嚆矢

「私の名前は、アニーシャ。住良木すめらぎアニーシャ……です。一年生ですね。アニーシャって呼んでください」


 アニーシャはそう言いながら手を差し出してきた。にしても同い年か。それなら口調を崩しても大丈夫かもしれない。


「有馬晴虎、一年生。よろしく」


 そういいながら、アニーシャの白い手を握った。その肌の白さとは裏腹に、暖かくて、少しだけタコがある手だった。剣をずっと握り続けていたからだろうか。しかしその手の柔らかさは損なわれていなかった。

 数秒ほどしっかりと握手を交わした俺は、とりあえずの疑問をアニーシャへと投げかけた。


「……ところで、こんなところで何をしてるんだ?」

「何って、鍛錬ですが……」


 そういいながら、左手で先ほど振っていた獲物を持ち上げるアニーシャ。その造形はやはり日本刀のそれで、波紋などを見る限り、それなりにいいものを使っているようである。

 俺の視線に気が付いたのか、アニーシャは「これですか?」と俺によく見えるように日本刀をずいっと前に押し出してきた。


「……いい刀だな」

「ええ。父が私の六歳の誕生日の時にプレゼントしてくれたものなんです」

「そりゃいいな。よっぽど好かれてたんだ?」


 そういうと、顔を暗くするアニーシャ。けれど、すぐさま笑顔を浮かべてはいと答えた。その表情の変化たるや演劇屋顔負けの切り替えだった。……おそらくは、そういう風に教育されているのだろう。

 そのまま話を切り替えるように、刀を鞘に戻して俺に話しかけてきた。


「ところで有馬さんはここで何を?」

「担任から生徒指導室に呼び出された帰りだ。それで、こんな夜遅くに風を切る音が聞こえたから何事かなと思って」

「なるほど。……え、生徒指導室って。あの有馬家に連なる人間が……?」

「有馬だからって、先生に叱られることを免除されるわけじゃない。あー……でもまぁ、遥菜に限って言えばそうでもないか」


 遥菜は次代当主のために存在している、いわば有馬家の宝と生命線そのもの。これを失わないために、万が一にも壊れないように有馬家からは何か圧力のようなものがかかっている可能性がある。

 まぁ、考えれば考えるほど圧力はかかっている可能性が濃くなっていくことはわかっていた。なぜかって、そういうことを考えている俺が遥菜に降りかかる害悪を振り払うように設置された人材なのだから。

 そんなことを考えながら、ふと近くにある時計を見る。時計の針は午後十時半を指していて――午後十時半?!


「……遥菜、怒ってるだろうなぁ」

「ハルナさん、ですか。確か学年主席の」

「ああ。ちょっとやばそうだから今日はここくらいで。また明日、学校で!」

「ええ。その時はよろしくお願いしますね」


 そういって手を振るアニーシャに、俺も手を振り返す。そのまま踵でターンを決め、遥菜が待つ寮の部屋へとダッシュする。……この先に待つ、遥菜の雷を脳裏に思い浮かべながら。











 晴虎が走り去ってから数分後、アニーシャはただただそこに立っていた。


「……有馬、晴虎」


 そうやってぽつりと、先ほど邂逅を果たした男の名をつぶやく。

 聞いたことなど、その名前に懐かしさを覚えてしまう。その理由は、アニーシャにはわからなかった。


「有馬」


 その名前は知っていた。以前彼女が籍を置いていた研究所で再三にわたって注意されたからだ。「有馬には関わるな」、「有馬と切り結ぶにはまだ早い」……。それは本当に、アニーシャの耳にタコができるほどに。


「晴虎」


 ……そんな知識はあっても、下の名前になるとその意味は途端に不明になってしまう。まるで暗雲がかかるように。……もともとはそこに何もないはずなのに、突如として暗雲が発生して、その真実への到達を困難としてしまう。

 だから、そんな暗雲よ晴れろとばかりにもう一度つぶやく。


「……彼は、一体誰なんでしょうか」


 その心に宿る、郷愁の念を乗せて。











「……にぃ」

「はい」

「にぃは、僕のなんだっけ?」

「許嫁兼、ボディガードです……」

「だったらなんで……こんな時間に帰ってくる、の」


 返す言葉もございません。

 ……遥菜は俺の土下座をジト目で見ながら、ゆっくりとその足を組み替えた。ちなみに、今の遥菜はかなーり際どい格好をしている。具体的な言及は避けるが、この様子を見られたら、もういろいろとまずいことになる。

 そんなことはどうでもいい。どうでもよくないがどうでもいいのだ。今はとりあえず遥菜に許してもらうことが先決だ。そうしなければどうともならない。分家の次期党首筆頭候補であるとはいえ、本家の筆頭候補サマには逆らえないのだ。所詮は分家だ。

 というわけで、俺は遥菜を懐柔するための手段を模索する。


「……クレープ」

「やだ」

「じゃあケーキ」

「それもやだ」

「……ワンホールだぞ?」

「にぃのケーキはおいしい……。けど、太るからやだ」

「じゃあ何がいいんだ……。教えてくれ。もうお手上げだ」


 俺がそういいつつ顔を上げると、遥菜は少しだけ口角を上げて、俺に近づいてくる。そのまま正座している俺の前にかがんで目を合わせると、つぶやく。


「学校で他人行儀なことはしない。僕だけを見る。他の女に靡かない。――にぃは、私の……ううん。私だけのものだから」


 その時垣間見た遥菜の目は、いつになく淀んでいた。まるで何かに対する不安と絶望を抱いているかのように渦巻くそれは、目を合わせた俺をも拘束しつつあった。

 今まで一緒に暮らしてきて、このような表情をすることは一度もなかった。俺は遥菜をここまで不安にさせたことは一度もなかったからだ。


「ねぇ、にぃ。約束して」

「……ああ、約束する。俺はお前のものだ。求められればいつでも応じる」

「んっ……。それでいい」


 そのまま遥菜は俺の頭を抱きしめてきた。まだ膨らみかけの柔らかさが頭に伝わって、でも沸騰はしない。何故だかわからないが、遥菜は不安になるたびにこうやって俺の頭を搔き抱くからだ。何度目か数えるのはとうの昔に辞めた。

