さいはての島
その島の住人は、彼ひとりだった。
岬の突端に建つ家からは、天気の良い日にははるか水平線まで見晴らすことができたが、周囲に島影はひとつもなかった。
いつものように彼は、家のすぐ脇の三つの白い墓標に花を手向けたあと、浜辺へと降りていった。それらの墓は作られてからすでに相当の年月を経ていたが、墓標は朽ちてくるたびに彼が作り直すので、今も三つの十字架の白い色が鮮やかだった。
日は、そろそろ空の一番高みへと昇ろうとしている。日射しが照り返す白い砂浜で、彼はいつものように、彼の唯一の客の訪れを待った。その客はとても気まぐれで、来るとなると毎日でも来るし、来ないとなるとぱたりと来なくなるのだが、その訪れはいつも決まって真昼だった。
遠い海の向こうから、浜辺に波が打ち寄せては、またすぐにひいていく。わずかの砂と、彼が残した足跡以外、さらっていくものは何ひとつない。その、永遠に繰り返される単調な営みに、特に聞くというでもなく耳を傾けていたとき、はるか上空で、かすかな羽音がしたような気がした。
彼は空を仰ぐ。雲ひとつない、抜けるような青。きらめく陽射し。
天空から、真っ白な翼が舞い降りてくる。長い髪と、ゆったりした服のすそが、宙で綿毛のように踊る。
そして砂の上に降り立つと、彼女はにっこりと微笑んだ。
「ごきげんよう、デューイ」
そこにいるのに重さを感じさせない、ふわりとした感じの笑みだ。
「シシル、今回はずいぶん長く来なかったね」
彼の言葉に、シシルは軽やかな声で言う。
「そうだったかしら?」
「『そうだったかしら』なんてものじゃないよ」
彼は苦笑した。「五年と八か月、プラス三日。なんだったら秒単位で言い直してあげようか」
「天使には、時間の感覚がないのよ」
シシルは鈴を転がすように笑った。透きとおるように白い肌に青い瞳、それこそこの世ならざるように美しいが、そんなときの彼女は驚くほど子供っぽくなる。
「だってそうでしょう? 私は何も変わらないのに、過ぎていく時を数えたって仕方がないもの」
「まあ、そうだろうけどね」
言いたいことはわかるが、デューイはとても彼女のようには笑えない。憂いを含んだ、複雑な笑みを浮かべるだけだ。
「だいたい、あなたが時間に細かすぎるのよ」
そう言ってシシルは彼を指さす。「あなただって、この島でひとりになってから相当経つんでしょう。数える必要もなくなってしまったのではなくて?」
「仕方がないさ。最初から僕は、そういう風に作られているんだから」
両手を広げて、肩をすくめる。まるで人間がするようなしぐさだが、彼がそれをしても全く違和感がなかった。もともと、見分けのつかぬように設計されているのだ。
「いったい、僕が製造されてからどれくらい経っていると思う?」
時間の感覚のない彼女に聞いても答えが返ってくるとは思わなかったが、
「さあ。私とあなたが出会ってからの時間より長いってことは、確かね」
その返事に、思わず彼は笑みをもらした。
「約、三百年。正確には、二百九十三年前の八月十日に工場を出荷されて、予約されていたライム家に行ったんだ。お嬢様が、僕が着く前からデューイって名前を決めて、待ってくださっていたよ」
「シャーロットね」
シシルが思い出したようにうなずく。
「光を集めたような白髪が、とてもきれいだったわ」
「それは、亡くなられた頃の話だよ」
これにはまたデューイが苦笑した。「僕が初めてお会いしたときのお嬢様は、六歳の小さな女の子だったよ」
「人間は、歳をとるものだものね。私がフランクを迎えに来たときは、シャーロットも幼かったのではないかしら。フランクのベッドにすがりついて、泣いていたわ」
「……旦那様が亡くなられたとき、お嬢様はまだ十一歳だったからね」
デューイの顔が、まるで昨日のことのように暗く沈む。だがそれに構わず、シシルは続けた。
「覚えていて? 私とあなたが初めて会ったのは、その時だわ」
「覚えているさ。僕の記憶装置には、〝忘れる〟なんてことはないんだよ」
だからこそ、二百年以上昔の悲しみや苦しみが、たとえそれがプログラム上の感情であっても、痛いほど鮮明によみがえるのだ。
