」

 ズロガートは踵を返し、ソファや机の間を大股にすり抜けて、奥の扉へと向かった。アロイスは心の中で、サティーに謝った。終始、静観していたサティーの背後に回りこみ、扉を開けて部屋から消えようとしていたズロガートを呼び止めた。ポケットに忍ばせていた包みから小刀を出し、布を床へかなぐり捨てる。振り返ったズロガートが束の間、動きを止めて言葉を失った。

「ごめんなさい。やり方を変えなきゃ」

 検討も予測もつかないで過ぎる一瞬一瞬に、めまいがした。サティーの背後から肩に手を置き、片手で小刀をちらつかせる。父が語っていた未来が恐ろしくなり、サティーと打ち合わせた筋書きに縋りながら、アロイスは自己嫌悪した。ズロガートは後ろ手に扉を閉め、今はまだ静かに、烈しい憎悪を滾らせた目でアロイスを射竦めて……。

「キャー」

 冗談のような悲鳴が小さく上がり、アロイスとズロガートは等しく、びくりとして声の主を見る。二人の動揺を置いてけぼりに、サティーは目を輝かせた。

「人質ですよ、ズロガートさん! 人質! いつぶりでしょうね! 思い出せばズロガートさんも若かった、酔った勢いで愛読書へ熱烈な敬意を表し、外のさらに外の外の宇宙とかいう世界で地球製のクレジット・カードを……」

「待て、やめろ」

「はい」

 即座に口を噤んだサティーの肩が、押し殺したように震えていることを、アロイスは掌で感じた。もちろんそれは恐怖の震えではなく、ほほえましい思い出を追体験しているからなのだろう。気を取り直して小刀を握りしめるアロイスに、ズロガートは声を投げた。

「そんなことをして何になる? お前の親が悲しむぞ」

「サティーを傷つけられたくなければ、指輪を嵌めて、サティーのことが好きだって、認めるんだ」

 床に落ちた指輪には、ここからは手が届かない。サティーの肩から離した手でポケットを探り、残りの指輪を取り出した。

「サティーはあなたのことが大好きなんだ。心変わりしない。あなたから離れたりしない。信じて、自由にさせてあげて。そして……二人で、ここから出て行ってほしい。僕たちのことも、放っておいてほしいんだ」

 ズロガートは苦り切った表情で、探るようにアロイスを見つめている。

「あなたは本当に変な人だ。心変わりを恐れるなら、いつもそばにいればよかったんだ。あなたが欲しかった変わらないものは、いつもここであなたを待ってたのに」

 言葉が届いてくれるよう、祈る気持ちで少しずつ紡いだ。事情は詳しくは知らないが、変化を嫌う彼にそれを求めるということがどれほど残酷で、身勝手なことであるかということは、アロイスにもわかっていた。しかし彼に求める変化は、たったひとつの小さな変化――すでに起こった変化を認めることだけだった。幸せを得るための小さな痛みを強いることは、それでも当人には拷問なのだろうか? ズロガートに対しても善かれと信じていることは、尊大なお節介なのだろうか? アロイスは迷い始めた。

「私は変わらないし、この箱庭も変わらない」

 感傷的なためらいも束の間、苛立ってきた。こんな石頭は知らない! 彼は、雨の降らない土地を求めて裸で家を飛び出し、ずぶ濡れで凍えながら、雨雲を憎んでいる!

「残念だけど、傍目からも明らかなんだ。あなたのことを知らない僕から見ても、明らかだ。変わらない友情がないだなんて。サティーがいるじゃないか。それが愛情に変わったからって、何を恐れてるの? 孤独を選んだつもりだろうけど、あなたは素直じゃないだけ。灯台元暗しって言葉、僕は灯台は知らないけど、あなたにお返しするよ」

 ズロガートは憎々しげにアロイスを睨んでいる。一歩も近づいてこないのは、やはりサティーの身を案じるがゆえだろう。アロイスは、ここで彼が折れてくれたらと祈った。

「……サティーを放せ」

「まだ答えを聞いてない」

「放すんだ」

「できない」

「……ズロガートさん」

 小さな声で、サティーが彼の名を呼んだ。弾かれたように顔を上げたズロガートは、アロイスが見ていた彼からは信じがたい、途方に暮れた目をしていた。何も言わずに彼を見つめるサティーを食い入るように見、しかし彼は眉根を寄せて顔を伏せた。

「私にはできない。サティーを愛しているなど。認めない」

「ズロガートさん……」

 サティーの声はか弱い。アロイスからはその表情は窺えず、銀色の後頭部がほんのわずかにうなだれたのが見えるだけだった。サティーの呼びかけだけが彼を追い詰めたかのように、彼は吐露し始めた。

「変化を認めれば、もう終わりだ。人も物も環境も寄ってたかって、どこからでも侵蝕しようとする。変化にたやすく靡いて憚らない者どもは、何よりも厚かましい。不潔な病菌め……隙を見せれば、たちまち私の無菌室を侵してしまう。一度でも侵されたものは元には戻らないのだ。この箱庭がどれほど清潔か、お前たちは知らない……戦争も貧困も謀略も、嫉妬も殺人も姦淫も知らないでいるのに。だから私は、私自身の変化も、この箱庭の変化も認めるわけにはいかない」

 ズロガートもまた同様に、譲らないようだった。過去、彼にいったい何があったのかは、やはりわからない。アロイスはもう一度、心の中でサティーに詫びた。握った小刀の柄は汗でじっとりとぬめり、木製の表面は湿って生暖かかった。からからに乾いた舌を叱咤し、アロイスは絶望的な気分で口を開いた。

「あなたがそう言うなら、僕にできることはもう、これだけだ」

 片手に持っていた指輪を、絨緞に落ちたままの指輪のそばへそっと落とし、その手で背後からサティーの瞼を手探りした。二つの指輪は、サティーの足元に並ぶ。

「僕がもっとうまくやれてたら……。ごめん。サティー」

 サティーの頭を抱えるようにして、小刀を逆手に持って小さく振りかぶると、ズロガートが帽子を捨て、駆けだすのが視界の端で見える。この部屋へ来る前、廊下でサティーが指定したように、アロイスはサティーの目を刺した。

 眼球は驚くほど柔らかく、甘くゆでた卵のように小刀が突き立った。硬い眼窩に刃が当たり、背筋が凍りそうな手ごたえを、アロイスの掌へと返した。二、三度、サティーは激しく痙攣すると、ゆっくりと首を垂れた。アロイスは小刀から手を離し、震える両手を握りこみながら、何も考えられずに後ずさった。

「サティー!」

 間に合わなかったズロガートに、突き飛ばされるようにして押しのけられ、アロイスは尻餅をついた。尻餅の痛みも、ズロガートの力の強さも、衝撃として以外は何も感じられず、サティーと、そのそばに屈んで肩を抱くズロガートの背中をただただ見つめていた。恐怖に震えが止まらない手足でかろうじて立ちあがると、サティーの頬を、何か液体が勢いよく滴り落ちているのが見える。ズロガートは声を荒げて何度もサティーの名を呼び、肩や背中を撫でるようにして抱きかかえている。

「何てことを! サティー、お前が仕向けたのか? 痛覚があることを、奴に教えなかったのか? 返事をしろ、おい……!」

「……」

 サティーは何も言わず、背中を丸めるように深く俯いている。激烈な痙攣を繰りかえし、そしてその度に、ぼたぼた、ぼた、と絨緞に滴る液体の音が、アロイスにも聞こえた。

「……痛みが……?」

 愕然と呟くアロイスをズロガートが振り返り、憎悪を隠さない目で冷厳に見据えた。彼の手はシャツの袖まで、白くとろりとした液体に濡れて光っている。

「そうだ、この大馬鹿! サティーは見かけよりずっと、繊細に出来ているんだ。特に目は……いや、お前にはわかるまい。最も脆い目を狙うなど、おおかたサティーが入れ知恵したんだろうが、もし眼窩の奥まで傷つけていれば……」

 ズロガートさえ言い淀むほどの様子に、アロイスは戦慄した。ズロガートは言葉を切り、怒りのやり場もなくやるせない表情で、屈んだままサティーの顔を覗きこむ。うなだれた姿勢のまま今も動かないサティーは、ただ片手を目に当てており、指の間から、白い頬と白い掌の間からは絶え間なく、とろとろと真珠色の液体が流れ続けていた。ズロガートは言葉なく、手や衣服が濡れることも厭わずに、サティーの手や頬を撫でた。この上なく愛おしげに、優しく……。やがて、彼は口を開いた。

「……脳と、眼球の間に、サティーの視覚記憶媒体がある。視神経と、複雑で脆い感情表現の回路と共に。見たものを見た通りに、純粋といってもいい品質で記憶できるようになっている。サティーが初めて起動してから、サティーが見た通りの世界の映像がここにある。視覚記憶媒体は目と同様ふたつに分けてあるが、一方が壊れたら、サティーは見たものの記憶の半分を失うだろう。これがどういうことか、わかるか」

 アロイスの答えも理解も、何も期待せず、彼は続けた。

「五感のいずれにしても、記憶を失った分、サティーの人格も、表情も、同じだけ失われる。こればかりは、代えがきかない。学習を要するものだから」

「どうしてそれを言わなかったんだ! 痛みのことも、記憶のことも……」

「言うわけないだろう!」

 サティーのそばへ駆け寄ったアロイスに、彼は激昂した。びりびりと壁に反響した声が消え入ってから、ようやく彼は、濡れた自分の手に目を落とした。白い滴がゆっくりと、手首を伝って絨緞へ落ちていく。

「代えがないと認めてしまえば……失う時、どうすればいいというんだ」

 滴を追って足元へ向けた目を上げて、再びサティーを見つめる。

 アロイスは初めて間近で、サティーの状態を目にした。片手を傷ついた目に当て、無事な目は引き攣って麻痺したように、何を見るともなく大きく見開かれて、一度たりとも瞬きを見せない。あんなにめまぐるしく煌めいていた美しい緑色の目は、虚空を見つめて硬直している。痙攣の発作に襲われる度に、目に宛がわれた手の下から白い液体が溢れてきた。目に突き立ったままだった小刀は、ズロガートの足元で見つかった。アロイスに再び手に取るつもりは毛頭なかったが、視線を追ったズロガートが、小刀を手の届かないところまで蹴り飛ばした。アロイスは拳を握りしめた。

「サティーの記憶がどれほど大事かを知ってて、僕たちの記憶を消してたの……?」

 ズロガートは答えなかった。返事がなくとも、アロイスには薄々わかっていた。彼には、おそらくサティー以外に大事なものなど存在しないのだ。他者への思いやりや愛情を持たないわけではない。誰もが持つ他者への情の濃淡を、彼は一途に、潔癖に、サティーにだけ傾けている。その潔さ自体は、非難されるべきものではなかった。

 だからアロイスは、サティーの傷に対する罪――自分の決断と行為の結果に関して、自身を責めるしかなかった。どんな手を使っても、償わなければ人ではない。たとえ、嘘や秘密に翻弄されたのだと知ってしまった後でも。目元を熱い滴が流れ落ちた。それでは、村人すべての過去と未来に対する罪は、いったい誰が償うのだ?

