第15話 別離

 ボリスは、無力感と絶望で混乱しきっていた。エルダは、これほど頼りない男には命を任せられないのだろうか。


 彼は若い心が暴走するまま、城内を駆けた。エリンが憂いてイワンに相談したのも頷ける、と、彼は皮肉まじりに考えた。


 エルダを失う。それも永遠に。そして、それを止めることさえ、彼女は望まない。


 ──彼女は永遠の死を望んでいる。それも、輪廻すらない、死を。それを望まなければ立ち行かぬのだ。たとえ心から欲していないとしても。


 夢の中でオムネルトンが言った言葉が甦る。あの部分だけは、夢ではなかったのだろうか。


 ──その娘を無理に生かすことは、生死の理を乱すだけでなく、破壊しかねない。


 しかし、彼女を失うことは、耐えられない。


 ──念を押しておこう。おまえの願いは、生死の理に背くこと。


 エルダには、自分の命と引き換えでなければ、邪王を滅ぼすことができない。そして、それは彼女の決めた、彼女の道。

 ボリスと出会う前から決めていた、たったひとつの道だ。

 はるか昔、父から教えられたことが、記憶の底から浮いてきた。


 ──よいか、ボリス。命を奪うことは、命をつなぐためだけにしか、許されぬ。



 ──── † † † ────



 エルダが旅立つ日は、晴れていた。


 辛い告白から四日。彼女は一度もボリスの姿を見ることはなかった。

 イワンとペトロフが書いた筋書は、すべて真実ではなかったが、そのおかげか、国民の大多数がエルダに好意的で、同情的だった。一部の国民には敵視されていたが、やはり国王の呪いを解いて悪夢から救ったという公式発表が効いているのだろう。見送りには、大勢の人々が押し寄せていた。


 まだ年若く、美しい姫が死出の旅に出るというのは、やはり多くの人の涙を誘うらしく、目を潤ませて見守る者が殆どだった。

 そんな中、サーシャはエルダにしがみついて離れなかった。


「おねがい、エルダさま。行っちゃ嫌だ。そんなの、間違ってる。みんなのためにエルダさまが死ななきゃいけないなんて、おかしいもん。ぼくをおいていかないで」


 彼は、ナボコフ大臣がエルダの決断を発表した次の瞬間から、彼女に同じ懇願をつづけていた。

 彼にとって、母親に近い愛情を感じていたエルダが生贄のように死ぬなど、あってはならないことだった。すぐさまボリスに泣きついたのだったが、彼は絶対に言うべきではない言葉を口にしたのだ。


 エルダは、サーシャが泣きながら頼んでくる間中、彼を抱きしめて慰めていたが、それでも翻意することはなかった。


 寂しげな、しかし優しい微笑みをたたえたまま、彼女は黙ってサーシャの背を宥めるように撫でていた。彼が慄いて眠れないときは、子守歌を歌って寝かしつけた。その、慈愛に満ちていながら少し悲しげな声音を聴いて、エリンも胸を痛めていた。


 彼女はまた、ボリスの様子にも心が痛んだ。初めて心の底から愛した女性を、こんなふうに失うということは、どれほどの傷を負わせるものか。


 彼は、この四日間、日中はいずこかに飛び去ってしまい、夜は城の塔の屋根に寝そべって、かすかに洩れ聴こえてくるエルダの歌声に耳を傾けながら、虚ろな眼で空を見上げていた。そんな行動は、これまでのボリスからは想像したこともなかった。城の誰もがそうだったに違いない。しかも、彼はなによりも好きだった読書をも完全に放棄していた。


 心はもう、悲しみと苦しみしか感じていない。情けなさと悔しさが彼を自己嫌悪のなかに放りこみ、絶望が蓋をして、逃がさなかった。



 イワンが用意させた、虹水晶つきの船は、長旅に備えて天蓋がつけられており、やわらかな織物が敷かれ、いくつもクッションが積んである。エルダが飲食物を口にしないために荷物はほとんどないが、まるで舟遊びでもするかのような風情だった。


 そして、船のそばには大きな隠れ雲がある。それはこの日のために用意されたもので、船をすっぽり覆い隠せるほどの大きさだった。目的地まで決して誰の目にも留まらず、確実にエルダを運ぶことができるように。


 ウルピノンがエルダを原始の大陸まで乗せていくことを拒んだので、彼女を目的地まで運べるのは虹水晶の力だけだ。そして、それはエルダが最後の力で天空城まで飛ばすことになっていた。しかし、彼女の死後は、歌に命じられて飛んでいくことができなくなるかもしれない。そこで、特別に感度のよい虹水晶の船が選ばれた。強い念ならば、ながい時間を作動し続けることのできる、虹水晶だ。エルダの身体が魔物たちの臓腑に溶けても、天空城までは動き続けるだろう。


 ボリスは、尖塔の屋根の上で、様子を見ていた。


 必死にとりすがるサーシャを姉のターニャが引っぱったが、彼はエルダから離れない。それどころか、なおもしっかり、彼女に抱きついた。


 エルダが身をかがめ、腰を落として少年の背に手をまわす。彼女は首をまわしてイワンのほうを見た。イワンが何かを言うと、視線をサーシャに戻す。一瞬ののちに、サーシャはエルダの腕の中で力を失い、そばにいた侍従の手に委ねられた。彼女が歌の魔法で彼を眠らせたようだった。


 ぼんやりと、それを見守っていたボリスは、無意識に唇を噛んでいた。


 ──僕の心を殺せるのは、エルダ、君だけなのだ。


 力があれば、彼女を守り、魔物を倒せる。実際、彼は、そうするつもりだった。しかし、エルダの瞳には、自分以外の存在が父親を斃すことを潔しとしない光があった。


 彼女はボリスに心を開いていたが、そこだけは、譲る気がないようだった。ボリスには聞こえていたのだ。


 すこしでも私を大切に思ってくださるなら、どうか、あなた自身を大切に、好んで危険に身を晒すような真似はなさらないで。

 そして、もしも彼が自分の父親を殺すという危険に飛びこむようなら、自らがボリスの剣に身を躍らせる、と。


「エルダ……!」


 彼女を失った悪夢から目覚めて、目の前で呼吸している彼女を見たとき、わきあがった、あの歓喜。心からの安堵と、幸福感。

 それが、まるで、あの悪夢の中にふたたび投げ入れられたかのようだった。


 エルダが船に乗り、虹水晶に手をあてる。虹色の輝きが船首と船尾で同時にひらめき、船はゆっくりと進みはじめた。やがて、追いつくこともできない速さで飛んでいく。


 ボリスの頬を、熱いものが流れ落ちていった。

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