鎌倉ぽくぽく

清見ヶ原遊市

第1話 扉

 その店に出会ったのは、もう10年も前のことになる。

 私がまだ学生の頃、実習で鎌倉を訪れたときのことだ。

 初めての鎌倉に浮かれていたために、集合時間よりもかなり早く鎌倉駅に到着してしまった。

 どこかで時間を潰さなくては、と思うものの、特にガイドなどももっておらずに途方に暮れていた私は、ふと視線を斜め上に上げた。

 何の気なしの行動だったが、そのとき目に飛び込んできた扉という文字に引き寄せられ、ふらふらとそちらに向かっていた。

 近づくと、やけに混んでいる。実は「扉」の文字のあるビルの一階は、あの有名な鳩サブレーの店、豊島屋であった。

 本店のすぐ外に、「扉」の看板も小さく出ている。パーラー、という小さな文字に、私は、ここで少し休めるかも、という期待と、豊島屋を利用した人で混んでいるかも、という不安を覚えた。

 後で知ったことだが、「扉」は、というよりもそのビルに入っている店全部が豊島屋が経営しているものであった。

 どきどきしながらエレベーターに乗る。そしてガラスの扉をくぐって、私は拍子抜けした。

 一階の、観光客でぎゅうぎゅうの状態からは想像できないほど、「扉」は静かだった。

 客がいないわけでは、もちろんない。席はそこそこ埋まっている。しかし、人が多くて息苦しいというほどでもなく、呆気なく私は席を確保することができた。

 よく考えてみれば、すぐ傍にはパンケーキで有名な、鎌倉のガイドブックでもおなじみのイワタコーヒー、駅を出てまっすぐ行けば銀のすず、チェーン店だが不二家もスターバックスもルノアールもあり、小町通に行けば更に喫茶店もレストランもコーヒーショップもあるという具合に鎌倉駅周辺は観光地らしく喫茶激戦区なわけで、「扉」の存在を知っていたかそこが目的地だったか、上を向いて歩いている頓狂な人間くらいしかすぐにそこに入ることもないだろうと思われた。

 メニューをしげしげと眺めて、店名が久保田万次郎のつけたものだと知った。久保田万次郎は、明治時代から昭和時代にかけて活躍した作家、俳人など様々な肩書の文化人である。

 空腹だった私は、「扉風オムライス」とアイスコーヒーを注文した。元々、オムライスは大好きである。それが扉風。扉風とは何なのか。わくわくしないわけがない。

 果たして運ばれて来たのは、クリームソースのかかった、不思議な形の物体だった。何と言うか、柱の土台の石を思い出した。しかし色はきちんと卵である。とにもかくにも食べたからだと、さっそくスプーンを入れる。

 ふわっ。そうとしか言いようのないめり込み方をした。ふわっ。ホワイトソースをよくつけて一口。また、口の中でふわっとする。香りの良いバターライスに塩気のある、よく焼けているのにふんわりとした卵、そして濃厚なホワイトクリーム。

 何となく入ったがこの店は当たりだ! と喜びながら食べ進める。自分で作るオムライスはチキンライス派だが、たまにはバターライスも良いものである。それに、ホワイトクリームのオムライスなんて自宅では作らない。珍しい味だが美味しい。

 最初に見たときは小さいかも、と思ったオムライスも、食べ終わってみれば満腹だった。ホワイトクリームを舐めたくなる衝動をぐっとこらえる。

 アイスコーヒーはピッチャーで運ばれてきて、なんと二杯飲める。

 時間を潰そうとするあまりに氷も溶けて薄くなったコーヒーをちびちび飲むこともあるが、そんな心配も要らない。きっちり濃いままのコーヒーが二杯。何ともありがたい。こんなことをされたらだらだらしてしまうではないか。

 そんなわけで、私の中の「また行きたい店」に「扉」の名前が書き込まれたのが最初の出会いであった。


 数年後、東京に出てきて鎌倉に遊びに行くようになると、ちょくちょく「扉」にも足を運んだ。

 いつ行ってもそこそこ客はいるが、待たされるほどではない。そして、「パンドラ」という、パンにアイスを挟んでチョコレートソースをたっぷりかけたものにすっかりハマってしまった。子供の頃に食べた覚えなど一切ないのに、どこか懐かしい味がする。

 鳴るほどにお腹を空かせて「扉」に入り、「扉風オムライス」と「パンドラ」、そしてアイスコーヒーを注文するときが至福である。鎌倉駅のロータリーを見下ろしながら食後のアイスコーヒーを飲んでいると、にやにやしてしまう。

 鎌倉に引っ越してきて、最初の日も「扉」で自分だけのお祝いをした。

 いつか、「扉風オムライス」のホワイトソースも「パンドラ」のチョコレートソースもきれいに舐めてみたいものである。と思いつつ、恐らく実行はできないだろうけど。

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