第3話 雨の日に歌えば

六月と書いて水無月。梅雨頃なのにどうして水の無い月なのだろう。そんな何年も前からの疑問も彼女が解決してくれた。古文では[無]を[の]と読ませるらしい。現代語訳してみると、[水の月]本当か嘘かは別にして腑に落ちた。


 私は好んで雨の日にバージニアへ通っていたから、6月は、ほぼ毎日通っていたように思う。

 1人分のスペースを空けて、雨粒に打たれて一層色鮮やかになる紫陽花を見ていたのはほんの数回、後は、ソフトカバーを持ち込んで、彼女の隣で本を読んでいた。


 彼女の読んでいる本が気になった私は、彼女の読んでいる小説のタイトルを見て、軽い気持ちで大学の付属図書館でさがしてみた。すると、2階の窓側にずらりと並べられた岩波文庫の中にそのタイトルはあった。

 貸借管理のデジタル化が順次進められている付属図書館であったが、その文庫には図書カードが入っていて、私はきっとこれが彼女の名前だろうと思われる名前を記憶して、そのカードに自身の名前を書き込むと少し胸が高鳴った。


 この状況が少しスタジオジブリ作品の「耳をすませば」に似ていたから。


 この1冊の文庫から何か物語が始まれば……そんな淡い期待の1つもしなかったと言えば嘘になってしまう。


 だが、現実はそんなに甘くはない。雨音を聞きながら文字追っていると、確かに時間は早く過ぎていったが、少しも楽しくはなかった。


 と言うよりも、どうにも岩波文庫が私に合わなかったのだ。


 だから、半分も読み終わらない内に、私はテーブルの上に文庫を投げ出すと、千変万化する情景をぼんやりと見つめていた。


 お手洗いに行った後も、残りのアイスコーヒーをすするでもなく、曇天の下で栄える紫陽花を見ていた。

 そんな折、ふいに雨脚が強くなって、帰りがげだった女性が手に持った傘をあきらめて再び店内に入って行き、また店員の女性と話をはじめた。


 遣らずの雨。 ふっとそんな言葉が頭に浮かんだ。それか口に出なかった、でもその後に、


 「鳴神の 少し響みて さし曇り  雨も降らぬか 君を留めむ」


  気が付くと声に出てしまっていた。


 言い終わってからとても恥ずかしくなって、無意識だったから、きっと、掠れたような聞き取れない声量だった。と、自分自身に言い聞かせてみたり、一様、彼女を気にしてみたり、1人で色々とやっていた。

 

 この歌には、返歌がある。けれど、それを知る人は少ないし、それを歌う機会だって生涯にどれくらいあるだろうか。

 打てば響く。それはきっと奇跡に近いことなんだと、そう諦めていたから、


 「鳴る神の 少し響みて 降らずとも  我は留まらむ 妹し留めば」


 細い声だったが、確かにそう聞こえたときには、心臓が止まるかと思うくらいに驚いた。

 私が彼女の方を見やると、彼女はすでにこちらを向いていて


「だったと思いますけど、あってますか?」と無表情で言うのだった。


 この時、はじめて見た彼女の瞳はとても深くて、吸い込まれそうだった。

 物怖じせず、私の目をじっと見つめる彼女の事を、とても魅力的だと感じたのもこの時がはじめてだった。 

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