第13話 なぜわたしだけがこんな目に?

 さて、殺害現場の路肩に車を停める。


 ヘッドライトを消せば、辺りは容赦のない闇だ。

 今夜は月も出ていないので、ポケットから煙草を抜き出して火を点けるのにも苦労するくらいの真っ暗闇だった。もう少しで唇を焼くところだった。

 窓を開 けると、どっと虫の声が流れ込んでくる。涼しい夜だ。

 一本ずつじっくりと時間をかけて……三本ほど無言で煙草を吸う。

 そして車の窓を閉め、静かに目を閉じた。


 普通の人間は、気を抜くと泣けるらしい。


 しかしあのやる気のない女優の卵……ハルナに聞いた秘訣によると、わたしや彼女のような……もともと感情が薄く、心がカラッポな人間は、意識的に感情を 高ぶらせて泣くしかない。

 簡単に、どうでもいいことで涙を流すことができる人間がうらやましい。

 わたしも、物心がついていなかった頃……赤ん坊だった頃、 泣くことでしか自分の意思を他人に伝えることができなかった頃は、自由に泣けたはずだ。

 泣いて、わめいて、鼻水を垂らして……父や母に意思を伝えようと したはずだ。


 いつからそれができなくなったんだろう?


 最後に泣いたときのことを思い出そうとしても、まったく記憶がない。

 自分がいま身を浸している暗闇と同じで、記憶は、ただ空白でしかない。

 それは底なしの漆黒でし かない。

 触れようと思っても、形がない。

 泳ぎ着こうと思っても、泳ぎ着く岸がない。戻る岸もない。

 溺れるわけにはいかないので、ただ浮いているしかない。

  海の中ならまだ海水の冷たさや波を感じ取ることもできただろうが……真っ暗な記憶のなかにはどんな感覚もない。


 わたしは悲しみと関わり合いにならず生きてきたのだ。


 無駄なことを考えるのはよせ、とわたしは自分自身に呼びかける。

 おまえには、悲しみなど無縁なのだと言い聞かせる。

 なぜ、こうなってしまったのか、とわた しがわたし自身に問い返す。

 知るか、とわたし自身が突き放す。

 お前が選んだ道だろう?

 お前が自ら好んで、こんな涯まで泳いできたんだろう?……と、あ ざ笑う。

 その結果、わたしはどうなってる?

 他人なら簡単にできること……泣くことにも、こんなに苦労しなければならない。


 わたしは意識を集中した……車のパワーウインドウを上げて、虫の声も追い出し、自分自身に問い続けた……。

 そうすると、真っ暗闇の中に微かな光が見えてきた。

 それは怒り。

 なんとかその方向を目指して闇の中を掻く。

 そして泳ぐように『怒り』の光に近づいていく。

 かなりの集中力が必要だった。

 わたしにしてみれば、目の前にある握りこぶし大の石を宙に浮かせるくらいの集中力を要した。もちろん、 わたしは超能力者ではない。


 ここまでなんだかんだと書けば、わたしが『泣く』ことに関していかに苦労したかわかってもらえるだろう。


 この方法で、わたしはこれまでに二回涙を流した。

 そして、わたしの周りにいる怨霊を二匹、退けることに成功した。

 今回の相手は……自分でもわかっているが、手強い相手だ。

 ひたすら集中する。

 自分の中にある、もっと根源的で純粋な怒りを呼び覚ますために……。


 カチカチカチカチ……。


 車の窓を締め切って虫たちの声を遮断した。

 というのに、わたしの耳が奇妙な音を捉える。


 カチカカチカチ……カチカチカチ……カチカチカチ……カチカチカチカチ……。


 わたしは目を閉じたままにした。


 カチカチカチカチ……カチカチカチカチ……カチカチカチカチ……カチカチカチカチ……カチカチカチカチ……カチカチカチカチ……カチカチカチカチ……カ チカチカチカチ……。


