第37話 死闘

 哄笑が轟いた。


 あっと思う間もなく、ボリスは弾きとばされ、聖堂の壁に打ちつけられた。背中を強打し、一瞬、息が止まる。両眼から、身体の熱がすべて放出されたかのような感覚。


 混乱に精神が耐えきれなくなった、エヴァリードの悲鳴。


「やめて! お願いです、お父さま!! もう、やめて!」


 彼女が叫ぶごとに、聖堂からは光が失われ、影があたりを覆っていった。


 倒れこんだボリスの頬を、さきほど砕けて床に散らばった、ステンドグラスの細かな破片が強く撫でる。その痛みに、彼は失神を免れた。


「お願い!!」


 冷ややかな父親の眼を、涙にまみれた娘の眼が注視する。


「お父さま……!」


 燭台が弾けた。

 蝋燭が、まるで爆発するように熱く細かく飛び散り、その台がひしゃげ、壁に刺さる。


 窓という窓が砕け散り、扉は吹き飛んだ。そして天井にも亀裂が走り、細かい石や埃が降りだす。


「エヴァ……リード……」


 ボリスの喉からは、かすれ声しかでない。


 邪王は指をエヴァリードの喉にあて、小さく舌打ちをした。


「あまり呪いを発動させるでない。この大陸そのものが滅んでは、意味がないではないか」


 絶望の瞳。


 エヴァリードの心を、致命的な打撃が襲った。


 すべての抵抗を放棄したかのように、力を失ったエヴァリードを、その父は抱き上げる。


「そうだ。おまえの力が満ちている。エヴァリード。さあ、案内するのだ、天空の至宝のもとに。それを御すれば世界が手に入る」


「エヴァリード……!」


 全身の力を振りしぼってボリスは立ち上がる。


「ふふふ……そうか。そこの神人の始末をしておいたほうが良いだろうな」


「……!」


 エヴァリードの手が父親の腕をつかむ。


「これで終わりだ」


 邪王の右手が挙がり、掌上に、あの赤黒い光が生まれる。渦を巻きながら膨らみ、エネルギーの粒が弾けて音を立てた。巨大な光。闇に小さな光を放りこんで練りあげたかのような。


 すさまじい破壊を予感させる光の球。


 空気が軋み、屋根の支柱や壁が揺れる。


 ボリスは『雷光剣』を構え、まっすぐに、エヴァロンを見すえた。


 ──死ぬかもしれない。


 しかし、彼は怯んではいなかった。


 父イワンが、何故、エヴァロンを斃すのを阻んだのかは解らない。だが、たとえこの先、何が起ころうとも、彼は生きてエヴァリードを護ると決めたのだ。そのために必要だと、彼自身が判断したことから逃げるなど絶対にできない。


 その心に共鳴して、『雷光剣』が光り輝いた。清廉で純粋な、白い光。それは闇を切り裂く。だが、圧倒的な魔力の前に、細く弱く見えた。エヴァロンの魔力には、既に数えきれないほどの死と憎悪が加わっているのだ。だからこそ、神はボリスとエヴァリードに性急な戦いを避けるよう、まずは枷となっている呪いを解くことだと告げた。


 それに反することになってしまった。


 すべて、ボリスの失策である。


 しかしエヴァリードは、彼を責めない。


 いまも絶望の底から、それでも彼を信じ、ただひたすらに無事を願っている。


 エヴァリードの心を、彼は聞いた。


『どうか、逃げて。

 生きて。

 生きのびて、いつか逢えるように。

 私を愛してくださるなら、どうか、いまは逃げてください』


 そうすべきかもしれない。


 だが、それは難しかった。


 瀕死の父王イワンに加え、意識のない将軍と、警備隊隊長。そして、マーロウとエヴァリード。


 誰一人、失いたくはない。


 しかしエヴァリードは、ボリスが彼女自身を救おうとすることを望まなかった。


『どうか、あなたがただけでも逃げてください』


 満ちていく邪悪な力。


 否応なく、その力の一部にとりこまれてしまう、エヴァリードの心身。


 エヴァロンの掌上で、魔力が飽和した。


「さらばだ、愚かで美しい王子よ」


 エヴァリードの心の悲鳴。


 ボリスは落ちついて、闇の到達を待った。それを切り裂き、浄化するつもりで。


 赤黒い光が目前に迫り、ボリスが『雷光剣』に力をこめた、そのとき。


 ゆるやかな青いローブ。

 小さな手で、その背中を握りしめた、春の日。

 やさしい陽射し。

 花の香りに満たされた庭園。

 輝く噴水の、飛び散る水滴。

 やわらかな風。


 優しさと厳しさ。すべてにおいて、完全無欠に思えた、ただ一人の──。


「──父上!!」


 背中に突き立つ斧をものともせず、彼は、すべての気象を創り、操って魔力を分散させていた。雲、風、雷雨。魔力の一部は凍り、一部は吹き飛び、一部は雷に痺れた。


 イワンの持つ神人としての力、すべてが、魔力の球に対抗している。


 しかし、その背から、血が迸った。


「……!」


「父上っ!!」


「しぶとい王だ」


 エヴァロンの右手に新たな闇の球が生まれる。それを成長させるのももどかしく、彼は次々と、イワンの眼前へ放った。


 最初の巨大な赤黒い光の球をも、まだ浄化しきっていないのだ。追加される魔力は、イワンの力だけでは散らせない。


 ボリスは『雷光剣』を振りかぶり、イワンの頭上、はるか上の魔力に向けて雷電を放った。


「……小賢しい!」


 闇の球体を半分ほど吹き飛ばしたボリスの力に、エヴァロンは舌打ちをした。渾身の力で抗い、身をよじるエヴァリードの首を左手で絞めあげ、それを封じながら、右手に再び赤黒い光を宿す。掌上で大きく渦を巻くと、ボリスめがけて飛ばした。


 最初の巨大な闇よりも、さらに深い。


「ボリス!」


 イワンが跳躍した。息子の身体を庇って、無防備な背をさらし──。

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