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二〇一四年六月二十日金曜日。
東光株式会社テレビ第二営業部所属嘱託チーフプロデューサー・東條信之の送別会当日。
二〇時過ぎだったが、撮影所内の食堂には百人以上がごった返していた。東光に関わる仕事関係の人間がほとんどだが、テレビ局や東條の付き合いのあった役者と思しき連中の姿も見られる。
ケータリングの料理はほぼあらかた食べ尽されている。テーブルにはビールやペットボトルの空き瓶が散乱していた。正面には『ありがとう東條信之プロデューサー 田舎で農業頑張ってらっしゃい』との横看板が飾られている。たぶん美術スタッフの誰かが制作したのだろう。
真由香は顔見知りのスタッフに挨拶しながら人波を掻き分けるが、主役である東條の姿は見なかった。
「宮ちゃん遅いよー」
すっかり出来上がっている槇憲平が顔を赤らめながらやってきた。足がふらふらしている。というか、この会の幹事は槇のはずなのに、一人で出来上がってどうするとあきれる。この男の酒癖の悪さはもともと折り紙つきである。
「東條さんはどちらですか?」
「挨拶周りに出かけてんじゃないのー」
槇の口調は相変わらずたどたどしい。真由香は「はいはい」と溜息と吐いた。ただ、槇が東條の下に就いて仕事をした期間は真由香よりもずっと長く、おそらく師匠的存在だったので今こみ上げる惜別の思いはずっと複雑なものなんだろう。
「宮地さん、少しよろしいでしょうか」
おそるおそる東光テレビプロの制作進行助手の上岡という若い男の子が声をかけてきた。『飛翔戦軍スカイフォース』にアシスタントとしてかかわっている。
その隣に見覚えのない白髪交じりの中肉中背の男が立っていた。神妙そうな表情で齢の頃なら五十過ぎくらいか。オレンジジュースの入ったグラスを手にしている。
「こちら、財前さんです」
「……あ」
財前と紹介された男はきゅっと唇を噛み締めると、一歩前に出た。「お」と軽く手を挙げた。
「東條さんには随分お世話になりました……財前です。宮地君、ようやくお会いすることができた」
「お時間が取れず失礼しました。はじめまして、ですね」
真由香は頭を下げる。いささか緊張する。
「大変だね、昔はドラマの掛け持ちなんて当たり前だったんだけれどもね、今どき珍しい」
「BS太陽の社長さんにどうしてもと頼まれたんです」
「……気をつけなさいよ。いいように使われないように」
無表情で財前は素っ気なく言い放った。その言葉は真由香に向けられた厭味なのか、真由香を気遣っているものなのかよくわからない。
財前は周囲をきょろきょろと見まわすと、少し声を落とした。
「ところで」
「はい」
「なんか顔色悪いよ」
真由香は思わず財前の顔を凝視する。
「……またいずれゆっくりと」
一礼して、そのまま人波を掻き分けて財前は去っていった。
なにがいずれゆっくりなのかがわからなかった。
槇憲平は椅子に座ってぼおっと空を見上げていた。
食堂の外に出ると、東條は堤谷泰夫と立ち話をしていた。二人ともこの暑いさなか、クールビズじゃなく上下スーツを纏っていた。
「今ちょうど、あなたの話題をしていたところでね」
近づいてくる真由香に気づくと、東條は片手を上げた。
真由香は立ち止まると、深々と一礼した。
「いろいろとお世話になりました」
「何にもしてないよ。僕はただ見守っていただけ。『スカイフォース』が始まった時もフランスにいたしね。随分とわがままを通させてもらった。すまなかった」
東條は『飛翔戦軍スカイフォース』で現在はアソシエイトプロデューサーを務めているが、東光から籍を抜くこともあり、七月放送回からはクレジットから外れることになっていた。
「本当はもっとプロデューサーを続けてもらいたかったです。実際人手不足だし、先輩のようなスキルを持った人材を育てようと思ったら何年かかることか」
堤谷部長がしみじみとそう述べるが、東條は一笑に付した。
「そんなこと、宮地さんの前で言うなよ。彼女や槇がいれば大丈夫だよ。安心してここを去れる」
東條は真由香を見る。
「ホントはね、あなたが頼りにならないプロデューサーだったら、僕もここを辞めるのにいささか躊躇したのかもしれないけれど。あなたがいれば東光は大丈夫だ」
「そんな大袈裟ですよ」
「こっちは真剣だよ」
東條はまっすぐと真由香の目を見つめた。その眼には真剣な光が宿っていた。思わず真由香は居住まいをただした。
「あなたが今後、ずっとテレビをやるのか、また映画に戻るのか、それとも何かほかの部署で仕事を行うかはわからない。だけど、これから十年後、二十年後、その先の東光は任せたよ」
軽く咳ばらいをすると、東條はにんまりと笑う。「それから忘れないよ、去年あなたが言った言葉。……『ヒーローとは仕事である』」
昨年、東條からこういう質問を受けた。「あなたにとってヒーローとは何だ?」……最初とっさに言われたときは何も反応できずうまく答えられなかった。その後『スカイフォース』の立ち上げに関わるようになり、もう一度同じ質問を受けたときはすんなりと答えることができた。
いまもって、これ以外の答えを思い浮かべることができなかった。
「それにしても疲れてないか? 顔色悪いよ」
「なんかみんなにそう言われます」
思わず苦笑した。別に今現在は体調が悪いというわけではなかったが。
そしてふと、そういえば東條はどういう答えになるのかと思い、唐突に興味がわいた。
「……東條さんにとって、ヒーローは何ですか?」
東條信之は右の拳をぐっと固めると、何度も胸を軽く叩いた。そして何度か頷く。そして、少年のようにおおらかに破顔した。
「あなたと同じ答えだよ」
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