母の脂

merongree

母の脂


 はっきりとそう突きつけられなくても、私がそれを仕組んで弟に起こしたのだと思っている人は多いみたいで、いまだに同じことをよく訊かれる。別にそれでいいと思う。私にはそうする理由はなくても、彼らには新聞とかネットとかで知った私たちを使って、もう少し自分の好きな想像を描きたい理由が生活の中にあるだけのことだ。私たちの生活はあれからとても安定し平凡なものになってしまったというのに。私の方で打ち明ける理由はなくても、いつか色んなことを言われすぎて、言われていることの方が本当になったら嫌だからこうして書き残しておく。何も悪いことをしていない、という意味での共犯者の弟だって、小さかったから曖昧な記憶を改ざんし、いつか噂の方を信じて私を憎んだりするのかもしれない。それは嫌だから。また家族って結婚したり離婚したり色んな形態変化が起こる可能性があって、その時に弟が私の敵になったりしたら嫌だから。私は彼を消そうとしたんじゃなく、むしろ彼が産まれるのを手伝ったみたいなものだ。自分でああいう風に産まれると決意して私の手を払ったんじゃないか、と思う。

 私が弟のすばるを有名にしたのは、彼が小学校一年のときで私は四年だった。学年でいうと三つ違いなのだけれど、彼が遅生まれなのでいつも四歳ぐらい違っている。私が三歳のときに両親が離婚し、小さかったので私はお父さんの顔というのを抽象的にしか覚えていない。当時、これからは二人家族になって生きるんだと、お母さんが私を伴侶として生きていく指切りをしたことは覚えている。私はお母さんの言いつけを守りなるべく知らない人とは接触せず、二人だけで籠って生きようと決めていたのに、ある時あっさりと闖入者が現れて私たちの生活は引き裂かれた。私はしばらく不機嫌な祖母の家に預けられ、次に病院に連れて行かれた。「すばる君、良かったわねおねえちゃんが来てくれたのよ」と、私の来訪を明るい材料にしようとしてお母さんの妹が言った。私にとってすばるは隕石のように突然私とお母さんの上に落ちてきたものだった。

 すばるが嫌なタイミングで出来たと分かった後で、お母さんは一人で産むと決めて反対されながら産んだらしい。唯一、父親らしい私の父だけは君の好きにすればいいと反対はしなかったみたいだった。ただ養育費にかけてはお母さんの方が自分一人で産むと決めたからと、すばるの分は要求しなかったみたいだった。お母さんはお父さんの支援なしに子供を育てるということを猛烈に志向し、親戚に私たちの世話を頼むときも常にお金を払っていた。おばあちゃんにも親戚の小学生にも、それから不思議な人徳で捕まえてくる中学生ぐらいの少年少女たち。延長保育にいる私たちを迎えに来るのがこういう得体のしれない少年少女になると、保育園の保母さんにも不審がられた。私はお母さんの娘として特に機転を利かせるつもりで、親戚のお姉ちゃんと言った。すばるは、他人のことをお姉ちゃんと呼ぶのだと理解し、私のことをずっとみちかちゃん、と名前で呼んだ。

 私が小学校に上がることは、お母さんのアルバイト代を節約する上で少し役立ったのかもしれない。私が小学校の帰りに弟を迎えにいけるようになると、お迎えの少年少女たちは絶滅したみたいにいなくなった。家に帰っても、部屋がぱりっと静電気の火花を散らしそうなぐらいにしんとしている。また彼らで随分散財したものと見えて、しばらくの間私たちが昼間食べられる食べ物のストックがなく、私はおばあちゃんとの電話で味噌を舐めているということをつい喋った。それから、おばあちゃんが熱中症やネグレクトで亡くなる子供のニュースを見たとき、お母さんに頼まれなくとも不安が昂じて来てくれるようになった。決して私たちを可愛がるわけではなく、ただ私たちが死なないようにと彼女のレパートリーからお菜を作り、また私を呼び寄せてそのお菜を入れたタッパーの説明書きを読ませる。あの白い紙片に書かれた文字の震え、あの頃よく読まされたそれは、おばあちゃんの肉声ほどに強い私の記憶になっている。まるで説教する声の調子のように鋭く、おばあちゃんが私たちをあんな声を出して叱ったことはないが、本当ならあんな風に私たちに君臨したかったのかもしれない。私に加えてすばるまでが、自分の監督していた家庭のなかで自分の娘が穏便に産んだ子供であったら。