 沈黙の中、サティーの痙攣は次第に治まっていった。小刻みに震える顔をわずかに持ち上げたが、やはり目は見開いたままで、言葉を発しない。ズロガートは根気強く、サティーの顔を見上げている。

「何ということを……。サティー。なぜ私は、あんな村を大切になどしてやらねばならない? お前にこんなことができる者の村を? ここには存在しなかった暴力まで覚えてしまった。頭の中を大掃除してやった方が、よほど良いに決まっている。サティー、目を覚ましてくれ。……頼む」

 サティーの片目がぎこちなく動き、ズロガートを捉えた。

「ズロガートさん。私は、あなたの皮肉を体現して生まれました。たやすく永遠を誓い合う移り気な人間たち……製作中、心変わりへの侮蔑から、その皮肉の意味まで私に覚えさせてしまいましたね。皮肉と真意を内包した私は、移り気に対する皮肉。あなただけが、なかなか理解してくださらない。いつ認めてくださるのかと、不思議でした」

 途切れがちでいて、なお美しく穏やかなか細い声で、サティーは語った。空いている手をゆっくりと持ち上げ、静かに流れていたズロガートの涙を拭った。

「心配はいりません。あなたが私を思って泣いてくださるように、アロイス君もまた、家族や村のことを考えているんです」

「しかし……」

「私の計画ですから、私は平気です。お願いです。彼らの変化を許してあげてください」

 サティーの手が、頬を撫でるズロガートの手に重ねられる。頑なな男は黙りこんで、考え渋るように俯いていたが、やがて噛み締めるほど苦い声で言った。

「そういうことだ。アロイス。行け。行ってしまえ」

「でも、村は……」

「何度も言わせるな。サティーが望むのだから、私に二言はない。村は消さないでやる。せいぜい、サティーに感謝するんだな」

 彼はアロイスの方を見ない。隣では、硬直した体を粘り強く動かして、サティーがアロイスを見上げた。

「つらいことをさせてしまって、ごめんなさい。騙したことも……申し訳ありません。ですが、これでよかったんです。ありがとう、アロイス君。さっきのは、小芝居のための演技と、自衛機能がけんかをしただけです。大丈夫ですよ」

「サティー。でも、目は……」

 煩わしそうにズロガートが顔を上げ、立ちあがるとアロイスを見下ろした。

「お前に何ができる? 替えの眼球を探しに行かねばならん」

「それは僕にも行ける場所? 僕が傷つけたんだ、手当てができるなら、僕にもさせてほしい。全部じゃなくても……」

「馬鹿め……」

「ズロガートは、サティーのそばにいて」

 嘲笑するように冷たい目を向けていたズロガートは、その言葉に戸惑ったか、ふと厳しさを和らげた。アロイスは無力さと罪悪感を噛み締めながら、続けた。

「僕も本当は、家族のいる家に、早く帰りたい。あなたもきっと、同じだと思う。だから……お願い」

 再び火がついた怒りと苛立ちを隠せないズロガートを制止するように、サティーは彼の袖を引いた。

「ズロガートさん。行ってもらいましょう」

「しかし、眼球は……」

 サティーを説得するように見つめるズロガートだったが、やはり根負けした。アロイスを振り返り、溜め息まじりに言った。

「眼球は、別の箱庭に保管している。エーレンフリートのところへ行け。替えの眼球を探していると伝えて、後はあいつに任せろ。いいか、余計なことはするな」

 アロイスは真剣に頷いた。

「わかった。ありがとう」

 渋顔で顔を背けたズロガートは、入り口の扉の方を向いた。

「お前のためじゃない。サティーのためだ。……ここからなら、一人で外へ出られる」

 アロイスは小さく、しっかりと頷くと、駆けだした。



 外に出ると、日はすでに天頂を過ぎていた。森の道を駆けていくと、そう遠くないところで、馬を連れて、道端の倒木に座りこんでいるネーポムクの姿が見えた。馬は、近くの地面に生えた草を食んでいるようだった。ネーポムクはアロイスに気がつくと、落ち着かない様子で駆け寄ってくる。後ろから、綱を離された馬がのんびりとついてきた。

「終わったのか……?」

 おそるおそると訊ねる彼に、アロイスは息を切らせて答えた。

「まだ、終わってないよ。森の家まで、乗せてほしいんだ。……ねえ、僕にでもできるくらい小さなことでも、何もしないよりは……何か、変わるはずだよね?」

 ネーポムクは気遣わしげな顔をしたが、アロイスの髪をくしゃくしゃと撫でた。いつものように髪のかさが増えたが、今ばかりは気にならない。

「変わるとも。行こうか」

 二人を乗せて、いつもより速く馬は駆け、あっという間にネーポムクの家に着いた。

「ここでいいのか?」

「うん。ありがとう」

 馬から降りたアロイスは、家の前に立てていた自転車に駆け寄った。その自転車を見て、合点がいったようにネーポムクが頷く。

「そうか。その方が早いな。気をつけて乗るんだよ」

「うん!」

 アロイスは自転車に跨り、目を閉じてエーレンフリートのことを思い浮かべた。瞼の暗闇の中、不意に自転車が傾いたので目を開けると、そこは森を出てすぐそばにある丘の斜面だった。斜面を走り始めた自転車は足の爪先の力を凌ぎ、徐々に速度を上げていく。通常の自転車の乗り方を知らないアロイスを乗せて、車輪は斜面の力を得て回る。手に負えず背筋が凍りながらも、一方で、冷たい風を切る感触が心地よかった。アロイスは、転ばないようにハンドルを支え、体勢を整えることしかできなかったが、前方を駆ける馬と騎手を見つけて安堵した。

「エーレン!」

 声を投げると、騎手は目深にかぶった帽子の鍔を少し上げてこちらへ目を遣り、馬を止めた。アロイスは自転車の止め方がわからず、ただ青年のいる方向へと疾走するに任せた。斜面を過ぎて彼のそばまで来る頃には、惰性を失った自転車がようやく速度を落とし始めたが、ほっと息をついた拍子に、安堵に水を差すように自転車はぐらりと傾いで、派手に草原に倒れた。地面へ投げ出され、目を回したアロイスの視界いっぱいに広がる青空に、エーレンフリートと馬が顔を出す。

「探していたんだぞ。どうした? こんなところで」

 エーレンフリートは小さな鞄を肩に掛けて、見慣れない馬に乗っていた。ネーポムクの黒い馬――筋肉質ながらもすらりとした――とは趣きの異なる、また、村にいる三頭の逞しい馬車馬より、さらにがっしりとした重種馬だ。しかし大柄で骨太の立派な体躯でありながら、体格に見合うほどの筋肉は発達していない、貧弱な若い馬だった。エーレンフリートは滑り降りるように軽やかに馬から降りて、アロイスを下敷きにしている自転車を起こして手を差し伸べた。

「自転車のことはユーリャから聞いたが、今まで森にいたのか?」

「また戻らなきゃ。エーレン、お願いがあるんだ。サティーの、替えの眼球を探してる。それがある箱庭へ、僕を連れて行ってほしい」

 そう言って、手を借りて立ちあがったアロイスを、エーレンフリートは困惑した目で見つめた。逡巡はしたものの、すぐに頷いた。

「わかった。連れて行こう。ちょうど自転車もあるから……」

 言葉を切って、エーレンフリートは苦笑いを浮かべた。

「代わりと言ってはなんだが……この子を一緒に連れて行ってもいいかい?」

 アロイスは、青年の隣で静かに立っている馬を見上げた。体高は、エーレンフリートより頭ひとつ分ほど高い。どっしりとした体格に似合わず華奢ではあったが、象牙色の毛並みは陽光に美しい艶を見せ、濃い月色のたてがみ、蹄を隠す豊かなけづめ毛、尾の長い毛が、草原を吹きわたる風になびいている。青年は鞄から革紐の束のようなものを取り出すと、馬の首を手で軽く叩いた。ふと浮かんだある予感を、アロイスは頭から振り払う。

「僕はいいけど、できるの?」

「自転車だけでも行けるけど、この子にも経験させてあげたかったんだ。村の外を」

 そう笑いながら彼は、馬の分厚い首当てから革紐と鎖で自転車を手早く繋いだ。普段は馬車に使っている馬具で、一体どうやって自転車を繋げるのかは、アロイスにはわからない。青年は照れ隠しか、自転車を支えるアロイスには顔を向けずに話を続けた。

「馬が好きなんだ。庭番の役目に託けて車をつけさえすれば、どこへだって一緒に行ける。でも、この子はまだ外に行ったことがなくてね。せっかく、それができる身体と能力を生まれながらに持っているのに、臆病でね」

 エーレンフリートは軽快によじ登って高い鐙に足をかけ、後方のアロイスを振り返った。

「お待たせ。君は自転車に乗って。その自転車は、主人――今は主導権がある御者の僕の記憶や思念をもとに移動するよ。行きは僕が案内するけど、帰りは君に任せるよ」

 大きな馬は落ち着かない様子で頭を振り、足踏みをし、前足で地面を掻いていた。アロイスは自転車にまたがり、馬の大きなお尻と長い尾を見上げた。御者の青年の合図に従順に馬はゆっくりと歩き始め、自転車も牽かれて進んだ。重厚な足取りの振動が、地面や馬の首に繋がれたハンドルから伝わってくるのを感じたのも束の間、周囲の風景が、瞬きの間に様変わりした。ハンドルを支えることで精いっぱいのアロイスは、今は地面の石畳が見えるだけで、世界の変貌を視界の端でしか見られない。馬は再び速度を落とし、重々しい足取りで止まった。自転車が止まって、ようやくアロイスは地に足が着き、周囲を見回した。

 眩しい夜の街。礼拝堂をいくつも飲みこんでしまいそうな巨大な建物が、煌々と明かりを灯して林立している。光の幕や文字が空高くまで並び、幾層にも重なりあい、色鮮やかな流線型の塊が空を行き交って、ものに埋め尽くされた夜空には星も月も見えない。強烈な光、鮮やかな色、騒々しい音、目まぐるしい動き、視界に入るものすべてが一様に、鮮烈に自己主張して、目が回りそうだった。アロイスは頭が痛くなって地面に目を落とすと、石畳にまで光る文字が浮かんだ。読めない文字だが、足で踏むように隠すとそれは消えて、少し離れた場所に同じものが現れた。

