左側の窓から、傾きかけた午後の陽射しが教室内を照らしている。教師が、黒板に向かって何か字を書いている。萌は、教室の後ろのほうからぼうっとそれを眺めていた。

 カリカリカリカリカリカリ

 男子も女子も、みな一様に背を丸め、必死に黒板の字をノートに書き写している。

 カリカリカリカリカリカリ

 何十もの、背中の群れ。無言でうごめくそれらを見ていると、まるで、そこにいるのが自分とは違う生き物のように思えてくる。

 ソノトオリダモノ。

 不意にそんな考えが浮かんで、萌はぶんぶんと頭を振った。ヘンなこと考えてないで、あたしもノートとらなきゃ。シャーペンを手に、ふっと窓のほうに目をやる。

 そして、凍りついた。

 窓硝子に映っていたのは、丸まった背の群れの中、一人こちらを見ていたのは――


「――っっ!」


 萌は、飛び起きた。

 はっと、背中に手をやる。大丈夫だ、羽なんか生えてない。鳥になんかなってない。それから、ふう、と安堵の息を洩らす。

 ――ここんとこ、ヘンな夢ばっかだ。

 枕元の目覚まし時計に目をやる。ベルより先に飛び起きる日が続いていたが、今日に至っては一時間近くも早かった。だが、もう一度寝る気にはなれない。起き上がり、自室を出て台所へと歩いていく。

「あれ、ずいぶん早いんだね、萌」

 朝食と、父と萌の弁当の仕度をしていた母親が声をかけてきた。

「何となく、目が覚めちゃって」

 そう言って、冷蔵庫に向かう。麦茶でも牛乳でも、とにかく何か飲みたかった。

「早起きに慣れとくに越したことはないよ。二年生になったら、朝補習があるんだろ」

「……お母さん」

あかねも、最初のうちは寝起きが悪くて、起こして送り出すのにさんざん苦労したからねぇ」

 ほがらかに、母は言う。「あんたは、そんなことのないように頼むよ」

 城東高校の二、三年には、朝のホームルームの前に一時限、朝補習と呼ばれる授業がある。だがそれは、二年進級時に特進クラスに選抜された者だけの話で、全員が受けるわけではない。

 今年三月に卒業して東京の大学に進学した姉の茜は、特進クラスだった。

 だから、妹の萌も特進に入れるものと、母は勝手に決め込んでいる。

 ――あたしは、お姉ちゃんじゃないんだよ。

 そう思ったが、言えなかった。黙ってコップに麦茶を注ぎ、一気に飲み干した。

 母は、明るく鼻歌を歌いながら、冷凍食品の唐揚げチキンを電子レンジに入れていた。


「萌、何か元気なくない?」

「そーでもないけど」

 昼休み、教室で弁当を食べながら咲子が訊いてきた。箸の先で唐揚げをつつきながら、萌はいい加減な返事をする。尚美は、今日は体育委員の仕事で別行動だ。

「萌さん、もしかしてそれ、きらい?」

 向かいの席で、由良ゆらがそう言って微笑む。

 転校生の名前は、いぬい由良、と言った。

 タネが割れてみれば何のことはない。彼女は、自分が翌日からこの高校に通うことになっていたから、たまたま会った同じ年頃の萌に「城東高校?」と尋ねたのだろう。この1‐Dに編入されたのだって、たかだか八分の一の確率だ。

 始業式の朝、由良が教室に現れたときには驚いた萌だったが、今はそう思っていた。

「わたしもね、苦手なの。鶏」

 制服が間に合わなかったとかで、最初の数日は見慣れないセーラー服姿で目立っていた彼女も、今は萌たちと同じブラウスにチェックのスカート。教室にいても何の違和感もなく、隣りの咲子とごく普通に話している。

「へぇ、乾さんチキンダメなんだぁ」

「そうなの。最近、急に食べられなくなっちゃって」

 あたしたちと同じ、ただの女子高生なんだから。

 彼女のあの問いと、変な夢には何の関係もないんだ。そう、萌は思おうとしていた。

「鶏って、不思議な生き物だと思うのよね」

 突然、由良が妙なことを言い出した。

「不思議?」

 咲子の問いかけに、由良は答える。

「だって、飛べないのよ。鳥なのに。背中に羽だってあるのに」

 ――ぞく

 萌の背筋に、悪寒が走った。

「でも、屋根の上くらいまでなら飛べる、って聞いたコトあるけど」

「それって、飛べたうちに入るのかしら? 鶏は、それで満足なのかしら」

 由良は首を傾げる。やけに真剣な眼差しで。長い黒髪が、さらりと揺れる。

「もちろんね、鶏自身がそれでいいって思っているなら、構わないの。翼を持っているからって、みんなが飛びたがっているとは限らないし。

 だから、わたし、訊いてみたいのよね」

「訊くって……鶏に?」

「そう」

 由良は、にっこりと笑った。まるで、今のは全部冗談だったとでも言うように。


「じゃあね、萌さん、咲子さん、尚美さん。また明日」

 放課後。そう言って由良は、予備校に向かう萌たちと別れて帰っていった。三人は、夏期講習から同じ予備校に通っている。

「……考えてみるとさ、頭いいんだよね、彼女」

 バスの中で、思いついたように萌は呟いた。「ウチの高校、入試も大変だったけど、編入試験はもっと大変なハズだもん」

「そうだよねぇ」

 咲子が頷く。「何で、そうまでして移ってきたのかな」

「あの子、前は藤和とうわ女子だったらしいよ」

 尚美の言葉に萌は驚いた。藤和女子といえば、隣県の名の通った進学校だ。そこからわざわざ転校してきたことにも驚いたが、

「何で知ってんの?」

「ほら、何日か違う制服着てたじゃん? アレ藤和女子のだって高崎たかさきさん……あ、1‐Aの体育委員ね、その子が昼休みに言ってて」

 何でも、そのA組女子のいとこが藤和女子に通っているのだという。

「で、いとこに乾さん知ってるかって訊いたんだと。そしたら、向こうじゃ結構ウワサになってるとかで」

「一年の一学期で辞めるって、珍しいもんねぇ」

 咲子が言うと、「違う違う」と尚美は手を振った。

「あの子が元いたクラスで、今、行方不明の子がいるんだって。家出って言われてるらしいけど」

「家出?」

 萌と咲子が揃って訊き返す。

「そ。で、一番仲の良かった乾さんが学校にいろいろ事情を訊かれたんだけど、そのとき妙なコト言ったもんだから、担任が『馬鹿にしてるんですか!』って怒ったとか何とか」

「うわ……そりゃ居づらくもなるよねぇ」

 はぁ、と咲子がため息をつく。その隣りで、萌は尋ねた。

「妙なコトって?」

「いや、この程度でキレるなんて、その担任もバカだと思うんだけど」

 苦笑しながら、尚美が答えた。

「『彼女は、鳥になって飛んでいったんです』。そう、言ったらしいよ」

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