 絶滅した少年少女たちは、大概お母さんのファンみたいな子で、お母さんのことは好きだけれど子供まではそうではないから私たちへの態度もばらばらだった。彼らはお母さんが一応の安全を考えてなのか、二度とは来ない。一度きりのアルバイトで、まるで山積みのクリスマスケーキのために雇われるコスプレのサンタクロースみたいな子たちだった。彼らは彼らで、家庭にどこか隙間風みたいなのが吹いていて、そこを人手の要るお母さんに笛を吹くようにしてかっさらわれて来る。そして警戒心から家族にはせずにまた野に放つ。私がすばるがジュースを呑むときに背中をさすってあげたのも、ただ習慣だけでやったことで愛情でも何でもないのだけれど、お前えらいな、と痛ましげに言ってくれた男の子もいた。彼は彼でちびすけの世話を任されているのだけれど、こんなアルバイトを受けたりして、私のお母さんが好きなのだろうなと直感したりした。私は、彼らとの間のふいの、突然に来て去る通り雨のような同棲を繰り返す過程で、彼らに親しむ代わりに、他人といながらにして自分のうわべに牛乳のようなしぶとい膜を張る術をまなんだ。それは突然他人の子供の面倒をみることを強いられた彼らが、私たちきりしか居ない部屋のなかで汗でもかくように自然に、うっすらと絶えず浮かべている態度だった。私は彼らに同情し、彼らに学んだが、彼らに馴染みはしなかった。 

 おばあちゃんの来訪が増えると、冷蔵庫のなかに数日は持ちそうなお菜が増えてゆく。私にとって冷たい財産が増えるような気分だったが、お母さんにとっては彼女と折り合えなかった過去の経験が、波のように沢山寄せてくる時間でもあるみたいだった。ある時、冷蔵庫を開けると今度はおばあちゃんが絶滅していた。まるで女子中学生みたいなやり方だと思うけれど、台所のゴミ箱には微かに小虫が羽音を立てていた。夕飯には真っ白いご飯だけが茶碗に盛られて出てきた。私がお菜はないのと尋ねると、お母さんは微笑して「これはびんぼうごっこよ」と言った。だから私たちの生活は、実物のようでいてたまに実物でなくてもいいということになった。考えてみれば、服を着せかえても着せ替えごっこと言う。お母さんのようにふるまってもお母さんごっこと言う。ごっこであるからこそ、また真剣に隙のないようにやろうとする。私たちはごっこ遊びの過程にいて、私は、おそらくみちかごっこで、お母さんは本当にお母さんごっこをしているのだろうな、とこのときに理解した。そしてすばるの服を着せかえるときも、彼がぐずぐずすると「ごっこだからちゃんと真剣にやって!」とか言って、お母さんを苦笑させた。

 夏は夏ごっこ、というものをしているのだろうか。そう思うぐらいいつもとても暑い。私は真剣に小学生ごっこをしており、その結果ランドセルを背負うのは二年目になり、二年生に進級した。四月になるとすぐ私の誕生日があるので、私はお母さんに生まれたことをとても祝福してもらい、例年通りペコちゃんのチョコレートが乗ったケーキを食べた。それから五月になり子供の日とか、母の日とかがあって、すばるは保育園でこいのぼりを作ってきたし、私も彼も母の日の似顔絵を描いた。それからお母さんはふと、お母さんがいなくなる日という祝日の日に従っているように、ふといなくなった。夜の九時になっても仕事から戻って来ず、私は恐怖から誰にも助けを呼ぶことも出来ず、ただいつも通りのことを行って自分に何も起こっていないと錯覚するため、いつも通りに弟とともに眠ろうとした。すばるもすばるでお母さんがいないことを何も質問して来ないのは、同じ恐怖のなかにいるからだという風に思われた。私は拝むような格好ですばるの短い身体にしがみつき、昨日までの過去のなかに自分を捻じ込むように強引に寝た。

 翌日は食パンを齧って家を出た。すばるを保育園に預けるとき、お母さんが風邪をひいていると嘘をついた。おばあちゃんがお母さんのために来てくれるのだと嘘を言った。私はすばるに食べさせるものに困り、もう四歳になっていた彼にまるで赤ん坊のときみたいに牛乳ばかり与え、嘔吐されて服を汚し、そして彼を日常生活のなかに居させるためには、彼を洗わなくてはいけないということを知った。幼い子供の身体を洗うのは何だか大人の役割のように思っていて、私は一人で包丁を握るみたいに弟を裸にして洗うことにためらいを覚えた。なぜだかお母さんのエプロンをして自分の服は汚れないようにし、洗い終わると自分の服が濡れているのが失敗のように思えて泣きだしたりした。お母さんがいなくなると、家のなかにあるものが全て大人用と言えるぐらい大きくなり自分に襲いかかってくるような感じがした。

お母さんは失踪から三週間ほどで戻ってきた。沢山の野菜やお菓子を山車に引かせるほどに買いこんで戻って来た。私は、感激したら涙とかでその光景がぐしゃぐしゃに潰れて再生しなくなるような気がして巧く興奮しきれず、ただ台所に立つお母さんの背中を、網膜が焼けるほどに見た。私は、これを一度も失ったことがないのだと思い込もうとして黙った。黙っているうちに、私がお母さんの不在に衝撃を受けていたという記憶のほうが薄れて、ほんとうにお母さんのいた生活に自分の実感が接続できるような希望を感じていた。お母さんはふいに、もうあのお姉ちゃんたち来なくなるからね、と言った。私はとうに絶滅したあの少年少女のことを、何故今さら言いだすのだろうと不思議に思った。

