第37話 入らないと思ったんだよ

 六回の裏、出見高の攻撃。

 リードのまま次の回のフェアリーズの攻撃を抑えれば勝ちのため、出見高にとっては最後の攻撃のイニングになるかもしれない。

 しかしそれはリードしたまま試合を終えることが条件。

 神子が敵に回った以上、三点差とはいえ、できれば追加点がほしいところだ。


 しかしこの回先頭打者のとおるは、初球の甘い球をあっけなく打ち上げてしまった。当たり損ないの内野フライだ。

 遊撃手の福井が慎重にそれをグラブに収めるのをベンチで見届けた沙織は、椿姫に声をかけた。

「椿姫ちゃん、キャッチボールの相手してくれない?」

「……は?」

 沙織からこうやって話しかけられること自体珍しいので、椿姫が驚いた様子を見せる。

「ていうか、あと一回なんだし、身体を休めてなさいよ」

 椿姫が空を見上げる。相変わらずの炎天下だ。マウンドでは平然としているが、体力は消耗しているだろう。

「うん。でもなんだかじっとしてられなくて……」

「まぁ……その気持ちも分からなくはないけど」

 椿姫だって、似たように身体を動かさないと不安なときもある。

 投球練習のパートナーである葵は、今打席に入っている。そのため、椿姫に声をかけたのだろう。

 椿姫はため息をついてベンチから立ち上がった。


 葵の打席を横目で見ながら、ベンチ横で肩ならしのキャッチボールを始める。ベンチを出たため直射日光が頭から降り注ぐ。

「はぁ……相変わらずね。あんたは暑くないわけ?」

「……えーと。それほど気にならない、かな」

「ふぅん。ところであんた……次の回、わざと一人ランナー出して、神子と勝負しよう、なんて考えていないわよね」

「大丈夫。それはないから」

 ボールと共に返ってきた返答は、ボール同様、素直なものだった。

 沙織が、神子ほどに二人の対戦を望んでいるかは分からないが、少なくとも今の彼女の言葉に嘘は含まれていないことは、椿姫にも分かった。

「まぁそれならいいけど。もし神子と対戦することになったら、二塁方向に打たせなさいよ。全部捕ってあげるから」

「……うん。ありがと」

 緊張した様子だった沙織の表情が、少しだけ緩んだ。



  ☆☆☆


(……珍しいわね。力んでいたのかしら?)

 内野フライに倒れたとおるを思い出しながら、葵は首をひねった。


 とおるはその巨体の割には、おっとりとした性格もあってか無理に引っ張るような打撃はせず、意外と器用なバッティングをする。

 けれど先ほどの打席では無意識かもしれないが、長打を狙うようなスイングだった。彼なりに、もう一点を、という気持ちがあったのだろう。

 ちらりと視線をベンチに移す。

 沙織が椿姫とキャッチボールを始めていた。

(少しでも休んでほしいところだけど、あの子の性格を考えると、難しいのかもしれないわね)

 葵は諦めにも似た気持ちを抱きつつ、バットを構える。

 沙織の疲労も考えて、簡単に三者凡退では終わりたくないところだ。

 かといって、椿姫のようにファールで意図的に粘るようなバッティングはできない。

 だとしたら、素直にヒットで塁に出る。

 相手投手の源も疲労があるのか、簡単にストライクを取りに来た。

 その甘いコースのストレートを、とおるのバッティングを反面教師に、逆らわず右へと打ち返した。


 けれど……

 一塁線を抜けようかという打球が、外野へと転がることはなかった。

 ファーストの神子が飛び込んでグラブに収めたのだ。


 異なるユニフォームのチームメイトに囲まれて笑顔を浮かべる神子を見ながら、葵は大きく息を吐いた。

(……まったく、神子も沙織も勝負を急ぎすぎ)

 ファインプレーで止められた葵は理不尽な八つ当たりだと自覚しつつも、そんなことが頭に浮かんでしまい、思わず苦笑いを浮かべた。



 次の打者の球子も、野球を実際にプレイすることは初心者でも、野球マニアとして試合状況による判断は、チームメイトに負けないくらい把握している。


(沙織お姉さまのためにも、ぎりぎりまで粘って見せるっす!)

 前の打席で、高めのボール球を振って三振に倒れたこともあって、その意識が強かった。


 だがそれは相手バッテリーにも伝わってしまったのか、積極的にストライクを取りに来る。

 そしてボールをひとつ挟んだ四球目で、球子は見逃しの三振に倒れた。


 こうして六回の裏の出見高の攻撃は、それぞれの思いとは裏腹に、あっさりと三者凡退に終わってしまったのだった。



  ☆☆☆



 いよいよ最終回の七回の表。

 この回を二点以内に抑えれば、出見高草野球部の勝利である。

 だがそれぞれが変な重圧がかからないよう、ナインは特に変わらない様子で各々の守備位置へと散っていった。

 ちなみに千代美はライトで、清隆がファーストという前の回からのシフトは継続である。



(……あと三人)

 沙織も意識しないようにと思っていても、やはり意識してしまっていた。

 小学生の頃は、投げ足りず物足りないと思うことの方が多かった。

 さすがに今はそんなこと思わない。

 けれど早く試合を勝って終わらせたいという気持ちがある一方で、この試合の緊張感が終わってしまうことに、寂しさのようなものも感じていた。


 沙織はすぅっと深呼吸してバッターボックスに目を向ける。

 五番打者の与謝野。

 ここまで二打席の印象はそれほどない。

 だからというわけではないが、後三人と逆算して、無意識に力を抑えてしまっていたのかもしれない。

 外へのストレートを、綺麗に右へと打ち返されてしまった。

 沙織は顔をしかめて、打球の方向に目をやる。

 右中間へと高々と上がった打球。またしても千代美が守っている位置だ。

 今度は千代美も打球を追いかけているが、長打は免れないだろうと沙織が覚悟したときだった。

 沙織の視界に、俊足をとばして打球の落下点に入るあんずが飛び込んできた。おそらく葵が外寄りに構えていたのを見て右への打球に備え、あらかじめポジションを変えていたのだろう。

