たより(一)

 雪はぴたりと降らなくなった。

 まだ冬はつづくが、例年通りの乾いた冬に変わった。

 藤世は羊毛の衣服にヤク毛の外套を巻き付け、神殿の門前町に飛び出した。途端、街路の石畳に張った氷で滑り、膝と肘を強打して泣きそうになる。

 藤世さま、と呼びかけられ、三叉が付けた侍女たちに抱き起こしてもらう。

「靴を地面からあまり離さぬようにして、水平に進むのです」

 じわじわと伝わる痛みに、藤世はぽろぽろと涙をこぼした。やわらかな手巾で顔を拭いてもらいながら、だんだん情けなくなってくる。

「さあ、参りましょう。どちらへおいでになりたいのです?」

 ふたりがかりで両脇をしっかり支えられ、藤世は歩き始めた。

 澄み切った青空の下、露店が品物を出し始めている。

 市場が見たい、と言った藤世を、侍女たちは街の広場へ連れて行った。

 湯気の立つスープの店で三杯求め、自分と彼女たちで腹を温めたのち、種類は乏しいながらも威勢のよい掛け声を上げる肉や漬け物の店を覗く。嶺の民は雪嵐にも柔軟に対応したようで、遠くの地から運ばれたであろう、干し山羊肉や、色鮮やかな羽根が付いたままの南方の鳥の肉もある。

 すこし安堵しながら、衣料品や寝具の店を見て回る。

 朧から聞いていたし、神殿の機織り部屋を見て、予想はしていたが、やはり驚くばかりのうつくしさだった。刺繍のように見えるが、織りの技術だという、細かな紋様の布団の上掛け、壁掛け、外套。色とりどりの宝石を敷き詰めたような、きらめく絹や羊毛の布。それらが、痛みを感じるほどの強烈な陽光に照らされて輝いている。

 売り物ばかりでなく、周囲の民家も、窓辺に布を干していた。

 久しぶりの晴天なのだ。雪のなか旅していたときよりも、みなの顔が明るい。雪獅子が代替わりし、雪嵐を払ったことは、巫祝たちの通達で、街のひとびとに知らされている。四百年つづいた清の世が終わったことに、不安を感じる者もいるが、それよりも天候の好転がひとびとにつよい影響を与えた。

 数日前まで灰色に沈んでいた街が、いまは鮮やかな色彩に満ちあふれている。

 善いことをしたのだ、という感慨が、藤世のこころを温めた。

 それでも、胸がずきずきと痛む。

 清が消えてしまった、ということは、臨泉都の朧は、もう――……

 なにより、四詩の声を、だれも聞き取れない、ということは、なにか、自分たちは間違ったことをしたのだろうか――……

 神殿にいるとき、藤世はいっときたりとも四詩のそばを離れなかった。四詩は、清に出されていたように捧げられる、わずかな木の実や水を口にし、藤世に与えられた部屋で、藤世に寄り添って眠る。ときおり不安げにあたりを伺い、そっと藤世の頬に自分の髭を触れさせる。瞳や前肢のうごきで、簡単な意思疎通はできたが、複雑な想いをくみ取ることができない。

 どうすればあなたの声を聴けるか、わかる?

 そう訊いても、四詩は首を横に振る。

 眠りに就いても、夢に四詩は現れない。故郷の島の、母や矢車を夢に見る。島で変わらず機に向かっている自分。矢車の染めた糸を検分している自分。

 朝めざめてそれを思い出しても、故郷に帰りたいという想いは生まれなかったが、焦りは生まれた。四詩と話していた通り、島も氷雪から解かれたならば、自分は故郷に手紙を書かなければならない。

 つまりは、想いを綴った布を織る必要があった。

 しろたえの島の、母と矢車。

 臨泉都の女官・印月。

 この三人には、たよりを送る必要がある。

 市場を離れて、侍女たちの知っている工房に案内してもらう。そこで、染料や糸を買い求める。貝殻虫から抽出する赤の染料、乾燥させた植物の染料、羊や山羊、ヤクや兎の、さまざまな手触りの糸が手に入る。

 神殿の染料竈と織機を借りる。母と矢車には、これまでの経緯をしたためた長い織物を織った。杼を滑らせ、筬を打ち込む規則正しい音を、織機の足許でからだを丸めて、四詩が聴いている。

 印月には、自分が嶺でなしたことを簡潔に伝える。そして、朧がどうなったかを、伝えて欲しいと綴る。こちらには、四詩の声を聴けていないという点も含める。王や王妃に、こころあたりがないか、訊いてほしいとも。

 今回の代替わりと、はるか四百年前の代替わりで、異なる点といえば、藤世が思い当たるのは珊瑚だ。

 短剣に、珊瑚がないまま、四詩は刃を振るった。

 そして、珊瑚はまだ、おそらくは臨泉都の王宮にある。

 自分たちが犯した過ちを、これからなにかすることで挽回できるかはわからなかったが、藤世は望みを自分の織った布に託した。

 願わくば、なにか手がかりが得られるように――……


 しかし、手紙の往復には長い時間がかかる。臨泉都からたよりが戻るのは、すくなくとも半年後。島からは、それにふた月は追加で必要だった。

 その間、藤世は四詩とともに、嶺の谷を巡った。ゆっくりと、ほんとうにゆっくりと春に向けてぬるみ始める空気。浸せば感覚が麻痺してしまうつめたさの、雪解け水が渓流をつくる。それに潤される麦畑や放牧地。緑の芽が、地面や灌木にきざす。

 聖山は変わらずまっしろなおもてを輝かせているが、ひとびとの暮らす村には、春がやってきた。村人は雪獅子とその伴侶を歓迎し、こころづくしの宴でもてなす。藤世は三叉に請われて、旅先から村々のようすをしらせる端布はぎれを送った。

 ふたりが西部のある村に入ったとき、藤世のもとに一矢からの文が来た。

 雪獅子の代替わり後、長く故郷の村に下がっていた彼女が、ふたりが近くに来たことを知って、面会を申し出たのだった。

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