第13話 アイスと謎はとけていく。♯4

 記された『春休み』の三文字。


 ページを繰る。


 そして、七月、八月のところに、実結みゆいは、『夏休み』の文字を書いた。


「春休み、夏休み、共に、平日であっても確実に休みになります。それは……大人ではあり得ないこと。ですが」


「あ、学生は休み。……って、ことは、もしかしてその相手って」


「そうです」


「女学生?」


 実結ががくんと肩を落とした。初めて見る姿だ。


 恥ずかしそうに照れ笑いをしながら、「そうではなくてですね」と実結は、スケジュール帳を自分の方に向け、シャープペンシルを用いて三秒。記した文字をこちらに見せる。


「わたしは浮気を否定する立場なので、その選択肢を除外して、こう結論付けたと言いますか、結論付けたいと言いますか」


 スケジュール帳の端に書かれた、実結が導き出す答え。


 小さな文字で、数は二つ。


「『子供』……こ……子供?」


「はい。お子さんです」


 ワタシの頭はどこぞの会社員を想像していた。ぱっと浮かんだのも大学生だった。


 まさかの子供。子供。子供?


「子供と浮気してんの?」


「何故そういう方向に行くんですか麻衣まいちゃん。そんなに浮気していて欲しいんですか」


「いや、え、どういうこと?」


「彼氏さんのお子さんということですよ。先程麻衣ちゃんは彼氏さんについて、『バツがついている』と仰っていたじゃないですか」


「いや、確かに言ったけど、子供いるなんて聞いたことないよ」


「今付き合っている女性に、好んで過去のことを語る男性は少ないかと思われます。お子さんがいると知って去っていく女性も少なくないでしょうから」


 あくまでも推測。ワタシの話を聞き、メールを見て実結が推測したに過ぎないんだけど、ワタシは隠さずに動揺した。


 浮気でした。そう聞かされるよりも、地味にショックなことだったのかもしれない。


「ちょっと、一足飛び、って言うかさ。え……そりゃあ、バツ付いてるって聞いた時から考えたことなかったか、って訊かれたらそりゃ、あったけどさ」


「離婚歴がある以上、一足飛びではないと思います」


「子供……子供……か」


 一気に沈む声が、まさかここまで低いトーンにまでなるとは思わなかった。


 実結がアイスアイスって言うから、慌てて食べようとしたけれど、どうにも口に運べない。代わりに、残り僅かになった抹茶味は、実結が食べることになった。


 伏せた目を実結に向けると、あっという間にアイスもコーンもなくなっていた。服をまくり上げれば胃袋に直接食べ物を放りこむ為の扉でもあるのだろうか。


「離婚された元奥様との間にお子さんがいた場合、全て説明出来る気がするんです。

 まず、三月が春休みなので、日中にお子さんと会うことが出来ます。夕方お別れしてからふとを開いてみると、麻衣ちゃんから何度も連絡があったことにようやく気付いた。

 四月、五月は、世間的にもお子さん的にもせっかくのお休みですが、彼氏さんがお仕事なので、勤務後お子さんに会ったのでしょう。

 六月は、お子さんが学校に行っていたとしても、学校が終わって帰宅した夕方にならば、会いに行くことは出来ます。

 四月の夜、彼氏さんからメールが来なかったことがありましたが、そこに無理矢理理屈を付けるならば、四月二十九日は金曜日で、翌日の土曜日は学校がお休みですから、その日だけは遅い時間まで一緒にいられたとか、お泊まりになったとか、そういうこともあるでしょう。

 そして七月も八月も、夏休みに入っています。平日なので休みを変更し、日中を共に過ごし、麻衣ちゃんとのデートは夕方にすることになった。しかし、お子さんとの別れが名残惜しく、なかなか離れられずにいた為に、二回続けて遅刻することになってしまった。

 いかがでしょうか。これが、わたしが行き着いた、希望的観測です」


 何故だか分からない。分からないけれど、信じたくないワタシがいた。


 いっそ浮気してくれれば、どこかで諦めがつく瞬間があったかもしれないのに。


 そんなワタシは、つい、反論で以て彼女を否定してしまう。


「じゃあ、五月二十九日の昼、あいつがゲームコーナーにいた、っていうメールについては」


「はい。そこがネックだったのです」


 実結は、疑問を残したままワタシに何かを提示するような子ではなかった。


「あの親子です」


 実結は、先程から幸せそうに笑いあう母親と小さな男の子を、聖母のように温かな瞳と、美麗な微笑みで見つめた。


「お子さんにせがまれ、あのお母さんは息子さんにぬいぐるみを買ってあげています。とても小さく、もしかしたらそこまで高価な物ではないかもしれませんが、あの親子から溢れ出て来る愛のオーラは、幸せそのものなのです。そこでわたしは、彼氏さんは、お子さんへのプレゼントを選んでいたのではないだろうかと考えました」


