第34話 襲いくる危機
邪王の瞳に、小さな風が吹いた。
「なにを言う?」
そして、エヴァリードが目を開き、大きく息を吸って歌いだそうとした、その瞬間。
空気を切り裂き、黒い被毛を銀の刃が打った。
「な……っ」
「滅びなさい! 邪悪な姫!」
ボリスの腕の中でエヴァリードがのけぞる。細い背から血しぶきが上がり、驚愕に瞠目した彼女の身体から、力が一気に抜けた。
凛とした、怒りに燃える声は──
「ソーニャ!」
その手には円盤形の刃がある。彼女の武器、月輪舞だ。それが、マーロウの背を裂いたのだった。
「エヴァリード! マーロウ!」
「殿下、目をおさましください! その姫は邪王を連れてきたのでしょう!!」
「ちがう!」
氷と炎の入り混じった空気に、総毛立つような禍々しさがたちこめる。
地の底を裂き、のぼってくるような笑い声。
空人たちは、息をのんだ。
邪王は小さく右手の指を振り、赤黒い光の玉を飛ばして黒猫の背に開いた傷口を塞いだ。その無造作な身振りが、瀕死の傷を治すことなど、いかにも容易いことであると物語っていて、イワンは戦慄を禁じえなかった。彼の息子、ボリスの聖なる力、“光と闇のし”が、まるで非力に思えるほどの。
「なんとも勇ましい。空の娘は腕が立つ。そのうえ美しい。エヴァリード。おまえもこのようにならなくてはな」
愉悦のにじんだ笑みと、それに隠した激昂。
「だが、エヴァリードは死なないのだ、戦姫。私が生きているかぎり」
「避けろ、ソーニャ!」
察知したのは、ボリスだけだった。
黒い光。
それがソーニャの身体をつつみ、はじける。
悲鳴が迸った。
「ソーニャ……!」
「おのれ!」
煙に包まれたソーニャが倒れる。父親であるペトロフ将軍が駆け寄って、その身を抱き起こした。ぐったりとした娘の身体は煮えるように熱い。
ボリスの腕が、『雷光剣』を振るった。細い雷電が網目をつくり、邪王と彼らとを隔てる。邪王の瞳に歓びが光った。
「なんと……素晴らしい」
弱々しいながらも安定した呼吸をしているエヴァリードに意識があることを確認して、ボリスは彼女を腕から離した。しかし、その手は離さない。そのままペトロフとソーニャのもとに歩み寄る。
「殿下……」
百戦錬磨の将軍の顔に、混乱と恐慌があらわれるのを、ボリスは生まれてはじめて見た。無理もない。これほどまでに圧倒的な敗北感は、彼も感じたことがなかった。
娘の息が絶え絶えであるのに、ペトロフは戦意を削がれ、ただ、彼女の命を案じている。
イワン王が近づいてきて、その肩に手を置いた。
ボリスはエヴァリードの手をとったまま、跪く。
「エヴァリード」
彼女は呼ばれると、頷いた。マーロウが、彼らに背を向け、邪王を見張るようにしている。
邪王はボリスの創った雷電の結界を愉しげに観察し、それから歌うように言った。
「どうするかな、天空の王子? エヴァリードの魔力は、その戦姫を生かすことも死なすこともできるぞ。それとも、神人の力でも、見せてくれるのかな?」
はじめて、ボリスは眼光に憎悪をこめて、邪王を見やった。
焼けつくような視線だったが、彼は身じろぎもしない。まっすぐに、そのまなざしを受け止めている。
「ボリス。ソーニャを」
イワン王が、憂いに満ちた声を放ったが、ボリスの心は揺るがなかった。彼は冷静に、ソーニャの受けた傷と己の力を測り、静かな口調で告げた。
「僕だけの力では、おそらく完全に癒しきれません」
「そんな、殿下」
弱々しい声。ペトロフが、そんな声をだすとは。
「わかっている。エヴァリード。力を貸してくれ」
まだ、彼女の呼吸は正常ではない。しかし一刻の猶予もなかった。ソーニャの症状もだが、いつ、邪王が結界を破壊して攻撃を再開してくるか、わからない。
イワン王が四人から離れ、結界の前に立った。
邪王の手に、紅い光につつまれた剣がある。
彼は、その刃先を結界に触れさせ、なにかを確かめているようだった。
「急げ、ボリス」
冷静な、しかし切迫した警告がイワン王の口をついて出た。
「はい。エヴァリード、歌わなくて良い。でも、手を離さないでくれ」
すると、彼女は驚いた顔をした。
ボリスはもう、エヴァリードの魔力を僅かでも高めたくない。これ以上、彼女を呪いに囚われた時間の中に置いておきたくないのだ。呪いさえ解ければ、話すことも笑うことも、歌うことだって自由にできるようになる。なぜ、それに早く気づかなかったのか。それが悔やまれてならない。だが、いまとなっては全力で戦うしかないのだった。
エヴァリードの魔力でではなく、古代からつたわる方法で、ボリスは自分の力を増幅させようとする。
それは、とても古い方法だ。
人は、深い絆を結んだ人と触れあい、心を結ぶことで、奇跡を起こす力をも手にする。
信頼と愛と、強い願いが、奇跡を可能にする。
死に瀕する者を癒すほどの神力を、ボリスはもっていない。それは、最愛のエヴァリードですら、救うのに彼の命をも賭した過去が証明してしまっている。しかし、そのエヴァリードの支えがあるなら。
ボリスは右手をエヴァリードの両手に包まれ、自分の力と彼女の心を信じ、左手をソーニャの額にあてた。
意識を集中させ、手のひらに真珠色の光を宿し、彼はソーニャの生命の輝きを見つけた。それは、たしかに弱っているが、それでも、以前のエヴァリードよりは強く脈動している。彼は自信を持った。
真珠色の光を送りこみつつ、黒く粘った何かが吸いこまれてくるのを感じる。
ボリスは苦痛に顔をゆがめた。
吐き気が胸を焼く。
ソーニャの身体に残るエヴァロンの魔力が、彼の中に入ってくるのだ。
頭頂からの放出に滞りはない。しかし、その速度が、流入してくる負のエネルギー量に見合っていないため、身体にそれが溜まってしまっている。
ボリスの呼吸が乱れた。
思わずソーニャから離れそうになる左手を、やさしい手が覆った。ひんやりとした、やわらかい、エヴァリードの手のひらが、安らぎと自信を与える。
(大丈夫。信じて)
絶対に失えない、彼の唯一の者の声。
ペトロフ将軍の不安げな視線にも、ふたりは怯まなかった。
エヴァリードの手から、心地好い、黄金の光が流れこんでくる。その感覚が、ボリスに無限の力を与えるようだった。
最後の放出。
そう思った瞬間。
激しい魔法の風に、全員がうたれた。
「な……!」
咄嗟に将軍が三人を庇う。その横を、吹き飛ばされたイワン王がかすめた。
「父上!」
手のひらに雷電を宿したまま、イワン王は祭壇に激突した。そこに置かれていた器が粉々に砕け散り、エヴァリードが活けた薔薇が裂け散る。
「父上……!」
「陛下!」
埃が煙のように、あたりにたちこめる。
父親の感情を押し殺して、ペトロフ将軍が立ち上がり、見る影もない祭壇の方へ、まっしぐらに飛んでいった。
「陛下!」
瓦礫の中から助け起こす。
暴風の中で、なんとか放出を終えたボリスが立ち上がろうとし、エヴァリードの異常に気がついた。全身を強ばらせ、肩を抱えて、何かに耐えている。
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