 私は、その後お母さんの失踪が習慣と化すことを、夏で空気が熱くなるのを受け入れるように仕方なく、大汗をかいて、全身泣きながら受け入れるより仕方がなかった。鳥が鳴くように、虫が羽音を立てるようにそれは仕方がなかった。あまり強靭ではない彼らが、彼らの生きねばならない環境に適応した成果なのだから、何ものも彼らから鳴き声だったり羽音だったりを捥ぎ取る権利はない。たとえその子供でも。大体すばるはミルクを離れた二歳ぐらいの頃に、もう乳呑み子じゃないし平気よねという言葉をお母さんから与えられていた。産まれてお腹を離れ、それから乳を離れて模造品の乳を離れた以上、彼は生物的には母と離別して生きていける身体なのだ。彼のほうが先に遠ざかったのだと言えばそうかもしれない、そこまで母が情熱的にすばるに対してつっかかることはなかったけれど。

 直接に不満や説教を言えば、この家の当事者というものになる。それを怖れていたのだと思うけれど、おばあちゃんはお菜を全部捨てられるほどの喧嘩をお母さんとしても、私にお母さんの陰口を言ったりしたことはなかった。ただ糸が切れた凧のようだね、とお母さんが失踪するようになってから呟いたことがあった。妙なもので、今やおばあちゃんと私とすばるが皆、お母さんから同じ条件のもとに捨てられたような不思議な連帯感もこの家に取り残された私たちには生まれていた。おばあちゃんは歳をとっており、季節が進むのを抑制できないように、身体が古くなるのを止めることが出来ない。「身体の中に枝があって、風が吹くたびに震えるみたいだ」と、何だか抒情的な言葉で自分の身体の痛みを呟いてくれたことがあるが、それが私への最大限の親しみのしるしだったかと思う。そういう言葉を言われてもなかなか声に出して反応をするということの乏しいすばるには、おばあちゃんからどのような友情も示されることがなかった。

 おばあちゃんは夜までいないので、夜はいつも私とすばるだけの独占物だった。眠りに落ちる必要性のために、私は彼によく喋りかけた。彼は小学生の私の容赦のないお喋りを、おばあちゃんのお菜を箸でつまむようによく咀嚼して耐えていた。子供が子供を養育するとき、その目的は良い人間に成長させるということではなく、自分のよき遊び相手に仕込むということにならないだろうか。少なくとも私の場合はそうで、私は彼に文字の読み書きや数の数え方、私じしん習いたての九九の歌などを仕込み、彼は回らない舌で発音しようとし、また彼の反射神経にない運動も、懸命に理解して動こうとしていた。絵ですら、彼はひらがなを真似るように私のスケッチブックにある動物の姿をそっくりまねて描き、彼にとっては私のスケッチブックの外に実際の世界があり、私の描いた猫とは違う猫が自由に歩いているという現実のほうが想像が出来ないみたいだった。小学校でランドセルを背負って教育されるようになってから、先生があるルールにそって私をある模範的な人間に仕立てようと努力していることを肌寒く感じたけれど、同じことを私は弟にしなかった。彼は私の醸造酒のような、良い嗜好品に育った。

 彼も小学校へ入ってきた。正装をすることには他人よりも関心があるほうだったお母さんが、宅急便で彼に黒いランドセルを送ってきた。入学式にはとても明るいお母さんの妹が来、一通りの儀式が済んですばるは小学生になった。大人たちの気分が伝染したものか、私は二人ともが小学生になったことで餓死から遠のき、生活の上に破滅を微かにはじく脂が塗られたような気持ちがして少し心強かったのを覚えている。私たちは朝はそれまで通り一緒に登校し、帰るときは校門で待ち合わせて一緒に帰ることにした。ある時、彼が同級生らしい子供たちに黒いランドセルでぶたれつつ、校庭を進んで来るのを見つけた。彼らは私を上級生の家族だと見分けるとすぐ逃げ散ったけれど、驚いている私の顔つきのなかに何かを見咎めようとするような眼つきの印象を残した。想像すればすぐに分かるようなことだったけれど、保育園の先生や私、おばあちゃんなど君臨する養育者といがい、関係を築いてこなかった彼は同級生のなかで、無抵抗の幼児のように見えるらしかった。驚いている私の顔に、彼と同種の血の色が透けてみえたことが彼らには面白かったのだろう。すばるは何も言わなかったが、私は夢中で彼の手を引いた後、玄関の照明の下で彼の顔をぬぐってやらなくてはいけなかった。

