第15話 十二人の怒れる福沢諭吉

 まるっきり予想外のことだったけど。私が登録してから今日までの十日足らずの間に、諭吉さんが十二人に増えた。ただ、彼らが机の上に鎮座したままになってるということが、私の置かれている中途半端な状況をくっきり象徴している。正直もどかしいのは確かだ。もっと短期間にさくさく状況を変えていきたいんだけど、鶏小屋から出ること自体まだ仮免許に近い。母が私に公式に認めているのは『散歩』だけで、その名目が実態と違うのがばれたら、また幽閉が始まるだろう。冗談じゃない!


 鶏小屋へ戻されないようにするためには、私が『物理的に』小屋を出るだけじゃなくて、戻れないよう小屋そのものを破壊しないとならない。それを実行するにはどうしても下準備がいる。そして、現時点ではまだ全ての準備は整っていない。そこを具体的にどうするかが、埋められていないピースなんだよなあ……。

 どうしても欠かせないのが、職と鶏小屋以外の住居だ。どちらも、学歴が全て空欄の私には容易に確保できない。だから今回レンタル屋への登録をすることで、なんとかして鶏小屋メンバー以外のコネクションを作れないかと目論んでいたんだ。必ずしも馴化だけじゃないプログラムの目的。それは、新しいコネクションの確保だったんだよね。


 私の意図は、決して売れっ子ではない準ホストのお兄さんたちがレンタル稼業でパトロンを探そうとするのと何も変わらない。私と彼らとの違いがあるとすれば、経済的な見返りと期待度の大きさの差だけだろう。

 私は大金は要らない。そういう欲は一切ない。でも、職と住居の確保に必要な縁はどうしても欲しい。多くの登録者と異なる私の目論見は、どうしてもプロフから透けて見えてしまう。だから私へアプローチしてきたのが、他の登録者にはアクセスしそうにない人たちばかりだったんだ。


 自分の容姿やサービス精神を売りにする登録者がほとんどなのに、私の登録情報は『そういう枠には入らないよ』という斜に構えたものだった。私をレンタルした人たちは、私のいい加減なプロフなんか見ないで、写真の印象だけで呼び付けたんだろう。どういう印象か。気力や体力の乏しい軟弱な男……ってことなんだろなあ。自分がそういう印象を持たれるというのはあらかじめ分かってたし、そういうアプローチが来るだろうと予想はしてた。予想外だったのは、ゲイやバイ系の指名がなかったこと。もしあったら、それをさばくのが一番厄介だったかもしれない。


 おっと。思考が脱線したけど、とりあえず私が誰からも隠していた目標は半分だけ達成された。そう、中里さんから店舗の方の店員やらんかというアプローチをしてもらえたこと。それはものすごくラッキーだった。でも、残る半分がなあ。私が住めそうな鶏小屋以外の住居の確保。それが死ぬほど難しいんだ。手元資金がなく、保証人もなく、不動産屋さんとの交渉手段もない。無い無い尽くしの三重苦だ。はあ……。


 もちろん、現時点で母に実家の外で暮らしたいと言おうものなら、鶏小屋どころか地下牢に幽閉されかねない。実力行使するには、完璧に独立のお膳立てをしておかないとだめなんだ。まあ、今はまだしょうがない。焦りはあるけど、ここで暴発したらすべてがおじゃんだ。魂胆を隠して、コネクションを地道に増やしていくしかないよね。


「さてと」


 次のプログラムは、すぐには組めない。でも中里さんの誘いを受けるためには、私を縛り続けている強い時間的拘束をどうしても解消しないとならない。これからは、二時間プラスアルファなんていう短い時間じゃ動けなくなるからね。そのためには、母の説得材料……ってか、母を押し返せる強力な切り札が要る。それがただの掛け捨て保険で終わってくれるのが一番嬉しいんだけど、多分そうはいかないだろうなあ。まあ、いい。手続きを急ごう。午前中にやっつけちゃおう。


「母さん、出かけるわ」

「また散歩?」

「そう。昼前に戻るよ」

「……そう」


 母の顔に露骨な警戒の色が浮かび始めた。あーあ、そろそろ潮時だよなあ。


◇ ◇ ◇


「ただいま」


 午前中、慌ただしく数カ所の施設を回って、私が予想したことの裏付け作業と、書類の確保を済ませた。ただ、手にした茶封筒の中身は取り出されないで済むことが一番で、これを公開するには私に相当の覚悟がいる。出来れば穏便に済ませたい。でもそれが可能かどうかは、今後の展開次第なんだ。


「おかえり」


 私をちらっと横目で見た母は、無言のまま昼食をテーブルに並べた。席に着いた私は、いつものようにそれを食べ始める。


「るい。おいしい?」

「おいしいよ。この酢の物以外は」

「あれ? 酢の物嫌いだったっけ?」

「いや、『この酢の物』がだめなんだ」


 ワカメと筍を黄身酢で和えたやつ。私の好物だよ。変なものが入っていない限りね。平静を装っていた母だけど、私の予想外の返事に明らかにうろたえている。母さん、もう無理だって。


 あのね、母さん。私はもう小さな子供じゃない。いくら私の体格が貧相だって言っても、背丈も体重も母さんを上回っている。脅しや泣き落としで私を鶏小屋に押し込めておくのは、もう無理なんだよ。それを知ってるのに、なんで私が鶏小屋を出られなかったか。もちろん、生活基盤を失ってしまうっていう恐怖はあった。でもそれだけじゃない。私がある年齢に達して以降、定期的かつ強制的に私の意識がある地点まで巻き戻されるイベントが入ってたんだ。私は庇護されないと生きていけない、鶏小屋を出られないという強い暗示をかけるイベントがね。