「あれはまだ、一家でこの島に来られて半年も経っていなかった頃だ。やっと安全なところに来たと思ったのに、旦那様がご病気で倒れられた。容態の悪化のあまりの早さに、奥様もお嬢様もどうしていいかわからないみたいに泣いていらしたよ。
――でも、いよいよというとき、旦那様は不思議なくらい穏やかな表情をしていらした。『私にも、とうとうお迎えが来たようだ。だが、こういうお迎えなら、悪くないな』と、僕たちの後ろを見て微笑んでいらしたんだ。それで僕も振り向いてみると……そこに、君が立っていた。でも、お嬢様たちは全く、君の存在に気づいていなかったね」
「ああ、それは当たり前だわ」
シシルは笑って言う。「天使の姿は、普通、生きている人間には見えないのよ。生から遠いところにいる者だけが、見ることができるの。フランクみたいにね」
「僕は、死にかけていたわけではないよ」
「あなたは、最初から生とも死とも遠いところにいるもの」
シシルの表現は直接的ではなかったが、それが何を意味しているのかは、彼にも察しがついた。
(……それは、僕は〝生きていない〟から、ということだろう?)
そう聞き返そうかと思ったが、それを言っても何もならないと思い、やめた。そんなデューイを見ながら、シシルは小首をかしげる。
「不思議なものね。人間はあなたのような、自分たちよりはるかに永続的な存在を、作り出した。なのになぜ、自分たちを永続させることができなかったのかしらね。自らの世界を壊すようなことをしてしまって、そのためにフランクやシャーロットはこの島へ来たんでしょう? あなたを連れて」
「……僕にもわからない」
静かに、デューイは首を横に振った。
「少なくとも、旦那様や奥様、それにお嬢様はすばらしい方々だった。でも世界中の人々がみな、旦那様のような方々ではない、ということなんだろう。僕がライム家に行ったばかりの頃は、あんなに何もかもうまくいっていたように見えたのにね――」
街の中の大きくて立派な家から、かわいらしい服装をした女の子が飛び出してくる。「デューイ、あなたが来るのをずうっと待ってたのよ!」と叫びながら。
「この島にたどり着く前の一年ほどは、本当に大変だったよ。どこもここも本当にひどいものだった。それを覚えていらしたから、奥様が亡くなられたあとも、お嬢様はこの島から出たいとお考えにならなかったんだと思う」
「マリオンも、私が迎えに来たのよ」
「ああ」
デューイはうなずいた。
「お嬢様が十八歳のときだった。それから、六十歳でお亡くなりになるまで、お嬢様はこの島で、たったおひとりで、暮らされたんだ……」
「シャーロットは、幸せだったわ」
その断定的な響きに、デューイははっとシシルを見た。彼女はやさしく微笑んで、まっすぐにデューイを見つめている。
「本当よ。あなたをなぐさめようと思って、言っているんじゃないの。シャーロットは最後まで、本当に幸せだったの。だって私が迎えに来たときの彼女、とてもきれいだったもの。あなたがいたからよ」
「シシル……」
「それに、ひとりと言うならそれはむしろ、あなたのほうだわ。フランクもマリオンもシャーロットも、みんな私が連れて行ってしまって、仕えるべき人間がいなくなってしまったのに、それでもあなたは一分一秒にいたるまで正確に時を数えずにはいられない。眠ることもできず、絶えず〝誰もいない〟という記憶を増やしていきながら、その全てを忘れることなく抱え続けなければならないのでしょう?」
「……でも、君が来てくれるから」
デューイはかげりのある瞳で笑った。「できれば、もう少しひんぱんに来てくれるとうれしいんだけどね」
「……天使にも、しなければならないことがあるのよ」
そう言って、シシルは首を振る。
「しなければならないこと?」
それは、デューイも初めて聞く話だった。
「君はいつも、何をしているんだい?」
「――待って、いるのよ」
「待つって、何を?」
――少しの間のあと、シシルは歌うように語り始めた。
「あるところに、ひとりの天使がいました。