 小学生には宿題というものがあり、私はそれに取りかかることが好きだった。宿題をやって学校に出したりしている限り、私は小学生として大げさに言えば生存を脅かされないような気がしていた。私には母の日に備えた宿題が出ていて、それはお母さんの似顔絵というしぬほどありきたりなものだった。九九を忘れないように、お母さんの顔というものは忘れないものだけれど、私は図工の授業で褒められたりコンクールに出されるようになってから、何を描くのでもなるべく実物をみて上手に描きたいと思うようになっていた。私はすばるを丹念に風呂に入れ、お母さんの箪笥に残っていたワンピースを着せ、粒の大きな首飾りを首から下げさせた。

 それからいつも乱暴の痕をぬぐってやるみたいにタオルで顔をふき、お母さんの引き出しに残っていたクリームを塗り、金色の筒のきつい色の口紅をつけた。エメラルドグリーンの丸いケースに入った粉をはたいた。さすがに子供の、男の子の身体のパーツに合わせては出来ていないものらしく、口紅の斜面の幅よりもずっとすばるの唇のほうが薄くて私は当惑した。粉も、果物のようにみずみずしいおうとつに富んだ子供の顔には不要の毒のように思われた。まるで雪のなかを通ろうとするみたいに難儀しつつ私は夜になって少し涼しくなった部屋のなかに雛人形のように小さな、私のてのひらに収まりそうな可愛いお母さんの首を見た。

 私はこのときほど、自分よりも女親に似た、弟という生き物を自分の手で育てていた喜びを感じたことがその後もない。私がすばるとどんな遊びをするより、また彼がそれに応えるより、彼を椅子に座らせて行うこの行為が私に可能な最大の成功だったのだと思う。もしこれが妹だったら、とふと考えてみることがある。自分よりも母親に似た女の子を化粧して、あんなに嬉しかったかと思えば全然違うだろうと思う。女であればお母さんと同じ鋳型で生まれたものであり、そのうえ私よりもお母さんに似ているとあれば、娘である私よりも精巧なお母さんの贋物ということになる。本物でなく精巧な贋物を手に入れて喜ぶというのは、私がすばるを布団に入れるまでして嫌ったあの寂しさや孤独の味わいのきついもので、私はこういう点で妹を必要としなかった。だからすばるを妹に変えようとしたというのではないのに、他人は想像の簡単な所で折れ曲がって実際とくに意味もない本当のところを信じてくれない。

 学校に出した絵は先生の手に受けられたものの、特に褒められたりはせず、コンクールにはもっと平凡な日常で血ぶくれしたような輪郭の丸い首の絵が選ばれて、赤いリボンをつけられていた。私は何の役にもつかなかった自分の絵を丸めて持ち帰りさっさと捨ててしまった。すばるに仮装までさせたのは写生のためだったけれど、卵から雛が孵るように私の可愛い小さな母がそこに生まれるのを見たあとでは、それを再現しようとして失敗するのが怖くて、また再現したところで記憶にある感激とは違う感情を感じることが怖くて、私は彼に同じことを繰り返さなかった。ところが、あるときいつも通り彼がいじめられた泥をぬぐってやるときに、私はこのところ彼が決まった眼のそばめ方をするのに気がついた。彼の肌のどこかに痛む傷でもついているのだろうと軽く想像していたのだけれど、彼は私が彼にしたことを、読み書きと同じこれから彼が習慣化しなくてはならないことの訓練だと受け取っていたらしかった。

 最初にまともにそれを見つけたのは、お母さんの妹だった。すうちゃん、お顔どうしたのと言うので、私は「お母さんのお化粧の道具があるから、たまにああして二人で遊ぶの」と嘘を言った。この叔母はとても善い人だったけれど、すばるに自我がないものと見ていることだけは自分で変えず、すばると直接話すことは全然しなかった。私は彼女に何とでも嘘を言うことが出来た。「可愛いでしょう、お母さんがうちにいる頃、やり方を教わったの。大人になったらしていいって。でも、大人になるまでの練習でたまにするの。すばるもしてみたいって言うから、それでちょっとだけつけてあげるの」私はこのときの叔母の暗い表情をみて初めて、この行為がお母さんを恋しがってする行為に見えるということを知った。そんな本当でない見せかけの理由が広く通用するのなら、私はその贋物の動機のかげに隠れてずっとすばるを化粧させてもいいように思われた。風呂からあがってすばるの顔の傷のあとに消毒液をつけた後、ふと絵の具を置くようなつもりで彼の肌の上に、お母さんの化粧下地を再びつけた。みるみる彼の肌の上にそれはコンシーラーとして働いたが、その劇的な効果をみるより先に弟が、「みちかちゃん、」と私に懇願したことに私は驚いた。

