朧月夜
※ 作詞者の死後50年が経過し、著作権保護期間は満了しています。
菜の花
見渡す山の
(『
それは、そんな歌が似合いそうな、ある夕暮れのことでした。
私は、赴任してきたばかりの山の分教場から、下宿させてもらっている
分教場の近くはそうでもないのですが、このあたりは本当に一面の菜の花畑です。茜の陽射しが景色を染めるなか、高さが腰ほどもある花の海を、私はひとり泳いでいました。見えないけれども、近くに川があるらしく、水の流れる音が心地よく私の耳に響いてきます。そのせせらぎにまじって、
ちりん、
という音が聞こえて、私は思わずまわりを見回しました。そんなに遠くではありません。
この花の海の中に、他にも誰かいるのでしょうか? きょろきょろしながら歩いていくと、また、ちりん、という音がしました。今度は、すぐ下から聞こえました。
見ると、数歩ほど先の地面に男の子がひとり、ひざをかかえてうずくまっています。年は、七、八歳くらいでしょうか。
「誰だい?
覚えたばかりの一年生のふたりの名をあげると、男の子は顔をあげました。どちらでもありませんでした。一年生から六年生まであわせても十五人くらいしかいない分教場のこと、だいたい全員の顔と名前は一致していると思ったのですが。
「ええっと……ごめん、先生、君の名前が思い出せないんだ。君は誰かな?」
「……
つぶやくようにその子は答えました。言われてみると、そうかこの子は哲夫くんだ、という気がしてきました。どうして思い出せなかったのでしょう。
「哲夫くんはこんなところで何してるの? 早くおうちに帰らないと、真っ暗になってしまうよ」
そう言うと、哲夫くんはものすごく悲しそうな顔をしました。
「だって……見つからないんだ」
「見つからないって何が?」
「ぼくがオニなんだ。
「そうか、缶蹴りをしてたんだね。でも、もうこんな時間なんだから、みんな家に帰ってしまったんじゃないの」
「でもダメなんだよ。カンを見つけないと、明日、大ちゃんにズルしたっておこられる」
大ちゃんというのは五年生の
「缶を見つければいいんだね? 先生も一緒に探すよ、それでどうかな」
「でも……」
「こんな時間までひとりで外にいるのは危ないよ。大ちゃんに何か言われたら、先生がきちんと説明してあげるから」
そう言うと、哲夫くんはやっと首を縦に振りました。哲夫くんを立ちあがらせると、ふたり手をつないで、菜の花畑を歩いていきます。
「大ちゃんが缶を蹴ったところはどこなの」
「すぐそこ。地面に、カンを立てる印が書いてあるよ」
哲夫くんが指さすほうへ向かって、道から外れて菜の花をかきわけながら進んでいくと、
「――うわっ!」
不意に、足もとが沈みました。
花の海に埋もれて全く見えなかったのですが、突然川があったのです。ひざくらいまで水の中にはまってしまいました。
「気をつけてね、先生。この川、真ん中らへんはけっこう速いよ」
「ああ、びっくりした……哲夫くんたちは、この川渡るときどうしてるの」
「ほら、橋。あそこに」
細い板が、川を横切るように渡してあります。橋というには少々頼りないですが、小学生の男の子たちとしては、そのほうがスリルもあって楽しいのでしょう。
橋を渡った向こうに菜の花のない草地があって、どうやらそこで缶蹴りをしていたらしいのです。そこから思い切り缶を蹴ったとしたら、確かに菜の花畑の中か……。
「川の中かもしれないよ?」
そう言うと、哲夫くんは怯えたような顔をしました。そうかもしれないと思ってはいたようですが、自分では探せなかったのでしょう。それで、菜の花畑の中で途方にくれていたのです。
そろそろ日も完全に沈んで暗くなりかけていましたが、私は覚悟を決めてズボンを両ひざの上までまくりあげ、川へと入りました。さっき誤って落ちたときにも思いましたが、春の川の水はまだまだ冷たいのです。じっと立っていると、身体全体がふるえてきそうです。
「先生、大丈夫?」
哲夫くんが心配そうな声を出します。哲夫くんを家へと送っていくためにも、何としても空き缶を見つけねばなりません。
哲夫くんの言ったとおり、川の真ん中のあたりは周囲より流れが速くなっています。流されてしまってなければいいがと思いながら、水の中に目をこらしていたところ――
「あった!」
少し下流の岩の陰に、鈍く光るものが見えました。近づいてみると、それは確かに空き缶です。そうとう古びた缶だったようで、拾い上げてみると錆だらけでした。
「これでいいんだよね、哲夫くん?」
「うん! 先生ありがとう!」
初めて、哲夫くんの顔に明るい笑みが浮かびました。
「さあ、今度は哲夫くんを家まで送っていかなくちゃね」
「いいよ。ぼく、ひとりで帰れるから」
哲夫くんは笑って首を振りました。
「そうだ、先生。お礼にこれあげる」
そう言って、哲夫くんはポケットから何かを取り出しました。差し出した手のひらには、黒い
「へえ、これもしかして
どこかのお土産物屋さんで売っている
「コクヨウセキって何?」
哲夫くんは不思議そうに聞き返します。
「石の名前だよ。こんな風に、硝子みたいにつるつるしてて綺麗な石を、黒曜石って言うんだ。昔の人たちはね、この石を叩いて割って、ナイフ代わりに使っていたんだよ。そう言えば、このあたりは黒曜石の産地なんだねえ」
七、八歳の子に石器の話をするのに無理があったのかもしれません、哲夫くんはわかったようなわからないような顔をしていましたが、
「先生って、物知りなんだねえ」
と言ったのには、思わず苦笑しました。
「そりゃあまあ、一応先生だからね」
「とにかく、これ先生にあげるよ。それじゃね、先生。さようなら」
「ああ、さようなら。また明日ね」
すっかり暗くなった菜の花畑の中を、哲夫くんは私に手を振りながら、走って帰っていきました。
姿が見えなくなるまで見送ったあと、私はまた下宿先へと歩き出しました。私の手の中で、哲夫くんにもらった根付の鈴が一歩ごとに、ちりん、と鳴ります。神谷さんの家に着いた頃には、大きな満月が空に昇っていて、もやでもかかったようにぼんやりと霞んでいました。
「おや、先生。どうしたんですか、そんなに濡れて」
私の格好を見て、私の父親くらいの年の神谷さんは、驚いたように言いました。
「いえ、ちょっとそこでね、空き缶探しにつきあってたんですよ」
「空き缶?」
「ほら、菜の花畑の中に、川があるでしょう。あそこでね、哲夫くんが缶を探していたんです。缶が川の中に落ちていてね、拾ってあげたら……神谷さん? どうしたんです?」
見ると、神谷さんの顔は真っ青になっていました。
「……冗談でしょう、先生?」
かすれる声で聞き返します。
「別に、冗談とかではないですよ? 哲夫くん、大ちゃんに怒られるから缶を見つけるまで家に帰れないってひどく困っていましたし……」
神谷さんが息を呑むのが聞こえました。あとずさった拍子に戸にぶつかり、がたっという音を立てました。
「……哲坊の奴、まだ探してたのか? そんな……」
「神谷さん?」
神谷さんの目線は、宙を泳いでいました。うわごとのように、神谷さんはつぶやきました。
「大ちゃんってのはわしです。わしの名は
ちりん、と、私の手の中で、鈴が鳴りました。
「……そうだ、あの夜もこんな、朧月夜だった」
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