屍体とシタイ女(一)

 ジェイコブ・A・ベイカーは、地につかない足どりで重たい革靴を引きずっていた。

 朝から陰鬱な雨が降っていた。

 空には暗色の雲が低くたれ込め、濡れた路面が刻々と変わりゆく信号機の色を物憂げに映しだしている。

 あの横断歩道の手前で引き返そう、次の角へ差し掛かったら進路とは反対方向へ折れてしまおう、自分のなかにある理性がそう促すのだけれど、まるで足だけが独立した生きもののように意思に背いて、着実に目的地をめざしている。

 傘の先から垂れるしずくをぼんやり見つめながら、ジェイコブは昨日出会った男のことを考えていた。

 今思い出しても気味の悪い男だった――。


 ジェイコブは今年で三十五歳。小さな町工場で、営業の責任者として働いていた。働いていたというのは、つまり過去の話ということだ。

 戦後ペーシュダードの経済を襲ったのは激しいインフレだった。とくに原材料費の高騰によって製造業は大打撃をこうむった。ジェイコブの勤めていた町工場も例外ではなく、もともと体力のなかったその会社は政治家たちが選挙へ向けて景気対策をほのめかしているあいだに、あっけなく潰れてしまった。その結果、営業というつぶしの効かない職種を安穏と生きてきた彼は、裸同然で社会へ放り出されるかたちとなった。ペーシュダードの国自体が不景気ということもあって、再就職はおぼつかない。苦し紛れに土木工事の人夫などもしてみたが、長年のデスクワークでなまりきったからだでは到底勤まるものではなかった。

 収入が激減したこともあって、彼の妻は愛想を尽かせ子どもを連れて家を出ていった。出ていくとき、彼女は夫に内緒で多額の借金をした。名義はもちろんジェイコブだ。ひとり残されたジェイコブは、職も定まらないまま膨大な借金を背負う羽目になった。やがて途方にくれた彼は自暴自棄になり、アルコールに溺れはじめ、夜ごとゾンビのようにフラフラと繁華街をさまよい歩くようになった。

 男と出会ったのは、そんなときだ。

 いつものように酒場で安酒をあおっていると、異様な風体の男がのっそりとバーの扉をくぐってきた。木枯らしのようなビル風が店内に吹き込み、ジェイコブはその珍客を横目で盗み見ながらブルっと身震いした。修道士の着るようなフードつきのローブを身にまとっている。男はゆっくり酒場のなかを見まわすと、やがてジェイコブのいるカウンター席へと近づいてきた。

 場末のうらぶれた酒場は、客のすがたもまばらで席はガラガラだった。この男はどうしてわざわざ自分のとなりに座るのだろう。そう訝しんでいると、男は目のまえのバーテンダーを無視していきなりジェコブに話しかけてきた。

「景気はどうだね?」

 酒でのどを潰したジャズシンガーのようなガラガラ声だった。

「……まあ見てのとおりさ。羽振りが良けりゃ土曜の夜にこんなところでトリスのハイボールなんか飲んじゃいない」

 慎重に答えを返しながら、ジェイコブはフードにかくされた男の表情を読み取ろうと努力した。しかしバーの照明は暗く、男の顔は老木にぽっかり空いたウロのように闇に沈んで見えるだけだった。

 しばしの沈黙が流れ、それに耐えきれなくなったジェイコブのほうから話を切り出した。

「あの……もしかして俺になにか用でもあるのかい?」

 男はカウンターに両ひじをついて指を組みながら言った。

「じつは君に金になる良い仕事を紹介したいんだ」

 ああ、こいつは人夫出しや手配師のたぐいか、とジェイコブは納得した。人夫出しとは、土建や解体などの業者へ非合法に労務者を斡旋する者たちのことをいう。そのほとんどがヤクザで、労賃の上前をはねて暴利をむさぼっている。この男の近寄りがたく剣呑な雰囲気も、それならば理解できると彼は思った。

「悪いが、あまり丈夫なたちではなくてね。一度だけビルの建設現場で日雇いの仕事をしたことがあるけど、安い賃金のわりに仕事がきつくてすぐにヤメたよ」

「いや、私はその手の人材斡旋業者ではない。仕事もただ座っているだけで勤まるような簡単なものだ。それで日給として三万ルーブルが支払われる」

「三万ルーブルだって!」

 ジェイコブは驚愕した。高級クラブに勤める売れっ子のホステスでさえそんなには稼げない。

「……やばい仕事じゃないだろうね。俺は人工透析を受けていたおかげで兵役を免除されている。だから銃なんか触ったこともないよ」

「荒っぽい仕事をする人間なら他にいくらでもいる。わざわざ君に声をかけたりはしない」

 思わせぶりな男の態度にジェイコブはしだいに腹が立ってきた。

「じゃあ試しにその仕事の内容とやらを聞かせてくれよ。ただ座っているだけで日に三万ルーブルだって? 例えアメリカンジョークにしても、ぜひ話のオチまでうかがいたいもんだね」

 男がわずかに顔を向けてきた。とたんに精肉加工場の排水溝のような腐臭がただよってきて、ジェイコブは思わず顔をしかめた。

「君は、死体洗いのアルバイトという話を知っているかね?」

「死体洗い? ああ、医学生が解剖につかう献体をホルマリンのプールへ沈めるってやつだろ。それなら聞いたことあるが、しかしあれは単なる都市伝説で……」

「いや実際にあるのだよ、その死体洗いの仕事というのがね。もっとも大学の医学部などではなく、連邦陸軍が管理するモルグ施設での話だが」

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