 小学校から帰るときの風景がまず変わった。彼には友達が増え、あるとき数人の男の子たちと連れ立って校庭を歩いて来、私のまえまで来ると彼だけが群れを離れ、私に小声で「公園に行ってきてもいい?」とたずねた。いいよ、と私が言うと彼は何だかすまなさそうに瞬間身体を縮めて群れに戻ったけれど、彼のそのすまなさが彼の群れに対して示されたものだということが、そのあとの彼の快活そうな走り方ですぐ分かった。彼があんなにも無邪気に、快活そうに歩いたり走ったりしていたところを私は見たことがなかった。そんなことが増え私たちは一緒に帰らなくなり、私は叔母に頼んで合いカギを作って貰った。彼におもねるようにして私は赤い紐のついた方を渡し、「自分には何も起きていないんだ」と言い聞かせるみたいに青い方を首から下げた。家のなかも次第に様相が変わって来る。彼が友達を家に引き入れるようになって来て、私が帰ると玄関に泥のついた靴が溢れかえっていることが度々あった。彼の友達というのは大概が年上で、私よりも学年が上の子たちもいた。彼らは私が帰ってきても、家の持ち主が帰ったとは思わないし、私は本能的にここが大人が寄り付かない家だということを彼らに知られたくないと思った。だからいつも「親が帰って来るから5時には出て行って」と叫ぶように言ったのだけれど、自分たちの方が身体が大きい彼らはおどけてはあい、と言うばかりで、結構のろのろと居座る子もいた。

 すばるは自分で化粧をするようになった。私のやり方をみて、見よう見まねで覚えてしまったのだろう。それに私が自由に絵を描きたいと思うように、彼じしんまた顔を自由に描くことの楽しさに憑かれ始めたみたいだった。「すばる、学校行くの面白い?」と訊くと、彼は自分の鼻のうえに化粧下地を塗りながらうなずいた。光に透かしてみない限りよく分からないのだけれど、鼻の上にほんの少し、転ばされて顔を打ったときに出来た傷があって、彼はそれが他人の眼につくのを本当にいやがっていた。「その顔で行って、何か言われたりしないの」と言うと、「なんにも」と抑揚のない調子で答えた。否定も肯定もそこには含まれていず、またその声の表面には、私がかつて身に付けたのと同じ、温められた牛乳のような半透明の強い膜が張られていた。

 すばるにとって友達とは、この化粧した小学校一年生のときに初めて見つけた珍しい、そして捕まえるのがとても容易い不思議な虫のようなものだったと思う。彼は動かないセミをてのひらで包むように、畑で大根を抜くみたいにたやすく、彼とともに遊んでくれる他人を見つけてきた。教室のなかにいるのはだめで、彼が捕まえてくる子たちのほとんどは、ボールを拾ってあげたとか靴ひもを結んでくれたとか、ごく軽い縁で気まぐれに彼に接触し、そして捕えられた哀れな普通の子たちだった。彼らは別々のところで出会ってすばるによって家で引き合わされることもあり、ある時など、家に来るように指定された子が、カギを持ったすばるが到着する前に私の家の前についてしまい、私に見つけられて不審者のように扱われたこともあった。私は自分と同い歳ぐらいの子が自分の家の前をうろうろしているその光景に驚いたが、背後から友達を引き連れてやってきたすばるの、その凍りついたような空気をとろかすために投げられたと思われる、いやに間延びした「あー」と言う声で眼が覚めたような感じがした。それからその声を出しているすばるが、立ちすくんでいる私をなだめようとして懸命に微笑んでいる顔をみてぞっとした。ああいう、眼の前の都合のいい出来事をそっと継続させていくために、それを破壊しかねない子供の驚きをなだめる微笑というのは、化粧したお母さんぐらいの年齢の女のひとの顔にしか見たことがないものだった。それをただ顔に粉をはたいてやっただけで、一年生にしかならない幼い弟が見事にしてのけていた。

 あるとき彼はお気に入りの口紅を使いきったと言って泣いた。あれがないと生きていけないとか薄っぺらなことを言うので、うんざりして私は「じゃあ生きていかなければいいじゃん」と変な答え方をした。正直に言って、私はこれほど満開になった彼の生がもはや家のなかでうとましかった。単に弟が一人居るだけでは済まず、たえず彼の精力的な、どこか息苦しそうな同世代の子供たちまでが家のなかでひしめき合い、また誰がすばるの愛情を受けるかということに苦しむのを見ることに私は疲弊していた。すばると言えば親戚の誰も、彼に口があることを忘れてしまうような大人しい子供で、そんな彼のちょっとした眼つきや笑い方をめぐって一喜一憂し、掴みあいの喧嘩までして家のなかを汚して行く彼らとともにいるのは、私にはそれまでなかった轟音が生活のなかで鳴り響きだしたようで暮らしているのがつらかった。すばるに私は、しねとまで言わなかったけれど「変態」と言った。それは彼がわざわざ眼につきすぎないように薄化粧をして学校に行くことを指していた。「変態、口紅がなくなったぐらいでしぬとか馬鹿じゃないの、だいたいいつも化粧してるなんて変だよ、この変態、」と私は鞭打つみたいに言った。すばるからは「ぶす、」と鉛玉のような声が返ってきた。