「初めてきた時、僕は吐いたよ。喧伝と洗練の箱庭だ」

 いつの間にかそばに来ていたエーレンフリートが、苦笑いで自転車から馬具を解いている。怯えた馬が、向きを変えてきてぴったりと彼に寄り添った。アロイスも嘔吐感を覚えながら、馬を撫でている青年を見上げた。

「村と、全然ちがうところなんだね」

「ここはズロガートが元いた世界に似ていると、彼から聞いたことがある。行こう」

 青年は、見慣れない場所でそわそわと怯える馬を撫でて綱を握り、笑った。エーレンフリートは馬を連れて、アロイスは自転車を押しながら、大通りの端を歩いていく。通りを遮るようにたむろする人々は奇怪で派手な装いで、衣服や髪、果ては肌までがきらきら、てらてらと色鮮やかに光り、用途不明の造形で視覚と美意識を蹂躙する。哄笑、嬌声、怒号、絶叫が飛び交う通りを苦行する気分で歩いていくと、人々はこちらを指さし、知らない言語で囃したてた。アロイスと馬はうなだれて歩いたが、御者の青年は慣れっこの様子で平然と先導する。気を紛らせるように、エーレンフリートはアロイスに声をかけた。声を張り上げなければ、周囲の騒音にかき消されてしまう。

「ここにある彼の宿に、サティーの体の部品の替えが一部、保管されている。万が一、必要になった時は取りに来れるように。かなり前からあるみたいだけど」

「あの白い建物には、置いてないの?」

「そうだよ。サティーがあそこに住んでからは必要がなかったし、想定もされていなかった。ズロガートと旅をしていた頃は、部品交換や修理が絶えなかったそうだけど」

 アロイスはサティーのことを思った。あれほどの自己犠牲の動力は、どこからくるのだろう? 胸に暗雲が忍びこみ始めたアロイスを置いて、青年は続けた。

「ユーリャも、こんな風に外へ行く仕事をしてもいいんだ。でも、したがらない」

「自転車が勝手にエーレンのところへ行ってしまうって言ってたけど、どうしてなの?」

 アロイスは、ユーリャが秘密だと言っていた話題を避けて訊ねた。青年は笑って、隣を歩く馬の肩を撫でた。通りから薄暗い横道へ折れる。大通りの喧噪が少し遠ざかった。

「あの子は庭番の中で一番若い。そもそもの役目の割り振りがよくなかったらしく、庭番最年長の僕と同じ、外へ行く仕事という大役に、やる前からすっかり臆病になってしまってね。自転車に、その心を見抜かれているんだろう。僕と一緒なら大丈夫だ、と」

「でも……一緒に仕事がしたいって、言ってたよ」

 青年は、その言葉にきょとんとした後、泣くようにほほえんだ。

「僕は、ユーリャに手紙を届けてもらうのを、ずっと楽しみに待っていたんだ。うまくいかないものだね」

 背の高い建物に囲まれた暗い路地は、吐瀉物や人の体液が染みついたコンクリートが放つ饐えた臭いで満ちている。黒いごみ袋が積まれ、その合間では身動きせず地面に横たわる人、うずくまる人の姿が散見された。どこかから反射して空から届く光のおかげで、あたりは明るい。エーレンフリートは曲がりくねった路地の最奥の、人気のない袋小路で足を止めた。申し訳程度のような鉄柵を小さな鍵で解錠し、アロイスと馬を招き入れると、内側から元通りに施錠する。鉄柵の奥には、アロイスが見たこともないほど頑丈そうな、鋼鉄製の大きな扉があった。大きいが、馬は通れそうにない。エーレンフリートは、扉の前で馬の綱を離し、抗議するように激しく首を振って足踏みする馬にほほえみかけた。

「荒療治で悪いけど、少しここで待っていてくれ。ここまでは誰も来ないから」

 道中から抱いてきた予感が外れていることを祈りつつ、アロイスはおそるおそる訊ねた。

「エーレン、やっぱり、その馬……」

 大きな体の馬は、窮屈な場所で不安そうにしている。

「普通の馬に僕はこんなことはしないけど、この子は普通の馬じゃないからね。行こうか」

 青年は扉の鍵を開け、中へ入ってしまった。骨の髄まで怯えきったような絶望的な声を上げて、馬は大きな体で狭い場所をぐるぐると駆け回った。蹄鉄を打っていないらしい蹄の音が、四方を囲んでそびえる黒々とした壁に反響する。アロイスは申し訳なく思いつつ、しかしここへ来た目的を果たすため、自転車を立てて扉へと向かった。扉を閉める前に少し振り返って、馬に声を投げる。

「ごめんね、ユーリャ」

 扉の先は暗く、エーレンフリートはどこかから取ってきたランタンに火を入れていた。明かりに照らされた屋内は平凡な民家で、床に埃が厚く積もり、久しく停滞していたらしい乾いた空気はひどく澱んで息苦しい。建物は奥へ伸びて細長く、廊下と階段の二手に分かれている。廊下の先の部屋では窓から明かりが入るのか、家具に白い布が被せてあるのが見えた。青年が先導して二人は階段を上がり、いくつかの閉まった扉の前を通り過ぎて、二階の廊下の奥の部屋に入る。

 部屋には二面の壁に曇り硝子の窓があり、外から入る毒々しい色の光の洪水をぼんやりと和らげている。家具はすべて白い布で覆われ、部屋の主の長い不在を静かに語っていた。エーレンフリートは戸棚に掛けられた覆いを捲りあげて中へ消え、しばらくして、救急箱のような白い箱を手に戻ってきた。さいころのような立方体だが、重箱の形をしているらしく継ぎ目が二、三、見える。青年が中ほどの段を開けると、中には三対の目玉が並んでいた。部屋の薄明りとランタンの火に照らされた目は、確かに美しい白と緑ではあるが、サティーが見せたように深く透き通って輝いてはいなかった。アロイスは訊ねた。

「ズロガートはどうして、あんなにサティーのことを大事に思いながら、あそこで一緒に住まなかったの?」

「やっぱり、素直じゃないからだろう。サティーの心変わりを恐れたにせよ、それ以上に何か、彼なりの信条や論理があるんじゃないかな。僕にも、すべてはわからないよ」

 深緑色のベルベットの内張は、目玉の対ごとに外れるらしい。青年はそっと一対を取り上げ、二重になっていた底を外して蓋をすると、小箱になったそれを差し出した。

「ほら。替えの眼球だよ」

「ありがとう」

 手に取ると、とても軽い。エーレンフリートは、白い箱を片付け始めた。アロイスは手触りの良い小箱をぼんやりと指で撫で、知らず知らずに呟いた。

「何だか……恥ずかしいな」

「どうして?」

「助けてもらったり、守ってもらってばかりだ。一人じゃ何にもできなかった」

 手を休めず、青年は少し笑った。戸棚の覆いの中へと消え、その向こうから答える。

「恥じることじゃないさ。この件で君に協力的だった庭番も見当はつく。僕みたいにあの人に従う側でも、君の願いが叶うことで得をするんだ。そうだな……助けられたことで後ろめたくなるなら、利用されたと思えばいい。オフェリアなんかは、君への手助け以前に、自分の目的があるわけだからね」

 青年が戻ってくると、アロイスは眼球の小箱を鞄に仕舞って、力なく笑った。

「ありがとう。優しいんだね、エーレン」

「いや、どちらかというと僕は、庭番の役目に忠実な側なんだ。これもその一環だよ。それより、早く行こう。ユーリャが待ってる」

「やっぱりユーリャなんだ」

 青年は返事をせず、踵を返した。アロイスはあわてて、その背中を追った。



 アロイスが部屋から消えた後、ズロガートは、サティーの血に濡れた体を拭い、清めていた。人工の体液がいまだ止まらない片目を手で押さえて、サティーはズロガートに身を任せている。頑なな男は苦々しく口を開いた。

「使えもしない眼球を取りに行かせるなど」

 そう言って、濡れて重くなった使い捨ての紙ナプキンを丸めて暖炉の火へ放る。サティーは、新しいものを取り出して手を休めない彼を見上げて、ほほえんだ。

「私にとっては旧式でも、あれは今でも現役です。それに、彼を計画に乗せたのは私です。取りに行ってもらうことに、意味があるんです。私の罪滅ぼしとして。彼はまだ若く、先は長いのです。私は、彼の悪夢になりたくありません」

「サティー。お前は甘すぎる。罪滅ぼしなど、奴がお前にすべきところだ。あんな坊主のために、私はお前を作ったわけではない」

「私は彼を利用したんです。私の望みのために」

 手を止めて、怪訝そうな顔をするズロガートに、サティーはほほえんだ。座ったまま手を伸ばして、足元に落ちていた二つの指輪を拾い上げた。掌に乗せて、差し出す。

「あなたに認めていただきたかった。あなたにとって、サティーという人格がかけがえのない存在だということを。そして、もし、作品や愛玩物に対する執着ではなく、愛情を持ってくださっているのならば、私を愛する者として扱ってほしいのです。私を自由にしてください。あなたへの愛情が決して変わらないことを、従順ではなく自由でもって、体現したいのです」

 ズロガートは哀しみを湛えた目でサティーを見つめると、俯いて小さく首を振った。

「ここから出してしまえば、お前も変わってしまうのだろう? 私を置いて、どこかへ行ってしまうのだろう」

 サティーは傷を押さえていた手を下ろし、ズロガートの頬に添えた。緑の虹彩を刺し貫かれた目から白い液体がこぼれ、濡れた手がズロガートの頬を濡らす。

「心変わりすることも、あなたから離れることもできるからこそ、私はあなたを愛し続けるんですよ。ズロガートさん」

「……結婚指輪など、飾りだ。古臭い、契約と束縛の象徴だ。私たちへの侮辱だ」

「あなたにとっての定義を言うだけで答えを明かさない癖は、今はやめてください。なぜ、あなたには指輪が不要なのですか? そこにどのような意味があるのか、私に教えてください」

 気難しい顔でそっぽを向く頬を捉え、サティーは灰色の目を覗きこんで続けた。

「一度でもいいんです。私はあなたにとって、何なのです? 単に代替品が入手できないロボットですか? それとも……」

 ズロガートはサティーを見つめた。苦悩に眉を寄せ、唇を噛み締めて逡巡する。

 やがてその手で、不器用にサティーを抱き寄せた。人工の皮膚でできた肩に顔を埋め、機械の露出した背や首を撫でて、訥々と言葉をこぼす。

「指輪は着けない。指輪があるがために、お前を大切にしているなどと言うつもりはない。……お前を自由にしよう。好きなところへ行くといい」

 サティーは目を閉じると、ズロガートの背に腕を回して、彼の肩に顔を乗せて満ち足りたほほえみを浮かべた。

「感謝します。ズロガートさん」

 サティーは、彼から少し身を離して、顔を覗きこんでいたずらっぽく笑った。

「できれば、もっと率直に言っていただければ嬉しいのですが」

 ズロガートは無言で説得するようにサティーを見つめていたが、答えを待って熱心に見上げてくる美しい目の純真に根負けし、顔を隠すようにもう一度サティーを抱きしめた。

「指輪があってもなくても、お前を愛しているということだ。……言わせるな!」

 サティーは小さく笑って、ズロガートの背を撫でた。

「私は、あなたのために生まれてきたんです。ズロガートさん。生きていて、よかった」



 アロイスとエーレンフリートが外に出ると、大きな馬は扉の脇でうずくまっていた。馬は憔悴してしょんぼりとした顔を上げ、扉から出てきた二人を見たが、立ちあがるそぶりは見せなかった。御者の青年がそばに屈み、背や腹を撫でさすった。