彼は真昼の浜辺で、ある人間の女の子がやってくるのを待っていました。その女の子が来たとき、浜辺の向こう側に連れて行くのが彼の役目でした。彼はずっと、ひとりで、その子が来るのを待っていました。
そしてとうとう、女の子はやってきました。でも彼は、その子を向こう側へは連れて行かずに、もといたところへと帰らせました」
「どうしてだい? だって、それが役目だったんだろう?」
デューイがたずねると、シシルはふふっと笑った。
「……連れて行ってしまったら、もう彼の手の届かない存在になってしまうからよ。その子ではない、別の何かになってしまうからよ。私たちの役目は、浜辺から向こうへ連れて行くだけなの。そこから先は……どうすることもできないのよ。
それくらいなら、連れて行かないほうがいい。たとえその子が彼の存在など知らなくても、ひとりで、真昼の浜辺で待ち続けるとしても。少しでも長くその子を見つめていることができるなら。……きっと、そう思ったんでしょう」
その微笑は、いつものただただ純粋に笑うためだけのような笑顔とは違って、うちに何かを含んでいた。歌うように、シシルは続けた。
「それでも、またしばらくしてその女の子は、浜辺にやってきました。今度はその子も、自分が〝死ぬ〟ということをわかっていました。彼も、助けることができませんでした。
彼はその子を浜辺の向こう側へと連れて行き……それで、おしまいでした。
彼はそのあとも、どこかの浜辺で、また別の誰かが来るのを待っています。ずっと、ひとりで」
デューイは、何も言葉を返すことができなかった。
シシルも、しばらく何も言わなかった。
単調な波の音だけが、ふたりの間を過ぎていく。白い砂浜に立つふたりを、まばゆい日の光が照らしている。くもりのない天を仰いで、ぽつりとシシルがつぶやいた。
「……ここは、いつでも真昼なのね。日が沈まないんだわ」
「この島にだって、夜は来るさ」
デューイが答えると、彼女は複雑な色を揺らした瞳で、彼を見つめた。
「そうではないわ。あなたのことよ。
あなたは永遠に真昼の浜辺に立っていて、向こう側へ行くことも、そこから戻ることもないの。――だからこそ、私はあなたといられるのだけれどね。いつまでも、永遠に」
シシルの、その瞳を受け止めて、それでも静かに彼は首を振った。
「……僕にだって、いつか〝終わり〟は来るさ。永遠ではないよ。百年先か、千年先になるかわからないけど、この身体の機能が止まる日がいつかきっと来る。
もしその日が来たら、君は、僕を連れて行ってくれるのかい?」
そこで初めて、シシルははっきりと悲しそうな表情を浮かべた。
「……それは、きっと、できないわ。あなたは、神様がお創りになったものではないから。あなたの居場所は、この浜辺の向こう側には、ないのよ」
「そうか。じゃあ、僕は消えてしまうんだね」
デューイは自嘲気味に笑った。
「まるで僕なんか初めから、存在しなかったみたいに。僕の記憶も何もかも、無になってしまうんだ」
「無ではないわ!」
シシルが彼の手をとった。
「だって……私がいるもの。あなたが動かなくなって、あなたのその身体が世界から失われるくらい時が経っても、私はずっとあなたを覚えている。
私が覚えている限り、あなたは永遠に消えてしまったりしない。だって私には、〝死〟がないんだもの。あなた以上にね」
デューイは、彼女を見つめ返した。フランク、マリオン、シャーロット……彼女が自分のもとからひとり、またひとりと連れて行くごとに、彼は〝ひとり〟になっていった。けれども彼女は、そうして連れて行くことによって、自らを〝ひとり〟にしていく。
「……君も、永遠に、真昼の浜辺に立っているの?」
「……ええ。そうね」
答えて、やがて彼女は言い直した。
「いいえ。きっと、私のいるところが〝真昼の浜辺〟なのよ。他の場所には、いることができないの」
「――なら、いいさ」
デューイは静かに微笑んだ。
「僕はいつまででも、ここに立っているよ。
僕の〝終わり〟が来るそのときまで、永遠に」
砂浜は、いつまでもどこまでも、まばゆく明るい。
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