第14話 お金を刷れば税金はいらない?

 中央銀行設立から1か月が経ちました。

 まだ僕たちは、魔王府の倉庫に間借りして働いています。中央銀行本店の建設は進んでいるのですが、そちらが使えるようになるにはしばらく時間がかかりそうです。


 それでも、中央銀行の立ち上げ自体は、予想していたよりもはるかに順調に進んだと言えます。


 クリオは当初、金本位制脱却の発表と同時に、投資家たちが一斉にモルドを売り浴びせ、これをきっかけとして国庫の金が枯渇する事態を危惧していました。

 しかし、結局金本位制離脱後も“売り浴びせ”は起こらず、管理通貨制度への移行は無事――レミ姉の言葉を借りれば「静かに」――達成されたのです。


 設立に伴って副総裁に任命されたデヴィッド・ギルモア氏は、僕にこう教えてくれました。


「帝国の人間を除けば、レミリア・ギルモアは、現在考えられる世界最高の銀行家です。投資家たちは彼女を恐れています。なにか仕掛けがあるのではないかと。ただ、安心はできません。ひとつ弱みを見せれば、彼らはそこにつけ込んでくるでしょう」


 そうして、彼はこうも言いました。


「重要なのは、何が起こってもすべて“想定済み”で“対策がある”と思わせることです。投資家たちが恐れるのは、全力で賭けに出たときに、予想外の反撃に遭ってそれが裏目に出ることです。だから、すべてに反撃の準備があると思わせておくことが大切なのです」


 とはいえ、僕やベベにとって、金本位制離脱前後の緊張は、胃が痛くなるほどのものでした。

 ようやく状況が落ち着いたところで、僕はクリオにこう聞きました。


「クリオ、中央銀行の仕事というのは、こんなにハラハラするものなのですか? 他の省庁の仕事とは、まるで異質な感じというか……」


 クリオは笑って答えます。


「そうですね、中央銀行の最大の役割は、物価の安定であり、金融危機のような市場の極端な不安定化を起こさないこと、もし起こってしまった場合は早期にそれを収束させることです。そのためには、投資家たちの思惑と対峙することも必要ですし、市場の動きに敏感でなくてはなりません。政策を煮詰めて展開していく省庁のお仕事とは、だいぶ性質が違うかもしれません」


 それから、クリオはこう言いました。


「でも、中央銀行の役割はもう一つあります。今回制定された中央銀行法において、中央銀行は『物価の安定』に加えてもう一つ、『雇用の最大化』に責任をもつことを明記しています。今度はこちらをなんとかしたいですね。エテルナ様のところに行きましょうか」


 そうして、僕たちはエテルナ様に献策に上がったのでした。




「エテルナ様、中央銀行総裁室より献策に参りました」


 魔王執務室の扉が、僕の声に応じて、エテルナ様の声を伝えます。


「ああ、待たせてしまってすまない。入ってくれ」


 エテルナ様は僕たち以上にご多忙で、なかなか時間が取れず、執務室に僕たちが訪れたのは、結局、夜になってからでした。


「エテルナ様、お体お変わりありませんか? どうぞ、ベベの実家から送られてきたクッキーです。甘くて、心が落ち着きます」


 クリオが、かわいらしいクッキーを差し出しながら、疲れた顔のエテルナ様をねぎらいます。


「ありがとう、クリオ。どうも気を張る仕事が多くてね。来てくれてうれしい。どんな話かな?」


 エテルナ様の表情が、少し和らぎました。

 クリオが、献策の趣旨を伝えます。


「現在、金本位制からの離脱による貨幣価値の変動はひとまず落ち着き、ようやく、構想時に想定した金融緩和が可能となった状況です。中央銀行による金融緩和の実施を提案いたします」


 エテルナ様はうなずいて言いました。


「金本位制からの離脱については、私もレミリアから聞いて納得したものの、これは危機を回避する手段であって、国の状況が劇的に良くなるような政策とは思えなかった。中央銀行には、金本位制離脱のほかにも、できることがあるのか?」


 クリオが穏やかに答えます。


「レミリア様が閣議の場でおっしゃった金本位制によるマイナス面の回避は、管理通貨制度移行における、言わば消極的な利点です。これから私たちが行うのは、積極的な利点の活用。つまり、管理通貨制度に移行したことによって可能になった、自由な金融政策を行っていこうと思うのです」


 エテルナ様はこの言葉に、ちょっと首を傾げて尋ねます。


「自由な金融政策?」


「はい。現在、魔物の国は長期的なデフレ状況にあります。デフレが長期化することにより、民間の投資意欲は減退し、結果、経済活動は停滞します。中央銀行としては、このデフレ傾向を転換し、『これからインフレになるかも』という予想を人々に抱かせることで、景気の波を変えていきたいのです」


 インフレとデフレについては、僕もエテルナ様も学習済みです。

 お金の価値が下がり、物の値段が高くなるのがインフレ。

 魔物の国は、逆にお金の価値が上がり、物が安くなっているデフレの状態にあるのでした。


「あえてインフレにするのか?」


 エテルナ様の問いに、クリオが答えます。


「はい。急激なインフレは危険ですが、緩やかなインフレはむしろ経済を成長させる追い風になります。中央銀行の政策としては、約2%のインフレを目指す、『インフレターゲット』を行いたいと思うのです。本日はこのご許可をいただきに参りました」