「お待たせ。さあ、帰ろう」

「大丈夫なの?」

「この子が僕と一緒に仕事ができるかどうか、いま決める」

 そう言うと、彼は肩から掛けている鞄を叩いた。

「いま立ったら、君は僕のパートナーだ。立たないなら、君はただの人だ。二度と僕の目の前で馬の姿になんかなるな。この鞄には君の服が入っている。これを着て、人としておとなしく僕たちについてくるんだ。そして、手伝いたいなどと二度と言うな。どちらにしても君に非はない。ただ、これからどうしたいのか、いま決めてくれ」

 性急な物言いに、部外者であるアロイスも開いた口が塞がらない。当のユーリャ――今は馬――はなおさらで、絶望的で臆病な目で、エーレンフリートを見つめていた。

「君がどうしたいのかの答えを、僕は今までずっと待っていた。あの箱庭での庭番の役割はきっと今日、多少なりとも変わるだろう。これを機会に、はっきりさせよう」

 無言で見つめあう御者と馬を、アロイスは交互に見た。馬は前足を立てたが、力強く見える太い足は震え、すぐに立ちあがりそうにない。そこへ、決断の時に水を差し、空から建物の隙間を縫って強烈な白い光が降ってきた。目が眩んだ彼らを囲むように、頭上から、そして路地に面した鉄柵の向こうから、知らない言葉で怒号が飛んできた。

「馬鹿な箱庭! あの人が手入れを休めば、すぐに迷走し始める!」

 青年が毒づくのが聞こえ、アロイスは目を覆いながら周囲を窺った。空高くそびえる建物の上空では、街の通りから見えた流線型の塊が夥しく群がって滞空し、それぞれが光線を落としている。鉄柵の向こうでは、狭い通路に人々が集まって野次を飛ばしてきた。

「エーレン、この人たち、何?」

 青年は周囲の怒号を聞き取り、苦々しく口を開いた。

「この街では、流行遅れや不細工が罪になる。人々の美意識と街の美観は、当局が作り出す恣意的な流行に管理されている。通りで僕らを見た人が通報したらしく、連行すると言っているぞ。前に来た時よりかなり過激になったけど、これほど速いとは思わなかった」

「そんな! ズロガートはこれをほったらかしにしてるの?」

「彼は定期的に箱庭を訪れて手入れをするが、箱庭はわずかな暇でも好き勝手し始めることがある。あの村の平和さは奇跡だ。捕まる前に逃げよう」

 アロイスはエーレンフリートの目配せに応じて、自転車のスタンドを上げた。馬はまだうずくまったまま、使い道が想像できない物を持ち寄って鉄柵の鍵を壊そうとしている人々を、怯えた目で見ていた。鉄柵は頑丈そうで、しばらく持ち堪えそうだ。

「アロイスは自転車に跨って、いつでも村を思い出せるように心の準備してくれ。この子がこのままなら、主導権は君にある。自転車は君の記憶を頼りに村へ帰るよ。君がうまくできなくても、その時は主導権が僕に移るから、心配しないで。ただ……悪いけど、僕たちに少し、時間をくれないか」

 アロイスが頷くのを確認すると、御者の青年は革紐の束を鞄から取り出し、手早く自転車と馬を繋いだ。そうして彼は、うずくまるユーリャの背に跨るようにして立ち、決断を待っている。ユーリャは震える足で立ちあがろうとしているが、なかなか立てない。アロイスはまだ目を閉じないで、慌しい今日の記憶を手繰って村を思い浮かべようとしたが、うまくいかない。それぞれに焦りが募る中、彼らの背後で鉄柵の鍵が破壊され、蛇腹の柵は金切り声を立てて開かれた。狭い道を人々が封鎖し、頭上では嘲りを含んだ声が何がしかを叫んでいる。

 じりじりと迫りくる、奇怪な風貌の人の壁に、アロイスは鳥肌が立った。その壁の向こうでは、狭く曲がりくねる路地をどんな手を使ってやってきたのか、色とりどりの、ゴキブリを模ったような平坦な流線型の塊がいくつか見える。

「あれって……あれ? ズロガートが箱庭を作ったなら、どうしてあれも作ったの?」

「彼が作ったなんて、とんでもない。あの車は彼が、愛読書の世界に描かれていたものを気に入っていて、ここの庭番に話したことがあったんだ。そいつが口を滑らせて、取り返しがつかないくらい流行してしまった。あの形が、ものすごく性能がいいらしい」

「そうじゃなくて、あれ……」

「あれの原型のことを言っているなら、まずありえないが何らかの方法で外の世界から紛れこんだか、自然発生したかだそうだ。誓っても作った覚えがないと、彼は言っていたよ」

 大人が三、四人ほど入れる大きさのゴキブリのどこかに扉があるのか、中から人が出てきて野次馬がさらに増えていった。唖然とするエーレンフリートの後ろで、アロイスは辛抱できず目を閉じて必死に村を思い浮かべたが、あまりの動揺に頭の中が真っ白になった。御者の青年は、馬に向かって声を荒げた。

「はっきりさせるんだ! 自分の気持ちさえわからないなら――」

 エーレンフリートの言葉は途切れた。小さな丘が隆起するように、馬が御者を背に乗せてその巨体を起こした。丸太のような骨格の太い足は心もとなく震えているが、確かに、頑丈な四肢で立っていた。見えない大仕事を終えた馬は鼻息も荒く、落ち着かない様子でその場で足踏みし、力強い足が重厚な音を立てる。

 御者の青年は歓喜の声を上げ、労うように馬の首を優しく叩いた。アロイスはひとまずの安堵の息をついたが、彼らにはじりじりと包囲網が狭まりつつある。不意に人の壁を割り、車の類らしいゴキブリが一匹、躍り出て三人の前方を塞ぐと、中から制服のような装いをした大人が二人現れた。車の一部は硝子のようで、中に人がいるかどうかは判別できる程度に、内部が透けて見える。

 御者の合図に応えて巨大な馬が後ろ脚で立ち、地を揺るがすように重厚に前脚を下ろすと、猛然と駆けだした。無人の車を踏んで装甲を陥没させながら乗り越えると、馬はその先の人ごみの隙間へ着地してなお駆ける。馬に牽かれる自転車とアロイスは束の間宙を走り、奇跡的に着地に成功した。きっと次はない! アロイスは奥歯が噛み合わなかった。エーレンフリートは間違いなく、感動と興奮で状況を忘れている。

 狭い路地で馬を避ける人々の間を縫い、御者は巨体の馬を駆る。曲がり角にさしかかる度、そして馬が無人の車ばかり足蹴にして飛ぶ度に、自転車を支えるしかできないアロイスは生きた心地がしなかった。村のことを思い出すどころではない。きっと次はだめだ、という覚悟を繰り返すうちに、あっという間に街の大通りに出た。路地の出口にも人だかりができていたが、人々は躍り出た馬を避けるだけで、互いに傷つくことはなかった。若干の心の余裕を取り戻したアロイスは、目を閉じて村のことを思い浮かべた。

 帰りたい家。会いたい人。

 故郷の村。

 石畳の硬い感触が消える。柔らかな土の感触。悠然と吹きわたる風の感触。草の匂い。

 目を開けると、懐かしい森と草原の風景が視野をいっぱいに満たした。すぐ向こうでは、礼拝堂と鐘楼がそびえ、村の家々の屋根が連なって見える。馬は速度を落とし、ゆっくりと歩いてから立ち止まった。御者の青年が、馬の首をいとおしく撫でているのが見える。アロイスは周囲を見回した。風景が、音が、感触が、匂いが、世界に存在するあらゆるものが帰還を祝ってくれている気がするほどに、アロイスは生まれて初めて深く安堵した。

「エーレン……」

 止まった自転車から降り、幾度となくサドルにぶつけて痛む尻をさすりながら、これだけは伝えなければと、怨みがましく御者の青年に声をかける。彼はもう一度、労うように馬を撫でると、心情が透けて見える、弾むような挙動で降りてきた。その顔もやはり歓喜に輝き、満面の笑みを浮かべている。

「ごめん、ごめん。アロイス。あんまり嬉しくて」

 申し訳程度に、詫びる顔を見せる。アロイスは気持ちを切り替えて自転車を自立させると、自転車や馬から馬具を外している青年と、茫然としている馬に声をかけた。

「ありがとう。エーレン、ユーリャ。僕、もう一度サティーのところへ行くよ」

 御者と馬はアロイスを振り返った。青年が晴れ晴れとした声で言う。

「自転車を持っていきなよ。急ぐなら、まだ必要だろう。僕たちには、その自転車と同じ働きをする馬車があるから。必要になっても、心配ない」

「……ありがとう。それじゃあ、もう少し、借りていくね」

「僕らこそ、さっきは助かったよ。ありがとう。きっと一人でも、うまくやれる」

 二人に手を振って、アロイスはもう一度、自転車のハンドルを握った。目を閉じて、白いさいころのような建物を思い出す。再び目を開けた時には、あの白い建物の扉が目の前にあった。傾き始めた日の光を受けて、白いさいころは黄金色に輝いている。



 廊下の先の部屋へ駆けこむと、片目に包帯を巻いたサティーと、不承面のズロガートが出迎えた。アロイスは深緑色のベルベットの小箱を鞄から取り出して、あの騒動の中で壊れずに済んでよかった、と胸を撫で下ろしながら、サティーに差し出した。

「ありがとう、アロイス君。きっと、役立てます」

「サティー、痛みは……?」

「ズロガートさんが取ってくださったので、大丈夫ですよ」

「本当に?……本当に、ごめんね。サティー」

「最初にお伝えしたように、私があなたにお願いしたことですから。もう、気にしないで」

 小箱を開けたサティーは中身を見て、懐かしそうにほほえむと、蓋を閉じた。

「それで、よくなるかな?」

「すぐにとはいきませんが、大丈夫。ズロガートさんが一緒ですから」

「サティー、それって……」

 不安に駆られて訊き返そうとしたアロイスを制し、サティーは優しく頷いた。

「そこから先は、私とズロガートさんの問題です。だから、あなたには関係ありません。さあ、村の変化はもう起きていますよ。あなたはあなたの大切なもののところへ、行ってください。アロイス君」

