第2話 幸福は、いつでも誰かの隣にて。♯2

 なされるがまま、小さな部屋でパイプ椅子に座らされた。目の前には折り畳み式の長机があり、そこに肘を付いてこちらを睨むのが、向かいに座る警備員と店員。


 困惑すると人というのはこんなにも手汗をかくのか、と、私はもはや動転さえしていた。手首から先が氷水にでも付けたように冷たくなり、心臓の搏動は乱れに乱れた。


「あのね。正直に言ってくれるなら、こちらも考えるんだけどね」


 四十代くらいの女性店員、本田(名札曰く下の名前は雅子)は、やさしげな口調で、しかし眼光には悪魔を殺すような鋭さがあった。


 何が何なのか分からない私は、「どういうことですか」とからくり人形のように繰り返すことしか出来ない。声は無意識に震えていて、ヴィンテージのゼンマイ人形がカタカタと震える様子は、きっとこういう感じなのだろう。


「あなたが、うちの雑誌を持って出るところ、この目で見たって証言をもらったの。ね。心当たりあるでしょ。あるから付いてきたんだよね?」

「はあ?」思わず大声を上げてしまった。


 心当たり? そんなものあるはずがない。私はつい今しがたこの書店に人生で初めてやって来たのだ。付いてきたのも、あそこまで強い力で止められて任侠映画のごとく凄まれれば、ひどく小心者の私は文句の一つだって言えないだろう。従う他にない状況だったからなのだと理解出来ないのだろうか。


 ここで強く反論出来ればいいのだけど、怒声を上げるだけの強剛な心臓を持ち合わせてはいない私は、「し、知りません」と答えて精一杯。我ながら犯人っぽい反応だな、と後悔した。


 私の頭は、痴漢冤罪の話で一杯になった。すなわち、恐怖で心が埋め尽くされた。認めれば有罪。逃げるが勝ち。そんな考えが浮かんではそれを否定する余裕もない乱れる脳内。


 ――その時。


 がちゃ、と音がした。

 ドアノブが捻られたのだ。


 私は異常なまでにびくついた。警察でも呼ばれたのかと思ったのだ。冤罪で捕まるなんて考えるだけでおぞましい。


 その姿を恐る恐る見る。


 瞬間、躰が硬直したのを自覚した。


 開かれた扉。そこにいたのは、緑色のエプロンをした、書店員だった。


 怯えも何も、一切合財が消え去った。全てがときめきに変わったのだ。思わず、喉が詰まった。


 小柄な女の子だった。東雲のような眩しさだった。


「あの、ちょっとよろしいですか」女性は小さく、可憐な声で言った。


 鼓膜を撫でるように響いた声は、花弁の舞う風のようで、とても心地よく、やさしさに溢れたオカリナの音色のようでもあった。


 とても可愛い人だ。美しくもあるが、とても可愛かった。小さく丸まった幼い肩と、凛とした姿勢。小さな顔には和の美が映え、何より目を引く艶やかな髪は後ろで束ねられて尚美しく、化粧の一つも感じさせないような素朴な白さがまた麗しい。


 とにかく、本当に可愛らしい女性だった。女性と言うより、少女、だろうか。中学生ということはないが、そうにしか見えない。


 この感覚を知っている。そうだ、一目惚れだ。久しぶりにした気がする。経験したことがないくらいの強風だ。恋風と言うには、ちょっと強過ぎるくらい。


 不意に訪れた不幸な状況などもはや二の次。この邂逅に胸を射抜かれ、すっかり目が離せないでいる。


「ああ実結みゆいちゃん。お疲れ様。今日はもう上がり?」目の前の女性店員が言った。

「いえ、ちょっとお口を挟もうかと」

「口を挟む?」

「ええ。その方は万引きなどしていませんよ。絶対に」


 少女の一言に、女性店員の本田は怪訝な声色で返した。


「何、どうしてそんなことが言えるの?」

「見てましたから。入店から、今の今まで」

「まさかぁ」

「本当ですよ。お仕事が疎かになるくらいには見ていました」

「疎かになっちゃうのはちょっと困るけれど……ああ、そうなの。でも残念だけどね、実結ちゃんがそう言っても、証拠がない以上はなんともねえ」


 証拠もないのに捕まえておいてよくもまあそんなことを言えたものだと、内心思う。


「防犯カメラを見るというのは?」


 実結ちゃん、と呼ばれた少女の提案に、男性警備員は首を振った。


「ちゃっちゃと見れんからなあ。面倒や」


 面倒なだけならいち早く確認して欲しいものだが、警備員曰く、ここはショッピングモールの中に店舗を構える書店。防犯カメラを確認しようにも、書店だけの判断だけでは見られないようになっているらしい。なんて前時代的縦割り行政のような体制だ。都合も悪かろうに。


「店長は休み。責任者は休憩に出かけていて、そんな状況だから、防犯カメラを見ようにも時間が掛かるのよね」

「どれくらい掛かりますか」

「一時間くらい?」女性店員が言った。


 だったら早くそうして欲しい。一時間で全てが片付くならむしろありがたい。面倒だろうがなんだろうが、やってもらわなければ困る。


「一時間……それでは……駄目ですね」そう言ったのは、何を隠そう少女だった。「一時間も掛かるくらいなら結構です」


「そんな」と私は声に出してしまった。


 少女の神々しさから、勝手に味方だと判断した私が間違いだったのだろうか。


 どんなに可愛らしくとも、その声が天使のそれであっても、どうにも出来ないことはある。


 ため息が吐かれた。が、私のものじゃない。少女の、それはそれは可愛らしいため息だった。


「一時間は少々掛かり過ぎです。本田さん。この方が犯人でないと証明出来れば問題はないんですよね」

「え……ええ」

「でしたら、わたしが、真犯人を言い当てましょう。真犯人が真犯人足る理由を並べれば、一応の解決は見える筈。でしたら、それが一番手っ取り早いです」


 少女は柔和な表情のまま、にっこり微笑んで、私を見つめた。少しドキッとしてしまった。


「ご安心を。大切な時間は、わたしがお守りします。だから、そんな不安そうな顔をなさらないでください」


 それはもう、天使どころか女神さまで。神々しさを遥かに凌駕する微笑みについ拝みそうになる。


 魅力的な仕草や、容姿はもちろん、声音も、髪も、微かな香りも、纏うエプロンにまで、すっかり魅了されていた。


 不安そうな表情なんて、たぶん今の自分にはないんじゃないだろうか。


 あるとしたら、盲目に可憐な少女を見つめ、中学生のような恋心に現をぬかす阿呆の腑抜けた表情だけだろう。


 所詮は、子供のような恋。


 好きな女の子のたて笛に想いを馳せるような、幼稚な恋。

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