最終話 痛ましき別れ

 赤黒い、闇が二人を包んだ。


「あの王を斃す前に……姫の呪いを……魔法を……解くのだ!」


 轟音の中、苦しげな息の声は、しっかりとボリスの耳に届いた。


「……!」


 そして、その身体が淡くぼんやりと光ったかと思うと、次の瞬間、粒子の細かい光と弾けて霧散した。


「ちちうえ……っ!!」


「……!」


 愕然とした。


 これほど呆気なく、一方的に、父イワンが敗れるなどと……。


 飛び散った光の粒に、白い花びらが混じる。


(陛下……!)


 絶望的な悲しみに打ちのめされた、エヴァリードの心の声。


 それを聞いて、はじめてボリスは実感した。


 父を喪った。


「ああああああ!!」


 絶叫が全身を貫く。


 憎悪という縄が彼の全身を捕らえた。


 自分のものか、それとも邪王のものか、それすらも解らない、憎悪。それは濃く、強く、彼を縛り上げ、自由を奪う。エヴァロンは、その端をつまみあげるだけでよかった。


「美しい。素晴らしい怒りと憎悪だ。絶望の縦糸に、憎しみと悲しみの横糸。おまえ自身を縛る怒りの網。

 わかるかな、天空の王子。

 身動きできぬのは私の力ではない。おまえの心が、おまえ自身を封じておるのだ。

 その苦しみから解放してやろう」


「……エヴァロン!!」


 『雷光剣』を握りしめ、彼は叫んだ。


「この身に与えられし神人の力にかけて! 父より与えられし法力にかけて、我が城と、我が民と、世界の平和を渡しはしない!」


 ボリスの身体の周囲を、風が巡りはじめる。


「……なるほど。イワン王の神人としての力、法力を継いだか。伝説の力。親が子に、その死によって譲るという、気象を操る力を」


 エヴァリードの頬を、止まらない涙が濡らす。彼女は自分の首を絞めつづける父親の手を振りほどこうとしながら、愛する者の姿を見つめた。彼女は、まだ諦めてはいなかった。諦めたら、彼女は希望のすべてを失ってしまうのだ。


 苦しみ、悲しみ、恐れを必死に払いのけ、ただ、ボリスを救うことだけを考えた。


 雷雲が彼らの頭上で渦を巻く。


 冷たい、氷をふくんだ風が大きく吹く。


 ボリスの悲愴、激情が、痛ましいほどに吹き荒れている。それを感じたエヴァリードは、彼の心に向かって、心で叫んだ。


(はやまってはだめ!)


 彼女には見えていた。


 ボリスが力を使えば使うほど、エヴァロンはそれを利用して、反撃する。イワン王に、そうしたように。


「その感情は、つらいだろう。苦しいだろう。解放してやるぞ、王子よ」


 嬉しげな、父の声。


 エヴァリードは戦慄した。


 黒い稲妻。


 ボリスが吊り下げられた、憎悪の縄を辿って、エヴァロンが放った黒い雷電が彼の身体を焼いた。


 焦げた臭いが広がる。


「……!!」


 勝ち誇る、邪王の哄笑。


「さあ、おまえはすべてを忘れる。我が娘、愛しいエヴァリードのことも、自分が生まれ育った場所のことも。父のことも母のことも。おまえの仲間、臣下、民人。誰一人として、記憶には残らぬ。そう、おまえ自身のこともだ」


 ──なんてことを……!


「おまえの名、おまえを、おまえとする名を封じよう。記憶の鎖を束ねる鍵を」


 ボリスの身体から、黄金色の光の粒があふれ出た。記憶。それらは空中でボリスの名である文字を描き、星座を形づくる星のように光り瞬きながら、やがて、ばらばらと弾けて散らばり、落ちていく。


 そのなかのひとつを、エヴァリードは必死にのばした両手で、どうにか掴んだ。そして、父に見咎められないうちに、宝殿指輪の中に納める。


 勝利を信じきって悦びの中にいるエヴァロンは、彼女の行為にまったく気づかなかった。そして、彼女が念じることにも。


「さて、記憶のない、おまえには統治する力も無かろう。この大地は私に任せ、おまえは地に落ちるがいい!」


「!?」


 喉を絞められ、身体の自由も、歌の魔力も封じられているエヴァリードには為すすべもなかった。しかし、ただひとつ、彼女には、自由になる我が身同然のものがある。一心に、彼女は念じた。そのものが、そっと静かに、彼女の大切なものに寄り添うようにと。


 ボリスの記憶の星が散らばり、床に落ちる前につぎつぎと弾けて消える。その光景を、彼女は絶望的な気持ちで見守るしかなかった。


 エヴァロンは右手を振り上げ、勢いをつけて振り下ろす。その動きに引きずられ、ボリスの身体が操り人形のように跳ね上がった。


 エヴァロンの背から、黒く尖った翼が生える。エヴァリードは瞠目した。このような異形に姿を変えるなど、彼女が地上にいた頃にはなかった。


 彼は茫然自失する娘を腕に抱き、醜い翼をつかって舞い上がった。ボリスを吊り下げたまま。


 割れた天窓から外に出て、城の尖塔へと移動する。


 真っ黒な雲が、空一面に広がっていた。


 痛いほどに冷たい風が頬をたたく。


「雷鳴よ、旅立つ若者に祝福を!」


 見開かれたエヴァリードの瞳が映す、黒い空を、切り裂くようにボリスは落ちていった。


 心の悲鳴が、魂をつんざく。


 彼女は愛する者たちが地上へ墜落していくのを見て、それから緩やかに気を失った。





呪われし声の姫 † Fine †

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る