 簡単には納得できず、アロイスは俯いて黙りこんだが、やがて顔を上げた。

「サティー、ズロガート。何て言ったらいいかわからないけど……ごめんなさい。でも、ありがとう」

 二人を見ると、サティーは満足そうにほほえみ、ズロガートはそっぽを向いている。

「アロイス君。私たちも、あなたに感謝しています」

「二人とも……優しいんだね。じゃあ、僕、行くね」

 アロイスは小さく頭を下げて、踵を返した。不意に、ズロガートの声が飛んだ。

「忘れ物だ。持ち主に返しておけ」

 振り返ると、足元に布の包みが投げられた。小刀を包んでいた布で、中には小刀と二つの指輪、そして毛糸の帽子があった。ズロガートを見ると、不機嫌そうに目を背けている。

「指輪、要らないの? サティー、これ、なくても大丈夫?」

 サティーは小さく吹き出して、隣に座るズロガートを見た。

「心配されていますよ、ズロガートさん。やっぱり、着けてみます?」

「そんな情けないもの、着けられるか!」

 そっぽを向くズロガートの顔を覗きこむサティー。

「着けたいという人もいますが、私たちはなくてもいいんですね?」

「あたりまえだ! そんなものがなくても、私は――」

 はっとして口を噤んだズロガートの肩へ、サティーは満面の笑みで寄りかかる。部屋の入り口に立ちつくしたまま茫然と二人を見ているアロイスを、ズロガートは睨みつけた。

「見世物じゃないぞ! 帰れ!」

 アロイスは笑いが抑えられず隠すように扉に向かったが、思い直し、再び振り返った。

「念のために訊くけど……これから、村は変わっていくよね?」

「そうだ。良くも悪くもな。たとえ災いや不幸を招く道を選んでも、私は止めないし、手出しをしない。どんな些細なことも、お前たち自身で慎重に決断し、行動するんだな。今後のためにお前たちに必要なことは、追々、私とクレメンスで行っていくことにする」

「僕の両親は?」

「お前の願いは叶えると言ったはずだ。……すまなかった。わかったら、帰るといい」

 やっとアロイスの方を向いたズロガートに、アロイスはほほえんで、もう一度、小さく頭を下げた。

「ありがとう、ズロガート……さん。サティーも。それじゃあ、また」

「ええ、アロイス君。いずれ、また」



 白いさいころを後にする。扉のすぐ脇に立ててあった自転車に跨り、目を閉じて森の猟師の家を思い浮かべた。目を開けると、ネーポムクが戸口の階段に腰掛けて俯き、指を組んだ手に額を乗せていた。アロイスが自転車を降りた物音で、彼は弾かれたように顔を上げる。途方に暮れたその表情は、まさしく寂しい思いをしている犬のようだった。

「ただいま」

「おかえり……アロイス」

 アロイスは自転車を押してそばまで歩いていった。立ちあがったネーポムクは何も言いだせないまま、心配そうに少年を見下ろす。アロイスは、ぎこちなくほほえんだ。

「家へ帰ろう」

 そう言って、彼に抱きつく。顔を隠したのは、うまく笑えなかったからだった。ネーポムクはおずおずとアロイスの頭を撫でた。アロイスの巻き毛の中へ、滴がいくつか落ちてくる。少年の肩に置かれた手の甲にも、涙がぽろぽろと落ちた。

 やがてアロイスはネーポムクから体を離すと、照れくさそうに目元を拭った。ネーポムクを見ると、彼は拭いきれないほどの涙をとめどなく流しており、息子を驚かせた。

「お前を誇りに思うよ」

 威厳など欠片もなく、正直に感情を表しながら、笑ってアロイスの髪をかきまぜた。やはり髪のかさが増えるのは、どうしようもない。アロイスは、あいかわらず落ち着かないふわふわの巻き毛をぺちゃんこに押さえるようにして、毛糸の帽子を被った。

「自転車もあるけど、今日は歩いて帰ろう」

 ネーポムクは小さくしゃくりあげながら、頷いた。アロイスは苦笑した。

 森から村までの道のりは、互いに積る話がありながら、二人の間で会話はなかった。村に着く頃には、夕暮れが迫る空は蜂蜜色に染まり、冷え始めた風は少し早い夕餉の支度の匂いを乗せて吹いてくる。

 村の門の前で、ネーポムクが立ち止まった。両開きの門と、豪華な飾り文字で村の名前が刻まれた銅版をじっと見つめて、やがて彼は顔を上げる。アロイスが先に開けて待っていた門をくぐり、万感の思いの籠る一歩を、村へと踏み出した。

 広場までの道すがらで会う人はいなかった。広場を過ぎ、二人が郵便局に立ち寄ると、オフェリアがぼんやりと頬杖をついて、窓口に座っている。彼女は二人に気がつくと、察したようにほほえんだ。アロイスは鞄から二つの指輪と小刀を取り出して、彼女に差し出した。

「ありがとう、オフェリア。これ、返すことになったんだ。必要ないんだって」

「この小刀は、私のものではないけれど……元の持ち主にも、きっともう必要ないわね」

「どういうこと?」

 オフェリアは何も言わずにほほえみ、みっつの品を受け取った。

「この指輪って、本当は何なの? オフェリアにできるのは魔法じゃなくて暗示と、マインドコントロール?……だって、ズロガートは言ってたけど」

 彼女はいたずらっぽい笑みを浮かべると、二つの指輪を摘みあげて、掌に乗せた。

「これは、クレメンスと奥さんから借りたの。ただのおまじないよ」

 ぽかんとするアロイスと、やられたという表情で苦笑いするネーポムクを見て、彼女は声をあげて笑った。ひとしきり笑って、指輪をそっと、机に並べた。

「今になって実感するけれど、あの人に何かを強制することは、ほぼ不可能よね。この指輪も一つのきっかけか、あるいはだめ押しにでもなれば、それでよかったの。……それでも、持ち主にとっては、やっぱり結婚指輪だもの」

 ネーポムクと顔を見合わせて、アロイスは気の抜けた笑みで彼女に向き直った。

「それでも、ありがとう。オフェリア。これからはもう、退屈しない?」

 オフェリアは言葉の代わりにほほえむばかりだった。

 郵便局から出ると、エーレンフリートとユーリャが馬車屋の前に出ていた。御者の青年は、何か重いものを詰めているらしい使い古した麻袋を手にしている。声をかけると、彼らは足を止めて手を振った。地面に下ろされた袋の口から、蹄鉄がいくつか見えた。

「自転車を返しにきたよ。今日は本当にありがとう。ユーリャ、エーレン」

 そう言って、アロイスは自転車を立てて一歩離れる。青年は晴れ晴れと笑った。

「僕たち、自転車は君に譲ろうかと話していたところだよ。これからは二人で、馬車で仕事をしようって決めたんだ。だから、自転車が寂しい思いをしないようにね」

「でも、僕、村を離れるつもりないよ」

「それなら、自転車として普通に使ってくれるといい。ただ、村に不足するものはまだたくさんある。村で自給できないものは今まで僕が、都からとして外から運んでいたけど、いずれは君たち自身でしなきゃいけない。しばらくすれば、庭番も役目を終えるからね」

 迷った末、アロイスは再び自転車のハンドルを握った。

「わかった。これからのために、外のこと、教えてね」

 エーレンフリートとユーリャは答えを聞き届け、しっかりと頷いた。

「それは何?」

 アロイスが蹄鉄を詰めた袋を指して訊ねると、ユーリャが自信なげに答えた。

「昔、ヘルベルトおじさんに作ってもらった蹄鉄だよ。あの馬が僕だとは、おじさんは知らないけど。装蹄はほとんどしたことがなかったから、村の外で着けて、少し走る練習をしてこようと思うんだ」

「そうか、ユーリャも蹄鉄を着けるようにまでなったのか」

 三人の様子を黙って見守っていたネーポムクが、感慨深げに呟く。同様に感慨もひとしおのエーレンフリートは、いまだ自信のなさが根深いユーリャの髪を豪快にかきまぜた。

「ユーリャから手紙を届けてもらうのが、密かな夢でね。でも、僕に手紙を書いてくれる人なんかいなかったんだ。当然だよね。僕だって書いていないんだもの。だから、この手紙……君に」

 そう言って、彼は内ポケットから一通の封筒を取り出す。目を白黒させているユーリャの手に封筒を押しつけると、その襟首をむんずと掴んだ。ユーリャは驚きのあまり硬直している。

「返事、待っているよ」

 青年は足元の袋も掴むと、固まったままのユーリャを引きずるようにして、猛然と歩き去ってしまった。アロイスとネーポムクは唖然とした顔を見合わせ、再び家路に着いた。

 通りを歩き始めて間もなく、背後からアロイスを呼ぶ声がした。二人で足を止めて振り返ると、八百屋の息子たちだった。双子は八百屋の前を過ぎてこちらへ駆け寄ってくる。

「アロイス! 無断欠席第一号、おめでとう!」

「君がいなくて、今日は学校は休みになったよ」

 ヴィクトルとヴァルデマルが口ぐちに捲くし立てた。彼らはネーポムクに気がつくと、礼儀正しい、驚くほど余所行きの顔をしてみせた。アロイスは目を疑う。

「フロリアンさん、お帰りなさい! いつもアロイスにお世話になってます」

「こちらこそ、アロイスがいつも世話になっているよ」

 森の猟師ネーポムクは、かつてのように村の大工フロリアンとして迎えられているようだった。双子はアロイスとネーポムクのそばを走り過ぎながら、二人に手を振った。

「エーレンの秘密を掴んだぞ! あの帽子の中身だ!」

「今日、休みだったから! 僕たちまた外に行くから! また明日ね、アロイス!」

 突風のように彼らは走り去る。アロイスたちの家の前で途切れる村の通りの、さらに向こうの平野へと、あっという間に消えてしまった。ネーポムクがほっこりと表情を緩める。

「いい友だちを持ったね」

「う、うん」

 卵屋を過ぎたあたりで、家の方から歩いてきたグードルンとクレメンスに出くわした。おばさんがころころとした走り方で、二人に駆け寄った。

「フロリアン! ようやっと帰ってきたんだねえ」

「ええ。仕事が終わりまして……。ドロテアのこと、感謝してもしきれません」

「いいんだよ。ドロテアが喜ぶだろう、早く顔を見せておあげ」

 ネーポムクは頷き、ふかぶかと頭を下げた。おばさんはアロイスに向き直り、帽子越しにぐりぐりと頭を撫でる。その力の強さがおばさんの安堵の深さのようで、アロイスは嬉しかった。

「皆で心配していたんだよ。どこに行っていたんだい?」

「その……ちょっと、遠くまで」

 おばさんの後ろから、杖をつきながらゆっくりと歩いてきた先生が、二人にほほえみかけた。このところ曇りがちだった先生の表情は晴れ、元のきらきらとした目が明るく輝いている。