 そのまま数分が経過する。なおも俺の頭を抱き続ける遥菜。いい加減寝ないと明日に差し支えるので、俺はその手をほどく。

 あっ、と少しだけ切なげな声を上げる遥菜。俺はそんな遥菜の頭を片手で撫でながら、寝間着を探す。バッグに入っていたジャージがどうやらそれらしい。そちらへと向かって、制服をさっと脱ぐ。


「……あ、風呂入ってないな」

「明日の朝早く入れば……いい」

「それも、まぁ、そうだな……」


 それに今は眠い。学校という環境で精神的に疲れたというのが大部分を占めていた。俺は遥菜の温もりを両腕に感じながら、深い眠りに落ちていった。











「あ、二人ともおはよー!」

「風浜か。おはよう」

「……んっ」


 翌日。寮から校舎への道の途中で風浜とばったりと遭遇した。昨日とは違って、その身だしなみは乱れているように感じた。髪は少し飛び跳ねていて、リボンは少し曲がっていた。


「……風浜、お前、もしかして朝弱いタイプ?」

「ああー……。よくわかったね。そうだよ」

「まぁ、うん。お前のその身だしなみの乱れ具合を見たらな」

「え、乱れてる?! どこがどこが?」

「ほら、リボンとかだよ――っしょっと。これでよし」


 風浜のリボンを正しい位置に戻して、少しだけくしゃりとしていた部分を伸ばす。それだけで身だしなみは幾分かましになったような気がした。あとは髪だけだが、さすがに髪に触るほど無神経ではない。

 俺は風浜の髪を指さして、飛び跳ねていることを教えようとして。


――じ~~~~~~~っ


 俺に刺さる目線に気付いた。


「……どうした、遥菜」

「にぃ。リボンのある場所」

「………? あっ! す、すまん風浜、そういう意図はなかったんだ!」

「い、いいいいや!! 全然いいよッ! 男の人にそういうことされたの初めてだから恥ずかしくてたまらないとか、予想外に有馬君が近づいてきたからちょっとドキドキしちゃったとかそういうのないから! うん、大丈夫だよ!! 全然ッ! 全然大丈夫だから!!」


 どう見ても大丈夫ではない。

 風浜は目に見えて目を回しているし、遥菜は絶対零度の目線を俺に向けてきていた。……珍しい。遥菜が俺に対してここまで冷たい目線を送ることは稀だ。


「にぃ、昨日の約束、覚えてるよね」

「昨日の約束……。ああ、覚えてるぞ」


――僕だけを見る。他の女に靡かない


 果たしてそれはどういう意味だろうか。いや、わかっている。わかってはいるのだが、遥菜はこんなに嫉妬深かっただろうか。……いや、きっと遥菜は不安なだけだ。俺がどこかに行ってしまわないかって。

 そう思えば、あの発言は途端に可愛らしいものに変わる。


「……だから、にぃ。他の女に、そういう思わせぶりなことは、しない……!」

「おう、わかった」

「あ、僕にはしていいから……むしろうぇるかむ」


 そんなことを往来のど真ん中でいうもんだから、当然俺のほうに目線が殺到する。男子からは殺気のこもった、女子からは寒気がするような目線を向けられる。そんな視線の集中砲火の中、一つの影が俺たちのほうへと躍り出た。


「おはようございます、有馬さん」

「お、おはよう……。勇気あるな、アニーシャ」

「?」


 疑問符を浮かべるアニーシャに、俺は苦笑を浮かべた。

 その勇気というか空気の読めなさは武に関する家特有の教育によるものか、はたまたアニーシャの生来の気質なのか。それはさておき。


「……またにぃが知らない女の人――――ッ!」

「えっと、あなたが遥菜さんですか? 初めまして……」

「初めまして? よく、よくそんなこと言えるね。住良木……いや、桜満の元当主筆頭……」


 突如として、遥菜が吼える。血統顕界を展開し、その手に短剣を構える。その動作は非常に洗練されていて、一秒と経たないうちに、絶死の空間を周辺に広げる。

 対するアニーシャは、ただただ呆然としていた。突然刃を向けられた意味も、そして先ほどの遥菜の言葉もよく理解していないらしい。


「な、なんですか突然! そんな物騒なものを出して」

「先に手を出してきたのはそっち。恨まないで」


 そのまま前傾姿勢になった遥菜は――このままではまずい。止めなければ。俺は遥菜へと立ちはだかる。そしてそれがどのような結果につながるかを、ある程度予測しておきながら。


「……ぐっ」

「にぃ!」

「…………え。おな、かに、刃が……。ぁ……」


 痛みで薄れゆく意識の中、俺は俺へと縋る遥菜の顔と、俺の腹に深々と突き刺さった短剣をまじまじと見つめ、悲鳴を上げるアニーシャの顔がやけに鮮明に俺の脳裏に焼き付いた。

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