 あんずがしっかりと構えて、打球をグラブに収めた。

 あっさりと落下地点に到達したように見えたが、俊足と状況判断による好プレーだった。

 あまり表情を変えないあんずが、にこっと沙織を力づけるような笑みを浮かべてボールを内野へと返球した。

 マウンドから遠い外野だったけれど、沙織からははっきり見えた。


 あんずのプレーを見て、沙織も気合を入れなおした。

 みんなも頑張っているんだ。自分も全力を出さないと。


 続く六番打者の日高には、強気にストレートで押した。

 先のことを考えず、全力投球。

 チーム最年長の日高も、それに応じるかのように全力で振ってきた。


「ストラーイクっ。バッター、アウト!」

 内角高めストレートで空振り三振を奪う。

 沙織は珍しくガッツポーズをして見せた。


 これでツーアウト。

 この勢いそのままに投げようと思った沙織だったが、バッターボックスに視線を移して、意表を突かれた。



「……ん、これか?」

 葵の視線を受け、左打席に入った源が笑いながら言った。

「両打ちやってるけど、もともと左の方が得意なんでね。あの子のピッチングも左腕として角度があるボールを投げているわけじゃないしな」

「そうね……」

 源の説明に、葵はうなずいた。

 彼が両打ちなのは事前に知らされていた。

 だが左打ちの神子が、彼を師匠と言っているくらいなので、本職は左打ちなのだろう。

 一般的に左対左では、ボールの出所が見にくいため投手の方が有利とされる。しかし沙織の場合、綺麗なオーバースローのため、スリークォーターやサイドスローの投手に比べて、左投手としての恩恵は少ない。決め球のカーブも、横より縦の変化の方が大きい。

 だったら得意な左で勝負、というところか。

 源の意図を考えながら、葵は初球を選択し、サインを送る。

 マウンド上の沙織がこくりとうなずき、いつものようにゆったりとしたフォームから左腕を振るった。

 ボールゾーンからストライクになる落差の大きいカーブ。

 源のバットが大きく空を切った。

 だがそのスイングは、右打席のときより鋭く感じられた。

(……安易にストライクを取りにいったら、危険ね……)

 ツーアウト。

 もう先のことを考えず、彼を最後の打者するためにも、葵はマウンドの沙織と、打席に立つ源の表情を見て、慎重に攻める配球を組み立てた。

 


「ストラーイクっ!」

 外の直球がぎりぎりストライクになる。

 これでツーストライク。ついに追い込んだ。

 審判のコールを聞きながら、沙織は右腕で額の汗を拭った。思ったより汗は出ていない。

 ボールカウントも三つ。自覚はあまりないが、やはり疲労の影響があるのだろうか。際どいコースがボールになってしまっていた。

 それでもツーストライク。あと一球で試合を終わらせることができる。

 沙織はちらりと視線をネクストバッターズサークルに向けた。

 神子がじっと試合を見つめている。感情豊かな普段とは打って変わって無表情で、何を考えているか想像できなかった。

 正直な気持ち、神子と勝負したいという思いがないと言ったら嘘になる。

 とはいえ、優先するべきなのは何よりチームの勝利。それはチームとしてだけではなく、沙織自身の思いでもある。

 だからこそ、ここで試合を決める。

 これも自分と神子との勝負だ。

 この場面を、神子の目の前で試合を終わらせれば、自分の勝ち。


 葵のサインにうなずいた沙織は、精いっぱいのボールを投げ込んだ。 



 ストライクからボールゾーンへ落ちるカーブ。

 ブレーキが利いて、えぐるように鋭く、落差の大きい変化。

 間違いなく、今日、一番のカーブだった。


 だが――

 源はぴくりとも反応せず、確信した様子でそのカーブを見送った。


 ストライクゾーンの下ぎりぎりを落ちていくボールを、地面にミットを付けるようにして収めた葵は、しばらく動けないでいた。


「……前の打席で、カーブを見せすぎたかしら……」

 まさか見切られるとは思ってもいなかった葵の口から、思わず言葉が漏れた。

「まぁ、それもあるけどよ……」

 葵の呟きが耳に入ったのか、源がにやりと笑って答えた。

「何となくだけどさ……入らないと思ったんだよ」

 源の視線は、マウンドの沙織に向いて、続いてネクストバッターズサークルにいる神子に向いた。

「……なるほどね」

 マウンドの沙織は、四球に一瞬悔しそうにしたが、今はそのような表情を見せず、ただじっとネクストバッターズサークルを凝視していた。

 神子の方も一瞬嬉しそうな笑みを浮かべたが、今は沙織と同じように、じっとマウンド上を見つめながら、ゆっくりと立ち上がった。




「って、おおっっっと!」

 急に源が大きな声を出した。


「一塁まで歩こうとして足を挫いてしまったかなー。こりゃ、クイックじゃなくても盗塁できそうにもないやー」

 マウンドまで聞こえるような声で、源が言った。

 葵は苦笑する。

 フェアリーズのベンチも同じような反応を見せる。誰も源の方へ治療に行こうとはしなかった。

 主審も呆れ気味である。


 ただマウンドの沙織だけが、帽子のつばに手をやって、小さく頭を下げた。





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