第10話 玄

鎌倉駅周辺には、多くのカフェ、喫茶店がある。

老舗の有名店もあれば新たな出店も、チェーンのコーヒーショップもあり、こだわりがなければ休憩する場所には事欠かないだろう。


その中でも、是非入ってほしい店。

それが「自家焙煎珈琲 玄」である。


鎌倉は鶴岡八幡宮参道、いわゆる「若宮大路」から少し奥まった、いくつかの店が集まる小路のような場所の奥に「玄」はある。

働くことに疲れた者が夢想する「こだわりのコーヒーを淹れながら、そこそこ客のいる小さい喫茶店を経営して暮らしたい」を具現化したような店だ。もちろんそんなわけはなく、切り盛りする苦労は大いにあるはずだが、一度来てみれば「なるほど!」と思ってくれるだろう。

店は全面ガラス張りだが、人のほぼ通らない小路、「玄」かその隣りの店に用がある人しか近寄らない立地、ガラス張りになっている方には向いていないカウンターのおかげで全く気にならない。

木の扉を開けた瞬間に香るコーヒーと流れてくる静かな音楽は、否が応でも「美味いコーヒー」の期待感を抱かせる。

それもそのはず、コーヒーは自家焙煎したのを三日ほど寝かせてから使うというこだわりようだ。

店主達の立つカウンターの後ろは棚になっており、そこにずらりと日本製のコーヒーカップとソーサーのセットが並んでいる。

有馬や伊万里、清水などのものだという。

一組として同じものはなく、月ごとの花の柄や青と白の模様が美しいものなど眺めているだけで楽しい。カウンター席に座り、温かい飲み物を注文すればそこから美しいカップが取り出される。カップは客が選べるので、どれが良いか選ぶのもまた楽しい。

なお、先日の訪問時はカフェオレに「三月のカップをお願いします」と頼んだのだが、金地に桜の柄の華やかなカップで提供され、少し早いお花見の気分を楽しませてもらった。

店は小さく、左右を見渡せばそれで全部である。

それにも関わらず、外に客が並んでいるどころか満席になったところすら見たことがない。だが、初めて訪問した――それは何年前のことだったか思い出せないのだが――頃から一切メニューを変えず、それでコロナ禍も乗り切ったのだからよほど根強く支持されているのだろう。

メニューは、オリジナルブレンドを始めとした数種類のコーヒー、二種類の紅茶、そして変わったところでは手練りのココアに手作りらしい桃のジュース。軽食の類はなく、飲み物と一緒に食べられるメニューは「濃厚チーズケーキ」と「クルミのケーキ」の二つだけである。

チーズケーキもクルミのケーキも、見た目はシンプルだがコーヒーの味わいに負けないしっかりした美味しさだ。コーヒーだけを味わうのも良いが、できればケーキセットで楽しんでほしい。

私がどちらを頼むかは完全に気分次第だが、それに合わせる飲み物は大抵、水出しコーヒーだ。

この水出しコーヒーは、ミルクとシロップを多めに入れても最初にがつんと殴られたようにコーヒーの苦みと香りが広がり、後に美味しい香りが残る。訪問の度に注文し、毎回「うはあ……」と唸ってしまう。

それからケーキを一口。シンプル、甘い、美味しい。もっとずっと食べていたいような、コーヒーと合わせるとちょうど良いような大きさのケーキをちびちびと食べ、またコーヒーを飲む。

何度も「うはあ」とひっそり唸りながら、最後の一滴まで惜しむ。

店を訪れる客は、グループもいれば私のような一人まで様々だ。たまに、私が初めて迷い込んだときのように、観光客らしい大荷物の客も現れる。

お喋りに興じる客はいてもうるさくはなく、一人を楽しんでいる客はいても落ち着きはある。そんな、ゆったりとした空間でコーヒーが楽しめる。

持ち込んだ本を読んで過ごしていると、壁の時計が鳴って時刻を知らせてくれる。時計の鳴る音なんて今時滅多に聞けるものではなく、いつも顔を上げて時計を見てしまう。


行く度に幸福な気持ちにしてくれる店を、どうしてみんな素通りしていくのか不思議である。しかし、外に人が並ぶほど人気になってしまったら立ち寄りにくいので、人気になりすぎたら困るな、とも思う。

いつまでも、「いつ行ってもそこそこ客のいる店」として、店主を始めとした店の方々には元気でいてほしいものだ。

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鎌倉ぽくぽく 清見ヶ原遊市 @kiyomigahara

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