 すばるが号泣をしているのがわずらわしくなり、私はお母さんに会いに行って来ると嘘を言って家を出た。お母さんに会いに行って、口紅を貰ってくるよ、それで満足、と言った。もちろんこれは嘘で、私とさんざん同じようなやり取りをした彼は、私が彼を傷つけるために罵声の代わりにこんなことを言っているのだと分かってさらに泣きだした。私は彼がこのまま泣きつぶれてくれればいいと思って期待して出て行った。外に出るとすぐ、同じアパートのおばさんに出会った。よく野良猫に餌をあげているひとで、このときはただ外で煙草を吸っているだけみたいだった。私がこんばんは、と言うと、煙を吐いたあとで「あんたんとこ、まだお母さん戻らないの?」といきなり親しげに尋ねた。それから私は彼女と会話をしたことを、猫の餌を食べてみたみたいにとても後悔した。

 家に戻ると、すばるは寝てしまおうとしたのか部屋の電気が切れていて、テレビの画面だけが煌々とついたままになっていた。彼は子供がアニメを見ながらお絵かきをするみたいに、テレビをみて芸能人の女の子の顔をみて、鏡をならべて化粧をすることがあったから、テレビをつけていたのは顔をいじろうとしていたのだろうと思われた。横たわっている彼に近づいてみると、百円ショップで買った鏡があり、まだ僅かに残っている化粧下地を無理に押しだした後があった。頭から巻き付けているタオルケットは、眠るためではなく、本来こんな長い髪が欲しいと思っているんだということがこの寝姿のときに何故か痛いほどに分かった。私は彼がこんなにも欲しいものを明確にし、またこんなにもそれに近いものを手に入れていることが羨ましかった。もし表に出て行ったのが彼であれば、何を言われようとも私のように気分が悪くなることなく耐えられたのではないかと思った。私にぶすと言ったみたいに、私たちを眺めて批評する女たちにばばあとかぶすとか言えたのではないか、と仰ぐように彼の寝姿を見た。

 ただいまあと、お母さんが突然姿を現したのは八月の終わりの頃だった。私たちは夏休みに入っていて昼間から家に居た。外から帰って来ると暑いね、とかあんたたちちゃんとクーラーは入れているの、家のなかでも熱中症になったりするのよとか言いながら、お母さんは呑気に家のなかを点検して回った。私は小さいときにお母さんが戻ってきたときのような甘い感激はもう感じず、むしろようやく薄皮を張ってきたお母さんの不在の生活の上に、鉈を振るわれる感じがしてしばらく声が出なかった。まるで一番乱暴なすばるの友達が上がって来たというような感じが胸のなかに広がり、私は実の母親、本物のお母さんを前に居すくんでいるより仕方がなくなった。

「おかえり、」と、先に白旗をあげるように話しかけたのはすばるだった。お母さんは、すばるがものを言うということにまず驚いたようで、「すうちゃん、あんた今お母さんにおかえりって言ったの」とものすごく単純な鸚鵡返しをした。そのあとで起こった瞬きほどの短い沈黙のなかで私は、すばるがやはり化粧をしていることに対して、私がその前に行ったような酷いことをお母さんが直に言うのではないかと俄かに恐れた。お母さんは、自分が沈黙したことにも気付かず、またすばるが自分にものを言ったことももう忘れ、「みちかの食べたいものをお母さんいっぱい買ってきてあげたわよ」と私にだけ話しかけた。

 台所でスーパーの袋を解いているとき、底のほうに日焼け止めクリームが三つぐらい入っているのに気がついた。「ドラッグストアで安かったから沢山買っちゃったのよ、あんたもつける?」と言った。私が、日焼け止めなんてそんなに使わないよと言うと「お化粧するひとはみんな使うのよ」と言った。それから台所のはじに、何か話をするときそうしていたみたいにぐいと私を引っ張り、耳元で「これあげるから、あんまりすばると喧嘩しちゃダメよ」と言った。私の手のなかには透明なセロファンに包まれた小さな筒が押し込まれていて、手のなかをわざわざ開いて見ることがうとましく思われるほどだった。