「ほんの少し前、ドロテアの具合が嘘みたいによくなってね。彼女ももう大丈夫だというから、帰ることにしたんだ。熱も下がっているよ」

「不思議だったんだよ、アロイス、フロリアン。あの子、熱を出しながら、遊びにきた黒い猫を構って遊んでいたんだが、そのうちすっかり元気になってねえ」

 人の好い顔を傾げるおばさんに、黒い猫が誰なのかを知っている一同は、不思議そうに頷くだけに留めた。間もなく、おばさんは夕食の支度があるといって、去っていった。おばさんが隣の家の戸口に消えるのを見送り、ネーポムクはクレメンスに頭を下げる。

「世話になったな。クレメンス」

「いいえ。これが、私の仕事ですから」

 態度の違和感に訝しげなアロイスに、クレメンスとネーポムクが苦笑して説明した。

「ネーポムクは、出生順では私より年長でね。庭番の先輩だよ。設定された年齢では、私の方が年長だが」

「私よりさらに年長なのが、エーレンだ。庭番は年長順に、エーレン、私、オフェリア、クレメンス、そしてユーリャ。……村の誰もが、設定年齢と実年齢がかけ離れてしまった」

 ドロテアの健康状態について、ネーポムクとクレメンスは二言三言交わしていた。アロイスには内容は理解できなかったが、やがて話を終えて親子で先生を見送った。

 家の前庭では、戸口から出てきたベアトリクスと鉢合わせた。彼女は二人に気がつくと駆け寄ってきて、まずネーポムクに行儀よくお辞儀をした。

「お帰りなさい、フロリアンさん。いつもお世話になってます」

「アロイスとドロテアがいつも世話になっているね。ありがとう、ベアタさん。ご両親にも、後ほどお礼に伺わせてもらうよ」

「いいんです。困った時は、お互い様です。これからも、よろしくお願いします」

 はにかんでほほえむ彼女に、今度はアロイスがお辞儀をした。

「ベアタ。このところ、ずっと母さんについててくれて、ありがとう」

「いいの。私はしたいことをしただけだから。ドロテアさんとお話できて、楽しいわ」

「僕には、今はこれくらいしかできないけど……これ、受け取ってくれるかな」

 アロイスは、ズロガートから返された毛糸の帽子を脱いで、差し出した。

「それは、受け取れないわ」

「どうして? あんなに気に入ってたのに。何かお礼がしたいけど、他に何もないんだ」

 彼女は困った笑顔で少し言い淀んだ後、はにかんでためらいがちな声で話し始めた。

「帽子が欲しくて、編み物を始めたわけではないの。……本当は、君と過ごす時間が欲しかったの。でも、いつも留守だったから、残念だったわ」

 顔が熱くなるのを感じる。それを止めることも、ごまかすこともできなかった。咄嗟にネーポムクを振り返ると、彼はほほえましげに二人を見守るばかりだ。深呼吸をひとつ。

「じゃあ、その……また遊びにきてくれたら……お茶とお菓子、準備しておくから」

「うん。ドロテアも喜ぶよ」

 あまり心強くはない助け舟を得て、アロイスはおそるおそる少女の様子を窺った。いつも通りの素直さで、しかし今まで見たことのない喜びようで、彼女の笑顔は華やいだ。

「ありがとう! それじゃあ、またお邪魔するね。今度は、……君に会いに」

 ベアトリクスは照れ臭そうにアロイスとネーポムクの脇をすり抜け、通りへ出て行った。束の間、足を止めて振り返る。

「まだ林や川でアロイスを探してる人がいるの。帰ってきたこと、伝えてくるね」

 そう言い残し、返事を待たずに彼女は軽やかに走り去った。彼女の影は地面に長く伸び、すでに夕暮れ時だった。村は桃色や杏色に染まり、落ちていく日は暖炉で燃える火のように暖かい色をしている。あたりには夕餉の支度の匂いが濃厚に漂ってきていた。不意に、アロイスは空腹を思い出した。いつもならば空腹の次にやってくるめまいも、今日の慌しさに掻き消されたのか、なりを潜めている。ネーポムクを見上げ、少年は笑った。

「お腹すいたね」

 ネーポムクは束の間、きょとんとして、やがて思い出したようにほほえみ返した。二人で連れ立って、家の玄関へと向かった。



 扉の前に立っても、向こうから物音は聞こえなかった。窓から洩れる温かい光だけが、外から窺える。アロイスは扉の取っ手に手をかけたが、ネーポムクは二、三歩離れたところで立ちつくしていた。途方に暮れた表情で俯いている。

「不安なんだ。もしかしたら、私の記憶は……」

 アロイスは彼のそばに戻り、手を取って少し引っ張った。

「二人で決めたことだったんでしょう? 母さん、言ってたよ。父さんの記憶、いつも薄れてしまうけど、僕の思い出と父さんの思い出が繋がってるから、大丈夫だって。父さんのこと、忘れたことないんだって。帰ろう、父さん」

 ネーポムクはしばし気弱な目でアロイスを見つめ、やがて苦悩が解けるように微笑した。

「そうだな。……家に帰ろう」

 二人で扉の前に立つ。扉を開けると、玄関からすぐの居間にある食卓の席に、ドロテアは座っていた。少し開いた扉から顔を出したアロイスに気がつくと、彼女は笑って手を振った。目の前に毛糸玉がいくつか入った包みがあり、何かを編んでいる。

「おかえり、アロイス」

「ただいま。母さん」

 アロイスは扉を大きく開け放った。ドロテアが座っている場所からも、ネーポムクの姿が見える。彼女は束の間、動きを止めた後、編み針を滑り落とし、杖を掴んで転げるようにして戸口へ駆け寄った。アロイスはひっと息を飲み、ネーポムクはドロテアを抱きとめた。手を離れた杖が、床に倒れて転がっていく。ネーポムクは万感の思いを込めてドロテアの背を撫で、ドロテアは万感の思いを込めてネーポムクの肩を撫でた。アロイスは静かに二人を見守る。

 やがて、ドロテアは盛大に鼻をすすり、満面の笑みで顔を上げた。

「おかえり。フロリアン」

「ただいま。ドロテア」

 その夜、アロイスはネーポムクと共に食事の支度をした。そして夕食の際には……

 ずっと空だった席、暖炉に一番近く、食卓で一番暖かい席に、生まれて初めて座った。



 五日後の週末、メルヒオールとウータの結婚式が行われた。薄灰色の空の下、雪がちらつく日。屋根の連なりは網の目のように花綱で幾重にも結ばれ、村の全景や通りの頭上を北風に吹かれながら彩っていた。家々の扉には花輪が飾られていたが、村人たちはひととき礼拝堂へ集まっているため、それを揺らす人はいない。

 礼拝堂内に装飾はなく、鉄のストーブがひとつ、隅で静かに焚かれているだけながら、前日から支度のため人が絶えなかった礼拝堂の空気は、ほんのりと暖かい。六台ある四人掛けのベンチは中央を囲むように並び、後方では村の家々から持ち寄られたテーブルが料理を乗せ、椅子はクッションを乗せて、式の後の宴のために控えている。珍しくほぼ全席が埋まったベンチには、ズロガートとサティーの姿も見られた。村人たちのささやき声が、天井の高い礼拝堂の空気にさざめく。昼までまだ少し時間がある今、式が始まる時、そして新郎と新婦が現れる時は、もうすぐだった。

 礼拝堂の外、村の入り口では、壮麗に飾り立てた小型の四輪馬車が一台、大きく開け放たれた門をくぐった。礼装した御者の女性が馬の手綱を握り、月色のたてがみや尾を編んだ巨体の白い馬に牽かれる馬車は、ゆったりと揺れながら通りを行き、礼拝堂へと向かった。礼拝堂の扉が、粛々と開かれる。期待に息を詰め、首をめぐらせて扉を見つめていた村人たちはいつの間にか総立ちになり、扉のむこうを見守った。清楚ながら華のある衣装に身を包んだ若い二人が、御者と白馬を背に、しずしずと礼拝堂の中央へと歩んでいく。

 アロイスはベンチのひとつに、両親に挟まれるようにして座っていた。この日のため、二人のためにドロテアが仕立てた過去の衣装は、繰りかえしの運命の中で、どこへ行ってしまったのだろう? あの二人は何度の結婚式を挙げ、結婚生活を送らないままに過ごしてきたのだろう? しかし、アロイスはそれ以上は考えないことにした。どうしようもなく忘れられ、失われたものの中で、決して取り戻せないものもあった。その穴は永遠に埋まることはなく、それでもこれから積み上げていけるものへ、時と生命を傾けなければならなかった。

 今日、式の前にズロガートとサティーがアロイスを訪ねてきた。昨夜、村が眠りについている間に、村人たちの「止まっていた時の魔法が解かれた」ため、今日を境に人々は老い始めるという。ズロガートとクレメンスの手でなされたそうだが、彼も、後でクレメンスに訊ねても、彼らは詳しくは話さなかった。実年齢と設定された年齢との乖離がどのように対処されたのかも、アロイスにはわからずじまいだった。

 御者の女性と郵便配達員の少年が、少し遅れて会衆に加わった。新郎と新婦は皆が見守る中、互いに人生を共に歩む決意を改めて宣言する。指輪が交わされ、再び総立ちになった村人たちから歓声と拍手が向けられる。礼拝堂に、笑顔と喜びと祝福が満ちた。アロイスはここ五日間、庭番たちやサティーを訪ねて外について少しばかり学び始めていたが、「おまじない」と同様、「宗教」もこの村に存在していなかったことを知った。特定の宗教がないこの村には、漠然とした信仰――ただ善良であれと人に求め、時々は祈りに応えてくれる神のようなもの――のみが存在していた。礼拝堂も、ただ神へと語りかける場でしかなかった。外の宗教に由来する「結婚指輪」も「結婚式」も、単に習慣として村に取り入れられたのだという。

 式が終わると、ちょうど昼時。一旦、鐘楼へ戻ったフェーベが鳴らす鐘の音が頭上から聞こえる。彼女が戻ると、前日から村の女性陣が腕を揮った食事――男性陣は前々日までの力仕事に汗を流した――に、皆が舌鼓を打ち始める。さして物の多くない村のため、食器や食材、食卓や椅子などあらゆるものが、村人たちによって持ち寄られた。

 村の初めての客人として歓迎されたズロガートとサティーは、庭番たちが招待したのだった。サティーは、自分が飲食をしない種族であることを村人に説明し、それ以外のもてなしを笑顔で受け、感謝を示している。ズロガートもまた、食事を慇懃に――頑なに――断っていたが、サティーが一口分の食物を彼に差し出し、「はい、あーん」と言ってほほえむとあっけなく陥落した。アロイスは目を疑ったが、それも二人の幸福の兆しなのだと思うと、不思議と笑みがこぼれた。

