第四章 星に降る

 人間の持てる欲求については、蒸気機関はおろかはんせんすら惑星上に姿を見せぬはるか昔から、哲学者たちがその分類に血力をそそぎ、自らの主張の正当性をうったえ続けてやまなかった。星雲の数ほどもあるそれらの欲求論のなかに共通して存在し、漆黒の空間を漂流する遭難船の中でもただひとつ無制限に満たせる欲求が、睡眠欲であった。

 欲求を満たすことが全ての人間に生まれながらにして与えられた権利であるとするなら、遭難船のサブ・ナビゲーター席を占めるその人物は、その権利を全力を挙げて行使している最中であった。


「おい、起きろ、起きろ!」


 この寝付きが非常に良く寝起きが非常に悪い黒赤髪の生物科学少佐は、睡眠に関連して親友に迷惑をかけることについて、数々のかがやかしい実績をもっていた。となりの操縦席に座をおいている親友が段階を踏まずに最初から容赦の無い音量をあびせかけたのは、それらの過去の栄光にたいして相当の敬意をはらい、無益な努力を回避した結果である。

 ところが、というかやはり、というべきか、眠りの深い谷底に落下してしまっているらしいその生物科学少佐から返事はなく、ただ身体を半回転させたのが唯一の反応であった。これほどまで寝てなどいられない状況であるはずだが、強心臓なのか無神経なのか、お構いなしに上質な幸福を消費することに集中しているらしい。


 とはいえ起こさないわけにもいかなかったので、どのような強硬手段で親友に憑依した睡魔を駆逐してやろうかと濃茶髪の友人が思案していると、防衛本能がはたらいたのか、その人物は急に自力でその魔物を追い払って、上半身を起きあがらせた。もっとも、十分すぎるほどに眠気のもやをまとってはいたが。


「ん…どしたの…?」


 アイリィは心の中で大きな溜め息をついたが行動には出さず、かわりにげんそうの外に視線を移していった。


「見ろよ、あれを」

「これは…」


 シュティは息をのんだ。脱出艇の舷側に取り付けられた丸い窓の外に見えたものは、惑星――それも広大な青い海と十分な厚さの大気層、それに緑にいろどられた大地をもつ、生命の可能性にみちあふれた星であった。


我星ガイア、じゃないよね…」


 彼女が錯覚したのも無理はなかった。可住惑星は我星政府の統治が及ぶ宙域全体で五〇を数えるが、そのすべてが人類の居住地としてはじめから十全の条件をそなえていたわけではない。たとえば、ある惑星には植物が先住せず、他の惑星には水が氷としてのみ存在し、またある惑星では有害な宇宙線を遮断するのに十分な大気圏をそなえていなかった。そういった障害は、長いときは数十年にもおよぶ居住適正化作業テラ・フオーミングをほどこしてとりのぞくことになるのだが、それでも海の広さ、大気の厚さなどを人間の生命活動にとって満足たるまでに調整することはいまの科学では難しく、他の機械技術などでカバーしているのが現状なのだ。


 そのような助力を必要とせず、水と大気と植物のすべてを高水準でそなえている惑星は、我星本星をふくめて片手の指の数しか存在しない。まだ外観でしか把握していない段階ではあるが、これほどまでに条件のととのった未知の惑星と遭遇することは、それ自体が奇跡に近いのである。


「我星ではないね、残念ながら。というか有人惑星じゃない」


 奇跡の出逢いを演出した操舵手パイロツトの返事はそうだったが、一瞬後にはシュティもその事実を理解していた。有人惑星なら必ず衛星軌道に存在するはずの宇宙港や多数の人工衛星が、この惑星には存在していない。



 あることに気付いて、寝坊常習犯はとなりの親友に尋ねた。


「私、ひょっとしてものすごく長い時間寝てた…?」

「十三時間ぐらいだね」


 の常連であるその親友は、特に何の感情も込めるわけでもなく完全な事実を答えた。だがその事実は、眠りからさめたばかりの頭脳にたいしても、おどろきをもたらすのに十分な要素をもっていた。


