第四夕 憧憬妄語

第四夕 憧憬妄語


さて、今日も書いてみよう。夕暮れがもうすぐやって来そうだ。


今日は火曜日、チェロの日だった。春から習い始めたチェロも、ようやく鳴ってくれるようになってきた。まだニ長調しか弾けないけれど、習うのとは別に、好き勝手弾いている。新世界交響楽の第二楽章、いまはあの曲を練習しているよ。もちろん、原調では弾けないから、移調してるけど、それでもあの曲の2パーセントくらいは、共鳴を感じることが出来るんだ。今度、もう少し上手くなったら、聴かせてあげるよ。


音楽はね、昔から弾くほうが好きだった。僕は小さい頃からピアノは習っててね。でもまあ、小さい頃はイタズラだったから、ずっと教室の中走り回ってたし、必死で止めようとする先生の手に噛み付いて、ずいぶん怒られたりもしたんだけどね。


あの頃は、ピアノ好きじゃなかったな。なんだかよくわからない童謡とか弾かされて、「じょうずねー!この曲はマル!!」とか言って花マルもらってさ、嬉しそうにしてる女の子なんか見るとさ、「バッカじゃねえの」とか思ったりしてさ。ひねくれてるのは昔からなんだね。それで同じ教室の男の子と一緒にさ、エレクトーンの下でかくれんぼとかしてたんだね。


でも、嫌々でもやらされているうちにさ、少しずつクラシックをやるようになったんだ。はじめはエリーぜとかトルコ行進曲とかさ、これまた発表会で弾くような曲ばっかで、得意げに弾いている例の女の子を見てさ、「ヘッタクソ」なんて内心あっかんべーだったよ。で、いつからそれが変わったかっていうとね。たしか、あれは小学生の時だったかな。テレビかなんかで、音楽の番組を見たんだよね。で、そこで弾いてたのが、ラ・カンパネラ。なんかおしとやかな女の人がさ、オニみたいな顔して弾いていてさ。もう二の腕なんかブルンブルン震えててさ。それがあんまり可笑しくって、最初は笑いながら見てたんだけどね。でもだんだん曲を聴いていくうちに、あれ、これはちょっと違うぞ、とね。今まで聴いてたつまんない曲とは、ちょっとこいつはモノが違うって。ナマイキにもそんなことを思ったんだよね。


それで、そっからは少年の好奇心さ。車で一時間かかる図書館に連れてってもらってさ、ラ・カンパネラのCDを何枚も聴いてみたんだよ。ユンディ・リとか、フジコヘミングとか、ポリーニとかキーシンとか、まあ田舎だから有名どこしか置いてないんだけど、それでも子供には十分すぎたよね。おんなじひとつの曲なのにさ、全然違う曲に聞こえるんだよ。そんなの、知らなかったからさ。みんなで一緒に「せーのっ、どれみふぁそーらふぁみ、れっ、どーっ」ってやったりさ、手拍子に合わせてゆっくり弾いて、ちょっとでも外れたら「もう一度やってみましょうね」なんてさ、そんなもんだと思ってたんだよ。それが、一気にぶっ壊されちゃってね。それで、簡単に憧れちゃったんだな。


そっからは色々聴いていったんだ。ラ・カンパネラのCDに入ってた、超絶技巧練習曲とかいう小学生男子の心を掴んで離さないタイトルの曲聴いて、「すげーーーーーーーーーーー」ってなってみたりさ、「ハゲの歌」だと思ってたバッハのフーガを見つけて、オルガンの響きに打ちのめされたり。今から見りゃ超有名曲ばっかだけどさ、その頃は全部が新しくてね。聴くたびにグルングルン世界変えられてたわけ。