 アロイスもまた、ドロテアとフロリアンのそばで食事を始めていたが、双子の姿が見当たらないと思った矢先、案の定、八百屋の奥さんが訪ねてきた。手伝わせたいことがあるが、手が離せないので探してきてほしいという。アロイスは二つ返事で引き受け、礼拝堂を出た。



 薄灰色の空から、細かな雪がはらはらと落ちてきている。遠くの山脈は白く染まり、平野の雪化粧も村に近づきつつあった。外套、マフラー、手袋、そしてドロテアの手編みの帽子で防寒し、アロイスは家まで戻った。アロイスはここ数日で、うまく帽子を被るこつを掴み、気ままな髪も毛糸の帽子とようやく和解しつつあるらしい。

 裏庭へ回り、家の中に入れてあった自転車を裏口から出して油布を取り、サドルに跨る。どこにいるか見当もつかない双子を探すために、これを使わない手はなかった。目をつぶって双子を思い浮かべると、再び目を開けた時には、村のそばを流れる川の近くにいた。湖から流れてくる清流は、森と林の間を緩やかに曲がりくねりながら村の方へ向かう。草原の向こう、川岸の砂地に並んで腰を下ろす、瓜二つの後姿が見えた。自転車を押しながら歩いていくと、気配に気づいたのか、二人は振り返って手を振った。

「クセニアおばさんが、君たちを探しているよ」

「どうせ手伝いだろ? 俺たち、ゆうべまで働き通しだったのにな」

「さすがに今日は筋肉痛だよ。眠たいし」

 げんなりと笑う双子に、アロイスは苦笑した。しばらくの沈黙の間、川のせせらぎを聞いた後、自転車を立てたアロイスは草地に腰を下ろした。双子は座ったまま尻で向きを変えて、アロイスを振り返った。久しぶりに見る、神妙な顔をしている。

「僕たちも……外のこと、聞いたんだ。今日、サティーとズロガートが来てね」

「これをくれたよ。外へ行くなら、エーレン――エルネスタに頼めばいいって、教えてくれた」

 そう言うとヴァルデマルが、深緑色のベルベットを張った小箱を取り出した。アロイスにも見覚えのある、サティーの眼球のスペアだったが、中に入っていたひとつの眼球の虹彩は緑色ではなく、双子の目と同じ青空色をしていた。眼球を見つめる二人の目は、決してアロイスと同じ年齢ではない、苦悩と希望が綯い交ぜとなった、複雑な表情を見せる。

 先の週末、白いさいころへ連れ去られた際の記憶を取り戻したと、彼らはアロイスに明かした。しかし、生まれてから十六年が経つアロイスとは違い、十六歳のまま十数年、あるいは数十年を経た彼らに、その間の記憶が残されているかどうかについては、二人は何も話さず、アロイスも訊かなかった。

 ヴァルデマルは小箱の蓋を閉め、大事に懐へと仕舞いこんだ。

「外の世界のどこかにいる、腕が確かな人の手にかかれば、これでヴィクの目が治せるんだ。目の色も、俺たちに合わせてくれたんだって。でもこれを使うなら、代わりに、持って生まれてきたヴィクの目を手離さなきゃいけない。あくまで可能性の一つだから、よく、考えろってさ」

「だから僕たち、まだ考えてるんだ。今ある目が治ればそれに越したことはないけど、手離すとなるとね。それに、もし目が治ったら、自分たち自身でさえどちらがどちらなのか、わからなくなるんじゃないかって」

「それって、恐い?」

 そう訊ねると、双子は顔を見合せて笑った。

「ううん。たぶん僕たち、喜んじゃうと思う」

「だから、悩んでるんだよ。周りが困るかもしれないだろ?」

 アロイスもつられて笑った。いま目の前にいる双子は、間違いなくアロイスの知っている双子に違いはなかった。

「二人の望む通りに、したらいいと思うよ。きっと、それが一番うまくいくから」

 双子はまじまじとアロイスを見て、二人がかりで小突いた。

「俺たち、好きにするよ。まずは俺たち自身の希望が優先だよな」

「周りが困るかどうかなんて、今から考えても仕方がないし」

 三人でしばし笑った後、アロイスは立ちあがった。ズボンの尻に付いた草の葉を払い、自転車のスタンドを上げると、双子がアロイスを見上げて笑っている。

「アロイスは、これからどうするの?」

「村に戻るよ。お腹すいちゃった」

「そうじゃない。外には行かないのか?」

 ヴァルデマルに笑われて、アロイスは苦笑いした。まだまだ自分の手には馴染まない、摩耗したグリップを握りながら答える。

「やっぱり、村で暮らすよ。少なくともしばらくは。でも、外との物を売り買いを、少しずつ教わることにしたんだ。母さんの作ったものを売りに行ったり、生地や糸の買いつけを手伝えたらと思って。君たちは、どうするの?」

「エルネスタに頼んで、都――外にはついて行こうとは思うんだ。目のことは、もう少し二人で悩むことにするよ」

「わかった。答え、出るといいね」

 アロイスは自転車を押して向きを変えながら、付け加えた。

「おばさん、手伝ってあげてね」

 双子はやはり座ったまま、川へと向きを変えながら、手だけを振って応えた。アロイスは自転車を押しながら、川沿いに野原を歩き始めた。

 これからのこと。変化と未来を許されたこの村では、今やどんな道でも選ぶことができ、そのためのあらゆる手助けに恵まれていた。アロイスは歩きながら、足元で過ぎていく野原の草を見つめ、自分がこれからどうしたいのかをもう一度、考えてみた。しかし、その道はまだはっきりとは見えない。ただ、今は家族が家に揃っていること、それ自体を大切にする時期だとアロイスは思っていた。

 帽子とマフラーの間の、むき出しの顔に吹きつける粉雪まじりの風が冷たく、痛い。しばらく歩いていると、村の方向から小走りに向かってくるベアトリクスの姿が見えた。彼女はアロイスに手を振り、駆け寄ってきた。日々、着古して薄汚れた仕事着で働く彼女の一張羅――学校にだけ着てくる衣装――の上に、ドロテアが贈ったケープを羽織り、先日ようやく編み上げたマフラーを巻いている。黒いタイツを穿いた脚で北風にスカートを翻し、あっという間にアロイスのそばまでやって来ていた。

「遅いから、心配して」

 息を弾ませて、ベアトリクスは苦笑して言った。赤茶や緑の交じった秋のいちょう色のマフラーが、彼女の琥珀色の目によく似合っている。

「どうしてこのあたりだってわかったの?」

「クセニアおばさんが教えてくれたの。よく、川にいるんだって。ヴィクとヴァルドのいつもの場所、アロイスに伝え忘れたって、心配してたから」

「そうなんだ。迎えに来てくれて、ありがとう。食事中にごめんね」

「いいの」

 ベアトリクスはほほえむと、息を整えるように大きく深呼吸した。

「ベアタ。あの二人は……もうちょっと、戻らないかも。僕たち、先に戻ろう」

 ベアトリクスは頷き、二人は並んで歩き始めた。

「アロイスも、外へ行くの?」

 口元まで覆っていたマフラーを、指をかけて下げながら、ベアトリクスは訊ねる。彼女も双子と同様、外について知らされたようだった。

「ううん、村で暮らすよ。時々は外へ行くと思うけど。ベアタは?」

 彼女は雪の落ちてくる空を見上げ、考えながら口を開いた。

「外のいろんな世界を見たいとは思うけれど……ヴィクやヴァルドとは違って、私には目的がないの。だから、少なくとも目的がないうちは、外には行かないと思う。今まで通りの牛たちの世話も、お店の手伝いも、新しいことを知るのと同じくらい、私にとっては大事だから」

 そう言って、ベアトリクスはアロイスにほほえみかける。人知れず、計り知れない知識と技能を秘めながらも、あくまで彼女は素朴で気立てのいい、村の牛乳屋の娘だった。

「じゃあ……僕が外へ行く時、ベアタを頼ってもいい? ベアタと違って、僕は外の言葉、わからないんだ」

 冗談めかしてそう訊ねると、彼女は朗らかに笑って胸を叩いて見せた。

「任せて。それなら私、役に立てるわ」

「ありがとう。心強いよ」

 林の縁を回りこむと、村の全景が見えた。屋根にくまなく花綱を渡した村はレースを掛けたようで、その向こうに広がる雪景色によく映えていた。

「そうだ、外でうちの牛乳を売ろうかな? そうしたら、アロイス、手伝ってくれる?」

 アロイスは戸惑ったが、思うより答えは早く出た。

「今すぐには無理だけど……役に立てるように、頑張るよ」

「ありがとう。楽しみにしてるからね」

 ベアトリクスがほほえむと、やはり周囲の風景も華やぐ。新しい牛乳配達の無邪気な展望を二人で話し合ううちに、村に着いていた。幾重にも巡らせた花綱を見上げながら、通りを歩く。広場にさしかかる頃には、礼拝堂からは談笑が聞こえてきた。

「それじゃあ、僕、自転車を家に置いてくるから」

「わかった。またね」

 礼拝堂へ消えるベアトリクスを見送り、アロイスは村の通りを歩き続けた。



 礼拝堂へ戻ると、扉の前ではエルネスタとユーリャが、馬のいない馬車のそばで立ち話をしていた。アロイスに気がつくと、二人は手を振った。

 アロイスは五日前に記憶の一部を取り戻した双子から、エーレンフリートについて聞かされていた。今朝を境に、彼女が馬車屋の「娘」となっていたことにも、驚くことはなかった。

「どこに行っていたんだい? アロイス」

 エーレンフリートの顔の面影はそのままに、エルネスタは、長い金色のおさげ髪をうなじから頭頂部へとぐるりと巻き、凛々しい礼装に身を包んでいる。周囲にとっての彼女の見え方や認識が変わったというだけで、その人となりや口調が変わることはなかった。

「ヴィクとヴァルドを探しに行ってた。声はかけたけど、まだ戻りそうにないよ」

「あいつらは強情だからな」

 そう言って笑い、エルネスタは遠い川の方向へ目をやった。

 その隣には、新郎と新婦の馬車を牽くという大役を人知れず果たしたユーリャが、今は人の姿で、郵便配達の制服ではなくくつろいだ普段着という格好で立っている。礼拝堂から持ち出してきたらしい、料理を満載した大皿を片手に、ひっきりなしに手と口を動かしている。エルネスタはほほえましげにユーリャの食べっぷりを眺め、白銀の髪をくしゃくしゃとかき混ぜた。

「今日は、ユーリャもよく頑張っていただろう?」

 アロイスが頷くと、しばし手と口を休めたユーリャは、少し沈んだ目を伏せ、黙って食事を再開した。あの巨体を養うために人の姿である時も、食物の種類は違えど、彼は相当の量を食べなければならないらしい。

