I
I1 上舞 聡子
けたたましいベルの音に、私は目を覚ました。
慌てて目覚ましを止めようとするが、どこにあるのかわからない。手探りで見つけ出し、やっとの思いで止める。それから、落ち着いて周囲を見回す。
見知らぬ部屋だった。
明るいグレーのチェックのカーテン。黒で統一された家具類。本棚にぎっしり詰まった参考書。どれも、私の物ではない。
(またか)
諦めて、起き上がる。思いのほか背の高い体に、感覚が狂う。
壁にブレザーの制服がかかっていた。ポケットをあさると、生徒手帳らしき物がある。中を見ようと開いて初めて、彼女の視力が低いことに気が付いた。机の上に置いてあった眼鏡をかけて、読み始める。
「聡子ちゃん、起きてるの? 学校遅れるわよ?」
そんな言葉とともに、中年の女性が部屋のドアを開けた。初めて見るその女性に、私は笑って応えた。
「うん。起きてるよ、お母さん」
私の名前は、上舞聡子ではない。
これでは自己紹介にも何にもならないが、他に言いようがないのだから仕方がない。何しろ、自分でもわからないのだから。
いつの頃から、そして何故こうなったのかはわからないのだが、私は他人の身体を借りて生活を送っている。精神だけが、身体から抜けてしまったらしいのだ。私自身の身体は、もうこの世にはないのかも知れないし、抜け殻の状態で眠り続けているのかもしれない。それを確かめる手段はない。自分が誰かわからないのだから。
私にわかるのは、私が上舞聡子ではないこと。この身体が私の物ではないこと。ここが私の部屋ではなくて、あの女性も私の知る人物ではないこと……否定形ばかりだ。
私には、この状態に陥る前の記憶が一切ない。名前も知らないし、どんな生活を送ってきたのかもわからない。どんな制服を着て、どんな学校に通い、どんな友人達と喋って、どんな家に帰ってきて……何も覚えていないのだ。
それでいてどうして、私は「上舞聡子ではない」と言い切れるのだろう。彼女の記憶は、この身体の中に残っている。初めて会ったさっきの女性に「お母さん」と言えたのも、彼女の記憶があったからだ。けれども、そう言おうと判断して、実際にそう言ったのは「私」。彼女ではない。私が、「私」であることを感じられるのは、何かを考えたり思ったりしているときだけなのだ。
けれども、そんな形のないものだけで、自分が自分であると思い続けるのは流石に難しい。だから、私は自分に名前をつけることにした。
アイ。それが、今の私の名前だ。
「
上舞聡子はどうやらかなりの優等生らしい。学校に着くやいなや、大勢のクラスメートが走り寄ってくる。
「上舞さん、今日の数学の問2、解けた?」
「お願い、英作文見せて。当たってるのよぉ」
聡子が前日のうちに全て終わらせておく性格で助かった。けれどももし、明日の朝目覚めても私が聡子の中にいたままだったら、と思うと結構怖い。私が自分で解いたら、こんな問題絶対解けない。
――ひとつ、わかった。「私は、聡子より頭が悪い」ということ。かなりマイナスな自己判断だが、こういう風にしか自分を認識できないのだから仕方がない。
聡子の優秀さは先生達も認めているようで、授業中、他の生徒が答えに詰まると、何人か回した後で最後には「上舞、やってみろ」とくる。自分の実力ではないとはいえ、聡子のノート片手に黒板に答えを書き、先生やクラスメートに称賛されるのは気持ちがいい。全く、頭のいい人間は羨ましい。
それにしても何故、聡子は今朝目覚めなかったのだろう?
その日の3時間目は体育で、テニスだった。誰とでもいいからペアを作るように、という先生の言葉に、周囲を見回す。気づくと、私以外は既にペアができていた。
「あら、上舞さん、また一人なの? じゃあ先生とやりましょ」
また、と言うところを見ると、いつものことのようだ。朝はあんなに聡子の周りに寄ってきたクラスの女子は、今はそ知らぬ顔で自分達のプレイに熱中している。
昼休みも、聡子は一人だった。クラスのあちらこちらで弁当の輪ができているのに、聡子はどこからも誘われない。一人で、母親の持たせてくれた弁当をつついている。お腹は空いているのだが、箸がすすまない。
何故、聡子は今朝目覚めなかったのだろう?
――今は、何となくわかる気がした。
このクラスで必要とされているのは、彼女の成績だけ。彼女ではない。彼女が何を考えようと、何を思おうと、どうでもいいのだ。
だから聡子は考えるのをやめた。思うのをやめた……。
聡子の精神は、今、何をしているのだろう。私は、そんなことを考える。
私が借りているこの身体の奥で、深い眠りについているのだろうか?
それとも、上舞聡子の身体を離れて、どこかをさ迷っているのだろうか。
そして、自分が何者かを探しているのだろうか。丁度、今の「私」みたいに。
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