 エテルナ様はちょっとおびえたように、クリオに尋ねます。


「ええと……インフレにすると、どんないいことがあるんだ?」


「現在、魔物の国の景気が停滞しているのは、人々の多くがお金を使わず、貯めているからです。その理由としては、将来への不安だったり、買いたいものがなかったり、いろいろですが、インフレになると、貯めているお金は放っておくと価値が下がります。すると、財産価値が下がるのを恐れて、みんながお金を投資に回すようになります。これによって景気が上向くと考えられます」


「どうすればインフレにできる?」


 エテルナ様の質問に、クリオが指を立てて答えます。


「ふたつの施策が必要です。まず、金融緩和。つまり、たくさんのお金を発行することです。これは中央銀行の機能で行えます。同時に、発行したお金を人々に効果的に流していくために、機を合わせた財政政策を行うのです」


 このクリオの言葉に、エテルナ様が困り顔で答えます。


「財政政策と言っても、この国の財政には余裕がないぞ」


 この言葉に、クリオはにこやかに答えます。


「金融緩和で余裕が生まれます。政府が発行する長期国債を、中央銀行が新たに発行したお金で購入しますから」


 クリオが言うには、中央銀行が発行したお金で国から国債を買い、それを資金にして財政政策が可能になるということでした。

 もっとも、先日制定した中央銀行法では、財政規律上の観点から、中央銀行が政府から直接国債を購入することを禁止していますから、中央銀行は市中の民間銀行から国債を購入することになります。


「しかし、貨幣を発行することで財政が潤うなら、極端な話、税金などいらなくなるのではないか? そんなことが可能なのか?」


 エテルナ様の疑問は当然のもののように思われました。

 クリオはいつものように柔らかな調子で答えます。


「まず、何につけても重要なのは、『ものは多くなると安くなる』ということです。これはお金も同じです。お金を刷れば刷るほど、お金の価値は安くなります。つまり、インフレになるのです」


 僕とエテルナ様がうなずきました。

 クリオは微笑んで続けます。


「通貨の発行によってインフレ率が上昇しますから、永続的に通貨を発行して財政をまかなうことはできません。通貨を発行し続ければ、それはいつか紙切れになってしまうわけです。食堂でお昼を食べるために、馬車いっぱいのモルドが必要になるわけですね。もちろん発行するお金の価値が下がるだけでなく、国民が今持っているお金の価値が毀損されてしまうことにも、留意しておかなくてはいけません」


 なるほど、たしかにインフレになるとお金の価値が下がるわけですから、たくさんお金をもっている人にとっては、損になってしまいます。そうした人々はお金を発行することに反対するでしょうから、あまり極端な金融緩和は、政治的に難しい部分もあるでしょう。


「ただ、現状では物価の下落、すなわち通貨価値の高騰が問題になっているため、これを抑制する範囲、つまり通貨が適切な価値になるまでは、通貨を発行することによる財政的な恩恵を受けることができるのです」


 聞いてみると、意外に話は単純でした。

 おおざっぱに言えば、物価が国民の生活を脅かさない程度に安定している範囲では、貨幣を発行して国債を引き受け、その分のお金で財政政策を実施できるというわけです。


「とはいえ、この財政的恩恵をそのまま国庫にしまい込んでおくわけにはいきません。金融緩和は、中央銀行を通じて市中の民間銀行にお金を流す政策ですが、銀行からその先にお金が流れていかないと、十分な景気回復の効果を発揮することができないからです。つまり、お金という水の流れる先をつくってあげることが必要なのです。それを財政政策でつくり出すのです」


 エテルナ様はしばらく腕を組んで考えてから、口を開きました。


「わかった。中央銀行の権限で可能な範囲の政策の実施については、すべてクリオに任せる。財政政策については、どんな政策が望ましいだろう?」


 クリオがちょこんと頭を下げて言います。


「ありがとうございます。金融緩和施策については、具体案をまとめて後ほどご提出いたします。また、財政施策につきましては、政府の投資に引きずられて民間の投資が進むような政策であれば、どのようなものでもかまいませんが、できるだけ中・低所得層に直接効果のある政策が望ましいでしょう」


 クリオの答えを受けて、エテルナ様は机の中をごそごそと漁り、一束の書類を引っ張り出しました。


「昨年度、予算が取れず廃案になったのだけれど、穀物生産の盛んなアルサム地方から、北部戦線の主要基地にまで至る、長い魔力路を整備する計画があるんだ。もし予算に余裕が生まれるなら、これを実施したい」


 クリオはざっと書類に目を通しながら答えます。


「よいと思います。まず、魔力路建設の公共工事が雇用政策になります。中期的には兵站コストを軽減することができますし、長期的に見れば、戦争が終結した後も、通商路として活用することができるでしょう。主要な都市を結んで駅をつくることで、その周辺への投資を活性化することができると思います。気になる点としては、恩恵の少ない南部・東部地域へのケアが必要かと思われますが」


「わかった。叔父上と相談して、実施に向けて動こう」


 こうして、僕たち魔物の国の中央銀行は、金本位制の離脱から、自律的な金融政策の実施へと、歩を進めたのです。

 しかし、このときはまだ、もうすぐ国が別の形で急激な変化に見舞われることを、僕も、クリオも、予想だにしていなかったのです。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る