「えっ、たったそれだけ?」


 といったのは、発言者の睡眠時間に対する誠実さが欠落していたわけではなく、彼女なりのまじめな思考の結果であった。シュティがなかばの様相で眠りについたとき、方舟はまだ名称不明の白色矮星系からの脱出をはたしていなかった。恒星重力圏からの脱出に必要な時間を考えると、十三時間では、となりの星系まで移動するのがやっとのはずなのだ。ということは、広大な宇宙に裏返しで配置された膨大な枚数のカードの中から、一回でごくわずかしかない大当たりを、偶然にも引き当てたということなのか。すくなくとも数ヶ月単位での漂流を覚悟していたのだが…。


 彼女はその点を親友に問いただしてみた。


「そうだよ、これはかなりツイてるね」


 軽い口調でそう応じたものの、アイリィの心情もそれほど単純な状態に整理されてはいない。最初の超光速航行オーヴア・ドライブを終えた直後、壮年期のおうしよく矮星を眼前にとらえたときは、幸運の女神の存在を信じる気になりかけていた。しかし、あまりに都合の良すぎる惑星を都合の良すぎるタイミングで発見するにいたって、不安と不信のささやきが、心の中でかすかに聞こえはじめていたのである。


 だが、他に良い手段も無い以上、いまはあたえられた機会チヤンスを遺漏なくいかすことに力を注ぐべきであるように思われた。


「舟は衛星軌道に乗せてあるし、探査キットはもう惑星表面グラウンド・レベルに投下してあるから、情報を分析して着陸して問題ないか教えておくれよ。まあ、私が見た限り大丈夫だと思うんだけど、シュティは専門だろ」


 年下のシュティが年長の親友に頼られるのは、反対方向のそれにくらべてきわめて少なかったので、このような場面がおとずれると、シュティは喜び、かつ張りきる。もっとも今回は、自分が通常時の二倍ほどの時間を睡眠に投入しているあいだに親友が要領よく下準備を済ませてしまっていたので、どちらかというと気恥ずかしさと申し訳なさがほどよくブレンドされた思いのほうが強かった。


「了解。でも、もし問題なかったら、もう着陸するの?」


 脱出ポッドはその性質上、惑星への降下能力は持っているが、いちど地表に降り立ってしまえば、ふたたび宙空の客人となることはかなわない。というよりそのような贅沢な能力を有する宇宙艦艇は、惑星探査任務に充てられる多目的航宙巡航艦のほか、旗艦級戦艦、揚陸艇、不時着した艦艇等を回収するための引揚げ船、宙星両用の大気圏内戦闘機などごく少数なのだ。やりなおしが利かない以上、着陸すべきかどうかは慎重に定めなければならない。


「少し早すぎる気もするけど、また他の惑星を探す旅に出るわけにもいかないだろうからね。それでいいんじゃないか」


 人類が危険を冒して失敗を繰り返しながらも宇宙進出に挑戦した時代を経て、いまは恒星間航行にたいして特別な危険を感じる人間はまれである。ただ、それは通常の恒星間航行が、十分な性能の艦艇を用い、航宙局の管制のもと、整備された航路を航行しているからである。そのすべての条件を欠くなか、あらたに未知の宙域をもとめて船を動かすのは、あまりにリスクが大きいのだ。必要があればそれもやむをえないが、目の前に極上の不時着目標が存在する以上、あえて危険な挑戦をすることもない。

 場合によっては近い将来現世にとどまるか冥界の門をくぐるかの二者択一にもなりかねない選択であったが、判断力にすぐれる濃茶髪の操舵手は、この重大な局面にあっても決断は迅速であった。



 信頼する親友の決断をうけて、黒赤髪の生物科学少佐はこたえた。


「じゃ、分析してみるね。それなりに時間がかかると思うから、寝といてよ」


 それは、いままでの労苦と功績を独り占めしてきた友人に対する、ささやかな仕返しだった。

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