冥界の女王

 ペルセフォネが地上に帰ってくると、世界には春が訪れる。

「あぁ、私の可愛いペルセフォネ。よく帰ってきてくれた」

 幾度目の帰還であっても、母デメテルは涙に顔を歪め、愛しい我が子を抱きしめる。

 デメテルは大地の女神、豊穣の女神。大地に緑を芽吹かせ、豊かな実りをもたらすのが彼女の役目。しかし、ペルセフォネがいない間、彼女はうち沈み、大地は枯れ果てる。毎年、毎年。

「はい、お母様」

 ペルセフォネはにっこりと微笑む。その表情にはあどけなさが残るが、背丈は、今や母と変わらぬほど。

「地下は暗かったろう、寒かったろう。あんなところに四ヶ月も閉じ込められて、可哀想に」

 身体つきも柔らかみを帯び、少女から女へと成長しつつある。だが母にとっては、いつまでも小さなペルセフォネのままだ。

 かつて、幼いペルセフォネは誘拐されたことがある。エンナの野で花摘みをしていたところを、冥界の王ハデスに地下へと連れ去られたのだ。ペルセフォネの父でもある神々の王ゼウスが、ハデスの妻として娘を与えたのだと知ったとき、デメテルは激怒した。そして絶望した。一人で手塩にかけて育てた娘は、彼女の全てだった。

 デメテルは老女の姿に身をやつし、何年も放浪し続けた。その間大地は、種を撒いても芽を出さず、花は咲かず、実も結ばず、さながら死の世界。このままでは世界が滅亡する、と恐れたゼウスはハデスを説得し、ペルセフォネを地上に帰らせた。だが彼女は、帰る直前に四粒の柘榴ざくろを口にしていた。冥界の食べ物を食べた者は、冥界に属する。そのためペルセフォネは、一年のうち四ヶ月を、地下で過ごさなければならなくなったのだ。

「憎いのは、あの狡猾な男よ。柘榴を食べさせたりしなければ、お前はずっと私のもとにいられるのに」

 怨嗟えんさの言葉を連ねるデメテルに、娘は優しく諭すように言う。

「たったの四ヶ月じゃありませんか」

 けれども――と、ペルセフォネは思う。微かな苛立ちを、隠しつつ。

(四ヶ月以上いてはいけないとは、決まっていない)

 母は、忘れている。確かに、最初は力ずくだった。しかし今の彼女はハデスの妻であり、そして、冥界の女王なのだ。ペルセフォネは考える。

(もし私が、もうここへは戻らないと――ずっとあの人のそばで、冥界で暮らすと言ったら、どうなるだろう?)

 母は、泣き叫ぶだろう。絶望するだろう。大地は一切の芽吹きを拒み、花が咲くことも実を結ぶこともなく、永遠の冬に閉ざされるだろう。

 たとえ、神々の王ゼウスが冥界まで下りてきて、足元にひれ伏したとしても。彼女が意を翻さぬ限り、世界が滅亡から逃れる術はない。

(そう――この私の手に、世界の運命が、握られているのだわ)

 それは、何と甘美な想像だろうか?

「今日はお前が帰ってきたのだもの、美味しい料理を作ろう。手伝っておくれ、ペルセフォネ」

「はい、お母様」

 何も気付かぬ母の前で、妖しく微笑む、彼女は冥界の女王。

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