危険なふたり(一)

 母親の容態が急変したと知らせがあったのは、すでに夜の十時をだいぶ過ぎたころだった。

 女は逡巡したが、すぐにセーターに着がえ薄手のコートをはおった。身につけるものはすべて、人目につきにくい暗めの色のものを選んだ。健康保険証と預金通帳それに印鑑をハンドバッグに入れ、途中で思いなおして通帳と印鑑は押入れの金庫へ戻した。かわりにカーペットをはぐって、そこへ隠してあった紙幣をぜんぶ財布のなかへ詰め込む。

 本棚に飾られた写真立てのなかで軍人だった父親が微笑んでいた。女はひざまづいて、そっと祈りを捧げた。

「どうか、お母さんを守って……」

 ガスの元栓をチェックして鍵をひったくると、そのままアパートを飛び出した。外へ出ると、日中の暖かさが嘘のように冷え込んでいて、吐く息が白くうねった。アパートのまえの通りには人影はなかった。コートの襟をかき合わせ、映画撮影のセットのように生活感が希薄になってしまった夜の住宅街を、一気に駆け出した。

 広い通りへ出ても車は一台も走っていなかった。もちろんタクシーを拾うことなどできない。たまに思い出したように軍の車両が走り過ぎてゆくが、そのたびに女は電柱の陰や民家の塀に身を隠さねばならなかった。

――属国人民ハ、許可無ク外出スル事、此レヲ禁ズル

 ラゴス軍占領下のペーシュダードには戒厳令が布かれ、一般市民による夜間の外出は固く禁じられていた。見つかったら憲兵に尋問され、ヘタをすれば投獄されてしまうかもしれない。そうなったら母親とはもう一生会えないだろう。

 女は身をちぢめ、なるべく街灯の光がとどかない舗道のすみを選んで小走りに駆けた。がらんどうの夜の街に、空き缶が風に吹かれるカラコロという音だけがむなしく反響した。

 女の母親が入院する国立病院は、街の中心部から少し外れた川の縁にあった。一ヶ月ほど前、交通事故にあってそこへ運び込まれたのだ。相手はラゴス駐留軍の兵士だった。その日非番だった彼は、軍敷地内のバーで飲んだあと、歓楽街へ向かうべくひとりジープを走らせていた。軍の人間なので検問所のある位置は把握している。飲酒運転は見つかったら厳罰に処されるため、メインストリートを避けてゴミゴミした住宅街へと入っていった。女の母親をはねたのは、ちょうどジープを路地へ乗り入れようとしたときだった。

 道路へ叩きつけられた母親は、頭蓋骨陥没の重傷を負った。兵士はそのまま逃走したが、やがて軍警察に逮捕された。

 拘留七日間。

 それが軍法に照らして兵士に科せられた量刑だった。ばかばかしいほど軽い刑だ。しかも罪状は、ジープを壊したことによる軍用物破損。ペーシュダード市民への傷害は一切罪に問われなかったのだ。

 女は走りながら唇を噛んだ。

 国王が降伏してしまった以上、ラゴス軍の悪行を糾弾する方法はない。

 川に沿ってのびる幹線道路を進んでゆくと、やがて遥か先のほうに大きな交差点が見えてきた。そこへバリケードが張られ、歩哨の兵士が配置されている。ラゴス駐留軍の検問所だ。不審車両を取り締まるのが目的だが、もちろん徒歩で母親の病院へ向かう途中の一般市民であっても見逃してはくれない。

 女は少し迷ってから土手を川のほうへと降りていった。橋の下をくぐれば、検問の目をかすめて交差点の向こう側へ抜けられる。

 川べりのプロムナードは明かりもなく、両わきには背の高い雑草がこんもりと生い茂っていた。

 水量ゆたかな川は流れが速く、低くうねるような水音を奏でている。

 一歩橋の下へ入ると、闇がひときわ濃くなった。

 その闇のなかにひとの気配を感じ、女はふと足を止めた。息を殺し辺りをうかがう。からかうような口笛と、男の低い忍び笑いが聞こえてきた。

「……だれ?」

 とっさに身をひるがえそうとしたが、だれかに腕を掴まれてしまった。

「こんな遅い時間にどこかへお出かけですかァ?」

 背の高い男がニヤニヤしながら女を見下ろしていた。派手なハワイアンシャツを着ている。

「ちょっと、離してくださいっ」

 女が暴れると、同じような格好をした男たちが、草陰からバラバラと飛び出してきた。

――ガリヤ人だ。

 そう直感して、女の顔が引きつった。ラゴス兵も怖いが、ガリヤ人たちの凶悪さはその比ではない。彼らは道理にかなわぬ行動をするばかりか、慈悲をまったく持ち合わせていなかった。ひたすらおのれの欲望に忠実に生きる、それがガリヤ人だ。

 ためらったのは一瞬だった。女は橋の上にいるラゴス兵に助けを求めるべく息を吸い込んだ。ガリヤ人に拉致されるくらいなら、憲兵に拘束されたほうがマシだと思ったのだ。

 しかし悲鳴をあげることなく女はその場にくずおれた。拳を受けた腹を押さえ、苦しみ悶える。そのまま男たちに猿轡を咬まされ、手足を縛りあげられた。

「へへっ、今夜はついてるぜ。こっちで拐いに行かなくても、女のほうから飛び込んでくるとはな」

「ラ助に見つかるとやばい、さっさとあそこへ連れ込もうぜ」

 暴れる女を数人で抱えあげ、そこから二百メートルほど離れた小屋へと運び込んだ。水質管理を目的に建てられた監視小屋で、ふつうの平屋建て住宅ほどの大きさがある。正面には頑丈な鉄の扉があり、本来は施錠してあるのだが、その鍵は男たちによってすでに壊されていた。

 重たい扉を引き開けて、なかへ勢いよく女を放り込んだ。にぶい音がして、くぐもった悲鳴が漏れる。

 小屋に明かりはなかった。男たちは手に手に懐中電灯を取り出し、そのうちのひとりが扉のわきに置いてあったランタンに火を入れた。明かりがともり、徐々に室内の様子が薄ぼんやりと照らし出されてゆく。

 正面に、防災用の備品を収めた大きなコンテナがあった。

 そのてっぺんから白い足が四本、暇をもて余すようにブラブラと揺れていた。

 とつぜん天井の暗がりから、美少女アニメの声優のようなキンキン耳に響く声が降ってきた。

「あんたら遅かったじゃないのよゥー、もう待ちくたびれちゃったんだから」

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