 音はさらに高まっていく。

 どうやらその音は、車の窓のすぐ外から聞こえてくるようだった。


 あいつがやってきたのだ。


 あいつは頭がよく、狡猾だ。

 わたしの思惑も恐らく、あいつにはお見通しなのだろう。

 つまり、あいつはわたしの集中を妨害しにやってきたのだ。


 カチカチカチカチ……カチカチカチカチ……カチカチカチカチ……カチカチカチカチ……カチカチカチカチ……カチカチカチカチ……カチカチカチカチ……カ チカチカチカチ…… カチカチカチカチ……カチカチカチカチ……カチカチカチカチ……カチカチカチカチ……カチカチカチカチ……カチカチカチカチ……カチ カチカチカチ……カチカチカチカチ……。


 目を開かずとも、車外にどんな光景が広がっているかはわかっていた。

 わたしは目を閉じ、耳を塞いで、涙を呼び出すための集中を続ける。

 ガツッ、ガツッ、ガツッ……。

 

 カチカチ言う音に、何かが車の窓ガラスに激しくぶつかる音が加わる。


 フロントガラスにも、ドアガラスにも、リアドアガラスにも。

 ガツッ、ガツッ、ガツッ……そいつは音でわたしを脅そうとするだけならまだしも、この車の窓を 破ろうとしている。

 窓だけではない。

 車のボディにも、おびただしい数の『それ』がぶつかっている。 

 ときにそれは、ギイィ……という耳障りな音をともな い、金属の表面を擦った。


 やがて、車が揺れ始めた。

 

 さすがのわたしも目を開けた……想像通りの風景がわたしを取り囲んでいた。

 

 窓の外は、『歯』だらけだった。


 カチカチと噛み合わされる、顔のない歯、歯、歯。

 真っ暗闇の中に、剥き出された無数の白い歯だけが浮かび上がり、カスタネットのようにカチカチと開閉を繰り返している。

 歯の白さに加えて、あの熟しすぎたトマトのような赤い歯茎も。 


 そのうちのいくつかは、窓に ぶつかり、ガラスを噛み破ろうとしていた。

 いくら目をこらしても、歯の持ち主の顔は見えない。

 噛み合わせ続けられる歯と赤い歯茎以外は、すべて暗黒だった。


「あはは」わたしは笑った。「……これでいいのかよ?」

 わたしは歯たちに言った。

「その気になれば、車に入って来れるだろう?……なんで、入ってこない?」


 しかし歯たちは答えもせず、カチカチと音を立て、無意味な体当たりを続け、車のボディを擦って耳障りな音を立てるだけだ。


「それだけ歯があれば……おれをズタズタに噛み殺せるだろ? だったら、なんで今すぐそうしないの?」わたしは歯たちに再び語りかけた。「おれを怖がら せようとしてるのか? おれを震え上がらせようとしているのか? おれに悔いてほしいのか? おれに、許しを請うてほしいのか? おれに、命乞い してほしいのか?……おい、いい加減にしろよ。カチカチ言ってないで、ちゃんと言えよ」


 わたしの心に苛立ちが募っていった。

 なぜ、こんなに苛立たせられなければならない?

 この世には腐るほど人殺しがいる……直接的に人を殺す人間もいれば、人間から仕事や財産や、希望そのものを奪って死に追い込んでいる人間など、それこそ 履いて捨てるほどいる。


 わたしだけが、特に悪質だというのか?

 なぜ、人殺しをしているからって、ここまでイラつかせられなきゃならない?


 なぜ? なぜ? なぜわたしだけがこんな目に……?


 苛立ちのせいで、予想より早く激しい怒りにたどり着くことができた。

 泣くことができない自分自身への苛立ちと、車を取り囲む『歯』たちへの。

 そし て、その歯の持ち主であるあいつ……あの少女の亡霊への苛立ちを、心のなかで混ぜ合わせ、混じりけのない怒りにブレンドしていく。


 わたしの心の中で、大玉の打ち上げ花火のような激しい怒りが炸裂した。

 涙が溢れた。とめどなく。


 わたしはそれをスポイトで吸い取った。

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