「プレゼント?」


「ええ」


 実結の目線は、母親が椅子の上に置いた袋にあった。その中にはたぶん、ぬいぐるみがある。


「もしもお子さんに会えるのが一日だけだったとしたら、それは何故毎月二十九日なのか、が分からなかったんです。悩んで悩んで、浮かんだ答えが、もしかしたらお子さんの誕生日が、何月かの二十九日で、その日だけは特別に会うことを許されたのかもしれない、でした。

 それを軸にすると、麻衣ちゃんが度々デートを断られるようになって、その理由として挙げられた『買い物』も、月に一度しか会うことが出来ないお子さんに渡すプレゼントを選ぶ為に、何度もお店に足を運んでいたのかも、ですとか、ゲームコーナーにわざわざお昼休みに行っていたのも、お子さんの為にゲームを買おうとしていた、と想像出来ます」


 心音が響く。鼓膜を内側から叩く。


 嫌なんじゃない。訳が分からないだけだ。


 未知がそこにはある。


 誰だって初めては怖い。


 浮気なら、高校生の時、二人目に付き合った男にされた。相手は大学生だった。だから、もし今の彼氏に浮気されていたとしても、初めてではない。だからきっと、情けない思いをしながらも落ち込まずにいられたんだろう。


 でも、さすがに予想の斜め上から降って来る未知は、インパクトがある。


 まだ事実と決まってもいないのに、どうしてこうも脂汗のようなものが全身を襲うのか、経験のないことには判断のしようがない。


「でも、なんで三月からなの? 子供がいるなら、もっと小さなうちから会うでしょ」


 覇気のない声だった。気にしすぎだろ自分! と、己の心をグーで殴る。


「わたしが、子供さんは学生である、と考えたのは、麻衣ちゃんの、『五年前にバツがついた』と『二年持たなかった』の言葉からです。単純に計算すると今から七年前。もし結婚をしてすぐに子宝に恵まれていたとしたら、今頃、お子さんは」


「六歳か七歳。あ……小学校入学か……」


「はい。脳内だけで勝手に展開させていくのは失礼極まりないのですが、彼氏さんは元奥様に、子供が小学生になるまでは会ってはいけないと言われていたのかもしれません。そして、三月二十九日は入学式目前です。そうなると、辻褄は合う……いえ、強引に合わせてみたのですが、納得は出来ませんか」


 返事に困ってしまった。納得とか、そういうことではない。もはやこの胸の中に渦巻く感情がどういうものなのかを言い表すことが出来ない。答えられない。分からない。


「わたしは、ですね」


 実結は静かに口を開いた。


「当事者ではないので、好き勝手に言えてしまう立場を、今は最大限利用して言わせてもらいます。わたしは、もしも今回の件が彼氏さんの浮気であったとしたなら、麻衣ちゃんと彼氏さんはお別れになって、麻衣ちゃんは、また新しい恋に向かって歩き出していたと思うんです。悪いことではありません。前を向き続けるのは素敵なことです。けど、悲しいのです。今ここにある幸せが、裏切りの思い出になってしまうのが悲しいのです」


 自分自身でもよく分からないこのモヤモヤを、実結は見通すかのように。


「しかし、そうでないとしたなら。そうでない可能性が僅かでもあるならば、わたしはそれを信じてもらいたいのです」


 おとなしく、おっとりとしていて、側にいないと心配になっちゃうような、そんな女の子だと、思っていた。


 けれど。


「彼氏さんの話をする麻衣ちゃんは、とても、とても幸せそうでした。笑顔だったんです。素敵な輝きだったんです。それを、守りたいだけなんです」


 彼女のやわらかな口調から奏でられる優しい言葉に、真っ黒な紐で雁字搦めになった迷いとか、そういうものが、少しずつほどけていく気がした。


 彼女は、廃トンネルに光を灯す。


 決して、闇に誘う魔手ではない。


 だから――。


「困惑は当然でしょう。ですが、彼氏さんが、お子さんに愛を注ぐことのできる方だと、わたしは信じます。いいえ。彼氏さんを愛する、麻衣ちゃんの笑顔を、信じます」


 この言葉を、ワタシは信じることにした。



   ○



 八月二十九日。午後十一時。


 今日あったことを、ワタシはベッドの上で思い返す。すぐ隣の、彼の顔を見ながら。


 実結に、去り際、ワタシはこう訊ねた。


『もしそれが本当だったとしたら、どうして彼は、ワタシにそれを黙ってたんだろう。言ってくれた方が、ワタシも疑ったりなんてしなかったのに』


 実結は微笑んだ。


 きらきらな、幼さと力強さを、その小さな顔に携えて。


『それはもちろん――』



「心配させたくなかったんだ。麻衣のことが、大好きだから」

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