そんで、安直に思ったわけさ。「おれは現代のリストになるんだ」ってね。思えばきっとあれもたぶん、パガニーニの悪魔みたいなバイオリンを聴いて、「おれはピアノのパガニーニになってやる」って言い放ったっていう、リストの伝記を読んだせいなんだけどね。でも、その時は本気で思ったんだよ。だから、その頃から家にあった電子ピアノを猛烈に弾き始めて。弾いてみると、やっぱり本物が弾きたくなってね。それで、母親に頼んだんだよ。ピアノ、買ってくれって。でもほら、走り回ってた姿が焼き付いてるわけだからさ、どうせ一過性のものなんだろうって、当然買ってなんかくれないわけさ。そんで仕方ないから、来る日も来る日も電子ピアノ弾きながら、ピアノ買ってくれって頼み込んだよね。そしたら、ある日電子ピアノがイカれちゃってさ。おれ、弾きたくても下手くそなもんだから、癇癪おこして鍵盤殴ったりしてたんだよね。たぶんそれでおかしくなったんじゃないかなあ。まあとにかく、壊れちゃったもんだから、これはもう新しいの買ってくれって。泣いて頼み込んだわけですよ。で結局、楽器屋に聞いてみたらさ、電子ピアノ修理するよりも、新しいの買ったほうが安いですよって言われてね。で、うちの親もへんなとこあるからさ。どうせ買わなきゃならないんだったら、せっかくだし本物買いましょうってなってね。まあもちろんグランドピアノなんか買ってはくれなかったけど、それでも本物を弾けることになった。


初めてピアノがうちに来た日は、それはもう夜中まで弾いていたよね。クレーンで吊るされてピアノが来てさ。あれはもう、死ぬほど嬉しかったなあ。


そんなこんなで、それ以来いろんな曲を聴いては、楽譜を探して弾こうとしてたよね。弾けるはずもない難曲ばっかりだったけど、メロディーと簡単な左手だけ弾いて楽しくなったりね。そうやって、中学とか高校まで好き勝手つづけてた。途中からは耳コピなんてことも覚えてね。ポピュラー曲とか映画の曲とか、あとはゲームやらアニメの曲とかね。とにかくいろんなものを弾いてみてたなあ。


で、たしか、いまのおまえくらいの時だったかな。そんときに出会ったのが、いまも大好きな曲たちなんだ。ひとつは、新世界交響楽。もうひとつは、ショパンの舟歌。それから、バッハの無伴奏チェロ。どれも超が付くほど有名曲だけど、こればっかりは未だに聴いてるし、弾いてる。もっとも、おれはピアノしか弾けないから、ぜんぶピアノにして弾いちゃうんだけどね。こればっかりは、どうぞ聴いてみて、自分でハマってくださいとしかいいようがないから、ヘンにオススメしたりはしないけど…でも、もし興味があったなら、五分でいい、聴いてみて欲しいかな。五分で「おっ」てならなかったら、もう捨てちゃってかまわないから。


新世界交響楽はね、銀河鉄道の夜に出てくるんだよ。まあ、カムパネルラも初めて見たときは、ラ・カンパネラがどうしても思い起こされて、それで引き込まれて読んだんだけどね。どうか、第二楽章を聴いてみて欲しい。きっと、この夕暮れによく似合うと思う。


舟歌も、これまた夕暮れの似合う曲なんだ。僕はそのうち、あの曲で長編詩か、小説を書きたい。夕暮れと、水辺と、少年の物語。それがどんな物語かは、きっとまたそのうち書くことにするよ。


で、最後の無伴奏チェロだけど、これは有名な第一番だけでいいから、とにかく聴いてみて欲しいかな。僕は、あの曲は宇宙だと思う。チェロ一台の単旋律だけで、すべての宇宙を捉えてしまった。はじめてあの曲をヘッドホンで聴いた時、もうしばらく茫然としていた。草原でおそろしい星空を見た時と、おんなじ感覚に陥っていた。どこか真っ暗で何もないところへ、ポーンと投げ出されてしまったようなね。あの感覚、あれが襲ってきたんだ。それでもう、いつかこの曲を弾いてみたいって、それ以来ずーっと思っていたんだ。


それでついに抑えきれなくて、チェロなんか始めてしまったってわけ。それで今また、大嫌いだった音楽教室に通ってさ、ヘンな童謡みたいな曲をさ、手拍子に合わせて弾いてるわけです。まったく、なんも進歩しちゃいないんだけどね。


でも、あの頃とおんなじなのは、僕はまだ憧れを持てているってことです。ラ・カンパネラに憧れてさ、ずっとピアノを弾きだしたみたいにね。僕は無伴奏チェロに憧れて、下手くそな童謡だって弾いてみせるよ。


憧れの感情は、強い。それは少年の特権であり、ただ憧れを知る者だけが、その美しさに浸っていられる。僕は、君がそれを持つことを知っている。君の時おり見せる眼差しは、彼方へと憧れる少年の瞳だ。


だからどうか、憧れを忘れずにいて欲しい。それは少年をいつか必ず、此処ではない何処かへと連れて行ってくれるから。



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