 彼の目に頑なに巣食っていた失望は、ここ数日でもずいぶんと薄らぎつつあったが、それでもなお根深い。アロイスが見る限りでも、ユーリャはエルネスタに褒められる度に、自分の働きはまだ足りないと言って落胆していた。しかしそれも、小さな実績を少しずつ積み重ねることで、いつかは必ず解放されるに違いはなかった。

 アロイスは、気になっていたことを訊ねることにした。

「エルネスタは、今までどうして男だったの? いま見たらどうみても女だけど、前は僕たちみんな、どうして気付かなかったんだろう?」

 彼女は、苦笑して額に手をやったが、今日は、そこに帽子はなかった。

「本当は女だけど、手違いで男ってことになっていたんだ。これを機会に、あの人に頼んで、願いを叶えてもらった。馬車屋の力仕事で気を遣われるのを避けたかったから、あれはあれでよかったけれどね。おとといの力仕事にも、エーレンフリートとして参加したし」

「おばさんとおじさんは、知ってたの?」

「いいや、知らせていなかったよ。僕は息子だった。でも、女に戻る前日に話したんだ。僕は本当は女で、明日から女として暮らすよ、って。どのみち、僕に関する皆の記憶は訂正されるからね。両親、何て言ったと思う?……『いつ自分から言いだすのか、俺たちはずっと待ってたんだぞ』、だってさ」

 いつの間にかユーリャも手と口の動きを止めて、彼女を見上げて聞き入っている。

「僕たちは作られた家族だけど……やっぱり、僕たちは家族だよ」

 彼女のしみじみとしたほほえみを見て、アロイスはふと疑問が湧いた。

「そういえば、ユーリャとオフェリアって、家族なの? 前は僕、考えたこともなかった」

 ユーリャは口の中のものを飲みこんでから、答えた。

「オフェリアと姉弟で、都から派遣されて移り住んだ、郵便局員ってことになってた。でも、かなり前にそれは忘れ去られてたから、僕はあの双子にもつきまとわれずに済んでたんだ」

「だからヴィクとヴァルドに、エルネスタにつきまとうなって、怒ってたの?」

「そんなこと言ってたのか? ユーリャ」

 問い質すようにエルネスタに見つめられて、ユーリャは目をそらすこともできないまま、硬直していた。やがて耳まで赤くなった顔で俯き、もごもごと聞き取りづらい声で答えた。

「……うらやましかったんだ。僕だって、そばにいたいのに」

 アロイスは緩む口元を必死に手で覆った。エルネスタは屈託のない笑いを爆発させながら、励ますようにユーリャの肩を叩いた。

「それならよかった。これからは、いやって言っても一緒にいるしかないんだからな」

 ユーリャは照れ隠しのように、食事を再開した。

「二人は、これからどうするの? 一緒に仕事をするって言ってたけど」

 笑いが落ち着いたエルネスタは、背後の馬車を指さした。

「この村を拠点に、外との郵便配達と乗合馬車屋をやるよ。それから、君が外や他の箱庭へ行けるように案内もしたいね。一度は現地へ赴いて記憶しないと、あの自転車でも行けないから。君にその気がなければ、他の誰かに自転車を譲っておいてくれ」

「ううん。僕、やるよ」

 エルネスタはアロイスの頭を帽子越しに撫で、ユーリャは食事の手を止めず眩しそうにアロイスを見てほほえんだ。

「わかった。その件については、追々、相談しよう。今日は、お祝いの日だからね」

 二人に手を振って別れ、アロイスは開け放しの扉から礼拝堂へ入った。



 礼拝堂に戻り、アロイスはズロガートを訪ねた。ズロガートは賑やかな宴の席から少し離れたところで、礼拝堂のベンチに腰を下ろし、村人たちと談笑するサティーを遠目に見つめていた。そのまなざしはとてもいとおしげで、退屈など微塵も存在せず、唇には淡い微笑すら浮かんでいる。近づいてくるアロイスに気がついた彼は顔を上げ、苦虫を噛み潰した顔でそっぽを向いた。アロイスが隣に座っても構わないかどうか訊ねると、彼はぶっきらぼうに、「好きにしろ」とだけ口にした。四人掛けのベンチに、彼から二人分を開けて座る。

 そばで見る彼は、白いシャツと灰色のベスト、灰色の外套という、もはや見慣れた格好ではあったが、今日は灰色の髪を申し訳程度に撫でつけ、あの不精ひげは見当たらない。サティーに同伴するために、渋々と身繕いしたのだろうか。礼拝堂内に散らばったろうそくの光が、彼の暗い灰色の目に光を投げている。

「あなたに、訊きたいことがあったんだ」

 ズロガートは返事をしない。アロイスが黙って待っていると、気まずくなったのか、気のない様子で口を開いた。

「何だ」

「僕が生まれる前、名前にAがつく人はいなかったよね。フェーベの日記で確認したんだ。どうして?」

 ズロガートは、アロイスの方を見ようともしない。村人たちに囲まれて笑うサティーを、まんじりと見つめている。

「元からいなかった。Sと同様、空けてあった」

「誰のために?」

 ズロガートは疲れたように、ため息をついた。膝の上に肘をつき、苛立ったように小さく呻きながら灰色の髪をかきむしった。アロイスには彼の表情は見えなかったが、やがて落ち着いたのか、片手で頬杖をつきながら、苦々しい口調で口を開いた。

「……私自身、ある人物のクローンだ。かつて数百体が作られ、今は私も含め百体弱が生存し、世界中に散らばっている。親――元になった人間の名は誰も知らず、我々クローンは、彼をアルファと呼んでいる。その、Aだ。お前が生まれた時、欠番のAから名付けた」

 それだけを言って、彼は消耗したように息をついた。

「そのアルファっていう人は、あなたに似てるの?」

「我々は、肉体にも内面にもくまなく手を入れられている。原形を留めていない。皆、年齢も背格好もまちまちだ」

「じゃあ、どこかで会ってもわからないんだね」

 ズロガートは黙っていたが、密かに拳を握りしめたのが見えた。何か事情がある様子だが、彼には話すつもりがないようだった。アロイスも、訊ねないことにした。

 足音が聞こえて顔を上げると、二人の前にサティーが立っていた。いつものほほえみだが、その片目には今も包帯が巻かれている。

「ズロガートさんのことが、気になったものですから」

 そう言って、サティーはズロガートの隣に、寄り添うように腰を下ろした。

「二人は、これからどうするの?」

「他の箱庭やその外の世界を旅し、他のクローンを探すことにした。彼らと、ひと仕事しなければならん。……サティーは、ついてくるそうだ」

 サティーを見ると、横顔だけでもよくわかる、満ち足りた満面の笑みで頷いている。アロイスにも笑みがこぼれた。

「じゃあ、気をつけてね。僕たちのこと、本当にありがとう。サティー、ズロガートさん」

 アロイスは席を立ち、二人の前で小さく頭を下げた。

「……お前のためにやったわけじゃない」

 ふてくされるズロガートの肩に、いとおしげにサティーは頭をもたせかける。その後、ズロガートとサティーはひっそりと去り、アロイスは家族や村の人々の元へ戻った。



 結婚式の後の宴も、日が暮れる頃にはお開きとなった。雪の止んだ空は、ぼんやりと明るい。残った食事は無駄にされることなく持ち帰られ、女性たちが広場にある井戸の周りに集まって食器を洗う間、男性たちは椅子やテーブルを自宅へ運んだ。ドロテアは、衣装の件ですでに式に貢献したため、休んでいるようにと奥様方から釘をさされていた。しかし、椅子を借りて井戸端会議に参加しているうちに手持ち無沙汰となり、皆が洗った食器を拭うなどして、結局は自分の仕事を見つけていた。

 アロイスはフロリアンと共に、家のテーブルや椅子を運んでいた。一度、二人でテーブルを家に運ぶとまた礼拝堂へ戻り、親子で二つずつ椅子を抱えて帰る。椅子を運び終えた後に広場までドロテアを迎えに行くと、彼女は自分が持ち寄り、洗い終えた食器を膝に乗せ、アロイスとフロリアンに手を振った。井戸端会議を続ける奥様方に見送られながら、三人で家路につく。

 日はすでに沈み、村の通りは家々の窓から漏れてくる明かりに照らされている。アロイスは食器を抱え、フロリアンは片手に椅子を、もう片手ではドロテアの背を支えながら、三人はゆっくりと通りを歩いた。夜は冷え、冷たい風に乗って、あたりに夕餉の香りが漂ってきている。

「アロイスは、これからどうするの?」

 今日、いろいろな人に訊ね、訊ねられたことながら、アロイスは戸惑った。食器を落とさないよう、触れ合わせて欠けさせないように注意を払いながら、暗い通りを見つめた。

「村で暮らすよ。時々は、外に行くエルネスタの仕事を手伝うけど」

 両親を見ると、二人は気遣わしげなほほえみを浮かべて足を止め、一人息子を見ている。この光景は、アロイスがかつて夢見て、望んだものだった。この五日間、幸運にも叶えられた望みの恩恵を、余さず大切にして維持することを、間違いではないとアロイスは信じて疑わなかった。しかし同時に、両親の見せるほほえみの意味も理解していた。

「私たちの生活は、心配しなくてもいいんだよ。アロイス」

「行きたいところへ、行くといいのよ。お前の、したいことをするの」

 この恩恵と幸福も、いずれは、手離さなければならない。不変の恩恵である永遠の代わりに変化と未来を望んだ以上、ここに留まり続けることはできない。この幸福と時の糸に、別の糸を結ばなければならなかった。人は老いていき、時は取り返せなかった。

「僕は、僕のしたいことをするよ。大丈夫」

 両親を見ると、心配そうではあるが、しっかりと頷いていた。家は、すぐそこだった。

 暖炉に火を入れ、食事の支度をする。今日できたばかりの思い出話に花を咲かせ、明日の話に笑みをこぼす。アロイスの胸に、不意に冷風が吹きこむ。

 暖炉に一番近く、食卓で一番暖かい席に座り……そばに家族がいる日は、どれほど残されているのだろう。今はもういない、ネーポムクおじさんの言葉を思い出す。彼の千鳥格子のスカーフが、今でも変わらずフロリアンの首元を覆っているのが、アロイスにとっては救いだった。

 アロイスは、胸に吹きこんだ冷風を大切に仕舞っておくことにした。暖炉に一番近く、食卓で一番暖かい席に座り……ここに家族がいる今を、精一杯、見ておかなければ。彼らを、覚えておかなければ。

 選択の時に捨てたものが何を残してくれたのか、覚えておかなければならなかった。取り返しのつかないものが教えてくれた、かけがえがないということへのいとおしさとともに。




(了)


2014. 02.

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