 私はあの猫のおばさんに言われたことを、私が泣きながら、叔母に電話して悲しんだときの記憶を夢中でまさぐった。私は一字一句、彼女には本当のことを打ち明けたはずだった。また叔母も実際、お母さんにはこんな場合、本当のところを話す性格のように思われた。お母さんはもう自分が見たいと思う所しか、もう見えていないのだという気がした。化粧した後の顔を自分の顔だと思い込むみたいに、お母さんは化粧したがる娘しか見えず、このあまり近づきたくない家に幸福に近づくために夢中で口紅を一つ買いこんだのだという想像が、夜になってようやく私のなかで固まった。またすばるはすばるで、久しぶりに帰って来たお母さんの顔を見、この自分がその顔に描かれそうになった女性の顔を見、それが芸能人ほど美しくないということを見てとり失望したらしいことが表情からみて取れた。突然のこのお母さんの来訪が済むと、私たちはそれとなく居ずまいを正し、昨日までの順調にしぶとく生きている自分たちに、自分たちを戻す作業にとりかかった。すばるは丹念に顔を洗い、化粧下地のあとで綺麗にファンデーションを塗った。それからパウダーをはたいた後、私がポケットに入れていた口紅を塗ってあげた。まだ私に対して機嫌を損ねていた彼は、私に施しを受けるみたいでこの最後の仕上げを嫌がったけれど、「泣くと顔崩れるよ」の一言ですぐに黙った。彼のために早くタオルケットにもぐったけれど、夜中に起きてみると案の定彼は起きたままで、最後の粉をまだはたいていた。その姿は子供が童謡をながながと歌うみたいに、飽きもせず一つの作業を繰り返す心地よさに没頭しているようにも見えた。でも彼の時折神経質に震える手の動きをみて、私はふと写生をするときに自分が手を震わせる癖のあることを思い出した。彼はただ無造作に砂場の砂のなかに手を入れて感触を楽しんでいるのではなく、むしろ慎重に砂のなかにあるものの表面をなぞり、その輪郭を固定しようとしているみたいだった。彼がいまその尻尾をつかみ、慎重に引き留めようとしているものは、決して六歳の男の子の顔ではなかった。彼は鋳型にはない目配せや微笑をもって、既に自分の男の子としての顔を打ち砕いていた。彼はもはや素顔では自分の出来る表情を全て表しきることが出来ないのだった。また今や彼の化粧は、かつて私が母の首の贋物にしようとした時の化粧とは全く異なり、描かれている全ての線が彼の夢見る、彼自身の理想の顔の像に鋭く向けられていた。彼は昼間見た、彼の理想ほどには美しくないお母さんの顔を、まるで悪夢のように思っているらしいことが、彼の顔の修復作業における彼の震え方で見て取れた.。彼は口中でまた何事かをつぶやいていた。お母さんお母さんという子供っぽい泣き方はしない子だったが、それに近いような響きが微かに聴こえて来た。彼はすうちゃん、すうちゃんと自分の愛称、彼に眼も鼻も口もないと思って呼ぶような女の呼び方を繰り返し、自分自身その声を聴くことに没頭しているみたいだった。彼が粉をつけているのは、このすうちゃんの表面にだろうとふと感じた。彼は何度も名前を呼ぶことで懸命に自分の上に可愛いすばるの面影を呼び覚まし、そしてあの毒のような白い粉をはたいてその素晴らしい輪郭を自分のうえに固定してしまおうとしているのだろうと思った。私は彼を驚かせたり、笑わせたり泣かせたりして、彼の上にせっかく出来かけたすばるの輪郭を壊してはいけないと思い、彼の生活に乱入しないようにさっさと自分をタオルケットにくるんで眠りについた。

 すばるが失踪したのはその後だった。意図的な家出でないことは、彼が呼び寄せた友達が家にぞろぞろ集まり続けたことからも確かだった。私は夜になっても彼が帰らないので、祖母や叔母の家に連絡した。お母さんの携帯電話にもかけたが彼はどこでも所在を把握されていなかった。叔母さんが警察にも通報して、実の父親がこっそり連れて行ったという説も考えられて久しく会っていない私のお父さんにも連絡が行ったようだけれど、お父さんはすでに別の家庭があり全く寝耳に水という話だった。うちに遊びに来ていた子供の家にも警察が行き、でも彼らのほとんどはすばるという友達がいたこと自体が寝耳に水の出来事のようだった。彼らはこの年少の友達で恋人のことを、自分以外の誰にも説明が出来ず、また変態と言われるぐらいなら怖くて自分を隠ぺいするような子供たちだった。私は内心、彼に歴とした恋人が現時点でいなかったことに落胆をした。彼に言えば、まだ試験をしている途中というようなことを平気で言ったかもしれない、などと思いながら。本当に彼がいなくなってしまうかもしれないと思っているときほど妙に、心がその恐怖から離れて平静になったりするものだ。私はそう怖れながら、彼が事故や事件で生きていないかもしれないということは全然想像しなかった。嫌な想像というものは醜い化粧みたいなもので、現実にありもしない傷を創り上げて悩むぐらいなら、まともに現実などみないほうがいいように思われた。火の気のなかった私の家にはお母さんが定住し、おばあちゃんや叔母さんが来たりして俄かに大人ばかりの家になった。こんな頼もしさは状況の急変に、既に現実の方が先に備えてしまったしるしのように思われ、私には却って川が増水するみたいに不安の水かさが増える結果になった。失踪してから四日が経ち、警察犬の素晴らしい働きのおかげですばるが見つかった。