 そんなこと、母さんに出来る? 出来るわけないよ。それは『彼』にしか出来ないんだ。私は前回のイベントの時にそれに気付いて、それを回避出来るよう慎重に備えていた。だから手術を受けることが可能だったし、馴化のプログラムも自力で組めたんだ。

 もちろん『彼』が徹底的に私を抑え込もうと思えば、それは可能だっただろう。でも、私といる時間が限定されている『彼』が短時間でそれをこなすのは至難の技さ。しかも、『彼』のポジションは私と母の中間に位置する。自分をそこにしか置きようがない。今のような流れになるのは必然だったと思う。


「ごちそうさま」

「おそまつさま。このあとは?」

「部屋にいるよ」

「ああ、そう。植田さんはいつもの時間より少し早く見えるって」

「分かった」


 そうさ。何もかもいっぺんには出来ない。それでも、私の位置を少しずつニュートラルに移すこと。それは叶ってる。そして、母も『彼』も、それは容認せざるを得ないだろう。今までかかって、やっとそこまで持ってこれたってことだ。はあ……。


◇ ◇ ◇


 部屋に戻って、スマホを見る。ショップへの登録から今日までの間に私の想定をはるかに上回る急激なアクセスがあって。でも、それはなんとかこなしてきた。こなしたのはいいんだけど、本来一過性の接触が本当にそれきりで終わるかどうかが不安材料だったんだ。

 なぜ? そりゃそうさ。私はこれまで誰のリクエストにも応えてないもん。拒絶もはぐらかしもごまかしも何でもありで、相手のアプローチを全部回避してきたんだ。それは私には当然のことであっても、お客さんにとっては義務の不履行だろう。


 私が机の上に並べている十二人の諭吉さんの表情も険しい。俺をやすやすと手に入れたと思ってるのか? これで済むと思うなよ! そう言いたそうな、怒りの表情だ。そういう私の強い懸念を裏付けるかのように。手にしていたスマホが鳴った。これまでよりも派手で強いトーン。私には……そう聞こえたんだ。


「ああ、ルイか?」

「どうしたんですか? 店長?」

「えらいことになった!」

「は?」


 中里さんは、怒るでも苦り切るでもなく、本当に慌てていた。


「昨日の夜にな、あんたの登録を外したんや」

「ええ。ありがとうございます」

「ほしたらな」

「はい?」

「あんたが取った客全員。うちに押しかけて来たんや!」

「ええええええええっ!?」

「あのな、あんたの乾いた態度に突っ込み切れへんかった連中が、次のチャンスを狙っとったんやろ。でも、あんたがとんずらこいたと激怒しとるんや」

「するもやめるも私の勝手じゃないですか。そんなの知りませんよう」

「せやな。そん通りや。せやけど、こないまとめて客ぅ怒らすと、俺の商売に差し障るんや。頼む! 助けてくれ!」


 ううう。でも、中里さんには、このあと店舗の方で雇用してもらわないとならない。私に他の選択肢があるなら断固断るけど。


「そうですね……」


 これが、十二人の怒れる諭吉ってことか。それなら、私も覚悟を決めないとならない。怒りには、怒りで返そう。それをこなせなければ、私にはもう未来がない。本当に死で締めくくるしかなくなる。そんなのはまっぴらだ!


 こんこん。ドアをノックする音に続いて、母がひょいと顔を出した。


「るい。植田さんが見えたわよ」

「ほい」


 母を押しのけるようにして、植田さんが部屋に入ってきた。


「今日は早いんですね」


 植田さんは、険しい表情で私の眼前に顔を突き出した。


「僕のトラップを見抜いたんだろ?」

「もうずっと前からですよ」

「そうか」

「ちょうどいいや。けりをつけましょう」

「え?」


 植田さんと母が、顔を見合わせてほけた。


「植田さんには、ずっと話をしてありましたよね? 私が馴化プログラムを組んで、それを動かしてるって」

「ああ」

「でも、それが具体的にどういう方法かは明かしてなかった」

「一、二日中にはオープンにするって言ってただろ?」

「そうです。これから手札を開けます。二人とも、私に付いてきてください」


 あっけに取られている二人を突き飛ばすようにして、私は部屋を出た。


「ちょ、ちょっと、るい! どういうことよっ!」

「来れば分かるって」


 ぐずぐずして、植田さんに足止めを実力行使されるのは困る。私は人目のある場所に早く出たかった。切り札を入れたデイパックとスマホ。十二人の諭吉の入った財布。持っていくのはそれだけで十分だ。さっと階下に走り降りて、逃げるように家を出た。


 バイ! 鶏小屋。私はもうここに戻ってこないよ。二度と! どんなことがあっても、ね。


 ものすごく慌てた様子で、二人が私を追いかけてきた。二人に捕まらないよう、でも二人が私を見失わないよう、距離と歩調を調整して。私は……ショップに向かった。歩きながら、まだ切っていなかった電話に出る。


「店長? ルイです」

「なんやなんや、なんか騒がしかったけど、大丈夫か?」

「ええ。今、もうそちらに向かってます」

「おお! 助かる! 済まんな」

「今までの、全員ですか?」

「全員や。柳谷のじじい、メリー、トム、嘘つきのばばあ。ジェニーとその連れ二人。あんたの先生」


 そうか。それに中里さんと母、植田さん、そして私……か。


「はははっ!」


 思わず、笑いが口からにょっきりはみ出た。なあ、諭吉さん。あんたと同じ十二人だってさ。その誰もが怒ってる。あんたと同じようにね。

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