 彼は排水溝のなかに打ち捨てられているのを見つけられた。彼を見かけたひともいたみたいだけれど、人形のように思われて見過ごされていたみたいだった。彼は匂いだけの存在になって、彼があまり好きではなかった犬によって見つけられた。来ていた服は泥水で汚れて靴は履いておらず、どこかに連れていかれた後のようだった。靴下は片方が脱げたままだった。可愛らしかった顔がむくんで、殴られた痕が痣になって盛り上がっていた。水と砂を呑みこんでいたけれど、窒息する前に見つけられて一命は取り留めていた。病院に行って会うと、何だか彼というより彼の標本に会った気がして、まだ私のすばるが無事だったのだという感激をうまく覚えられなかった。それから、すばるがいなくなった当時、私が誰とも連絡をしていないということ、またすばるがいなくなった後でも私がとても冷静に学校に行ったり、宿題を出したりしていたということで、私は警察のひとによくよく話を聴かれることになった。アパートの中で私がしばしばすばるを泣かせること、また私が、小学生から中学生ぐらいの男の子たちを連れ込んでいたことなどは有名だった。また弟にわざと女の子の格好をさせたりしていじめていたということ、また弟でなく妹が欲しかったのだと周りに言ったということ、などが噂になって出回った。私は、自分のしたことでないことを聴くことは自分に課さなかったが、その後で捕まった犯人が中学生の男子ですばるを女の子だと思って連れ去ったということを知り、私が自らの手で彼の顔に初めて色をつけた時のことを思い出した。弟でありながら性別の鋳型を超えて小さな母になった彼の姿に、私は大層感激したのだけれど、その中学生は彼が美しかったから浚ったにも関わらず、ただ女の子でないから捨てたのだろうかと思った。すばるが創り上げた彼自身の姿の美しさに感激するどころか、新しい創造物であることに戦いて彼を死ぬような目に合わせた中学生を私は憎んだ。そして彼を特別な異常者のようには思わず、世の中はこういう奴らの方で溢れているんだとも思った。来るひと来るひとがみんなすばるに優しい、清潔な病院のなかは実際奇妙で、すばるはずっとここにいて彼に優しくしてくれる他人や家族とだけ過ごしたらいいのではないかとも思えた。そうすれば彼をいじめる他人にも、彼が危険を冒して付き合わなければいけない他人にも会わずに済むのにと思ったけれど、病院もまた世の中に建っているものらしく残忍な性格のもので、それは中にいる人たちを煤菌であふれた世の中に押し出すための優秀な装置だった。すばるは包帯や消毒を変えられていくうちにどんどん健康を回復していった。ただかわいらしさとか美しさにかけては見事に減退して行った。

 病院の中庭で、彼の顔に付けられているばんそうこうを私は思い切り剥がした。薄い糊の痕が顔について、その下には薄紫色の痣が広がっていた。こうしている間も、すばるは全然無抵抗だった。私は彼を赤ん坊のころから養育してきた経験の深さから、彼のこの全身を預けるような無抵抗ぶりが、私への信頼とか忠義ではなく、あの抑揚のない声に似た、後ろめたい記憶をつかんでいるときの手の震えを悟られないようにするための、集中した無気力であるということを見抜いていた。

「すばる、あのお兄ちゃん捕まったって聞いた?」と私は口早に言った。すばるは既に知っているのかあんまり答えたくないのか、明瞭な反応を寄こさずただ私の腕にもたれかかっていた。「かわいそうにすばる、」と言った後、残念だったね、と私が付け加えると、彼は私の意図を呑みこんだらしく鋭く黙った。

 私は犯人の正体を知ったとき、彼の動機をにくんだが、同時にすばるが彼を捕えようとして力負けした結果だろうともすぐ想像がついた。すばるが、この先に自分自身であり続けようとする時、こういう敗戦をどれほど続けてゆくか、それを覚悟するなり防ぐなり考えが決まらないうちは、ここを出ることはたとえ傷が治っても危険だと私は考えていた。ばんそうこうの下に広がっていた薄い痣は、もう皮膚の表面は治っており、あとは内出血の痕が消えてなくなるのを待つだけのように見えた。お医者さんでないから専門的なことは分からないけれど、私はすばるの顔にこれがあり続けることは彼にとり不幸だろうと思い、病室から持ってきたお母さんの化粧下地のクリームを、彼の痣の上に振りかけた。液体の冷たい感触に彼は目をそばめ、彼を膝に乗せている私を見上げつつ、ばんそうこうの下にあった私の手をそっと払いのけた。彼の指先の何本かに、肌色の母の脂がちゃんと付着した。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

母の脂 merongree @merongree

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