ひととおりの笑声をあげおえると、ふたたび二人は現実を直視する必要にせまられた。


「私達、これからどうなるのかな…」


 シュティのそのことばは、むろん恋人との甘い将来設計をキャンパスに描き始めるための合図などではなく、単純にことばどおりの意味をもっていた。漆黒の空に浮かび上がる未知の星座は、宇宙船の操舵手パイロツトを夢見る少年少女にとっては憧れの光景であるが、いまは冷酷な輝きをもって、漂流者の心の中にひそむ不安の種子をしゆんどうさせていた。

 だが、心情のすべてを絶望の地平の下へ沈めこむには、彼女にとっての太陽は、まだあまりにも明るい光を放っていた。その太陽に生命の炎があるかぎり、シュティの心の中にある希望は陽光をあびて輝き、きたるべきときにそなえて、未来への翼をあたためておくことができるのだ。


「とりあえずこの星系を脱出しないとね。それで、可住惑星を探す。見つかるかはわからないけどね」


 シュティのとなりではこぶねの針路をつかさど太陽神アポロンはそう答えた。もっとも彼女も、事態の全てをかんする天の視点は残念ながら持ち合わせておらず、確たる正解を導き出すことはできていない。この恒星系に可住惑星が存在する可能性が零に近い以上、この場所にとどまっていても何ら益がないのは間違いないが、そのあとの構想といえば、せいぜい可住惑星がある可能性の高いおうしよく矮星系かとうしよく矮星系を探し出して渡り歩く、というぐらいである。


「まあ、死ぬときは一緒だよ」


 ということばは、冗談の味付けを存分に加えて使用するのが普通であるが、いまこのときは薄いコーティングをほどこしたのみで、八割から九割ぐらいの割合で本気の成分が含まれていた。どうもアイリィを過大に信奉しているらしい黒赤髪の親友が、アイリィの返答に不安のおもちで応えたのでそう付け加えたのだが、実際のところポッド内の非常食糧は無限ではなく、それが尽きる前に次の展開を見つけることができなければ、枕を並べて餓死するしかない。


 アイリィのことばに、シュティはわずかだがその表情のなかに笑みをうかべた。アイリィにとっては、親友が恐慌パニツクにおちいったり情緒をみだしたりしていないことがありがたい。シュティ自身は高く評価していないらしいが、彼女の精神的空間の容量は本人が思っているよりずっと大きい、と彼女の友人はみている。それでいて感情豊かに表情をめまぐるしく変化させるので、内面を顔に出すのが得意ではないアイリィにはそれがうらやましく感じられるぐらいだ。かるいしつの意味もこめて、黒赤髪の親友をからかってその表情の変化を楽しむのはいつものことだった。


 とはいえ、いまはそのような余計な遊びに力を注いでいる余裕はない。母艦から切り離された慣性と恒星系の重力に身をゆだねている漂流船の針路をともかくも定めなければならないのだが、その決定権を持たされているらしいアイリィは、目隠しをされた状態で、どの方向に的があるのかも知らされずにダーツを投げさせられる思いである。


「せめて少しだけでもふねの航跡がわかってれば、よかったのに…」

「艦橋でも、航跡に関する情報は手に入らなかったからね」


 アイリィは嘘をついた。


「そっか…」


 シュティは今度は落胆した表情を見せた。もしそれがわかるならば、その足跡シュプールを逆にたどっていけばまちがいなくもといた場所に近づいていくはずで、それはすなわち助かる可能性が高くなっていくということのはずだった。

 たしかに基本的にはそうだろう、とはアイリィも思う。しかしその論理式が成立するためには、不可欠ないくつかの前提条件が存在する。生存への道を模索する彼女にとっては残念なことに、その前提条件のすべてに、不安なしとすることができないのだ。だからといって、自分の判断に完全な自信をもつこともできない。


 だが、いつまでもこの宙域にとどまっているわけにもいかない。彼女は最終的な裁定を運命の女神にゆだねて、決断せざるをえなかった。



 アイリィが脱出艇の航路システムに慎重にさだめた航路を入力していると、黒赤髪の親友が、何か手伝うことはないかとたずねてきた。


「寝といてよ」


 とくに軽視やべつの響きがあったわけではなく、むしろ短いながらも優しい旋律をまとった返答だったが、親友がまた表情を変化させて、不平と不満の二拍子をもって無言の抗議をしたので、アイリィは説明をつけくわえた。


「ほら、私が寝たくなったときに、シュティも眠たかったら困るからさ。先に寝ておいてくれたほうが助かるんだよ」


 シュティは不満顔のまま表情を変化させなかったが、特に効果的な反論を思いつくわけでもなく、サブ・ナビゲーター席のシートを水平に倒すと、そのままブランケットにくるまってしまった。それはもはやというべきであって、その態度を見た彼女の親友は笑い、将来さきの見えないこの状況でも笑うことのできる親友の存在の貴重さをあらためて感じた。


 アイリィはずるい、と細長いトンネルに身を隠したその親友は思う。きめられた針路を守る役割も重要なのは分かっているが、古代よりみちしるべの役割をはたしてきた星々のあかりさえ迷える子犬を見放すような境遇で進むべき方角をさだめ、そのとおりに舟をすすめはじめるほうが、心理的にも、作業量としても、負担が大きいのはあきらかだった。有能な親友はその労苦を独り占めして、シュティに楽をさせようとする。そういったことはふたりが会った日の数とおなじぐらい繰り返されてきたことで、無理に手を出しても逆に迷惑をかけてしまうことを自覚しているシュティは、いつも年上の親友に甘えてしまう。そしてこのときも、ふたりが築いてきた歴史の圧倒的多数例を再現することになるのだった。


「いつもありがと」


 というつぶやきは空気の振動としてはあまりに小さなものだったので、そのことばを向けられた人間の耳がとらえることはなかった。もっと多量のたいせつな感情は、物理的な音波を介さずとも伝わっているのだ。



 三つの生命を預けられた方舟は、操舵手のさだめた航路を従順に守って、名称不明の恒星を双曲線を描いて近づき、離れていく。これは恒星スウィング・バイと呼ばれる航法であって、重力を利用することでエネルギーを温存しつつ進行方向を変更することができる。通常は加減速が可能な惑星スウィング・バイをもちいるのだが、そもそも航宙船の性能が格段に向上した現代においては、双方ともたいした意味を持たない。恒星に接近することでソーラー・エネルギーを効率よく利用可能になるのが恒星スウィング・バイの長所であり、今回もそれが狙いである。となりの恒星系までの距離が不明である以上、航行用のものと、水と酸素を生産するためのエネルギーを可能な限り蓄えておきたいのだ。航宙知識としては基礎の部類に属することではあるが、専門外であるはずのそれを着実に実行するあたりが、操舵手の冷静さと能力の高さを示していた。


 アイリィは冷静だった。冷静でなければならなかった。彼女がひとたび精神の制御コントロールに失敗すれば、親友の生命は名前も知らない宇宙で四散してしまうことになるのだ。彼女は親友を守りたかった。それは単なる個人的な思いだけではなく、責任であり義務であった。彼女の思うとがに正面から向き合い続けるために、彼女はそう思いたかったのである。


 方舟は名も無き恒星に見送られ、幾何学を信奉する者から見れば美しいであろう曲線の航跡をえがいて、やがて星系から離れていく。まもなくその恒星の膨大なエネルギーによって身をき尽くされるであろう母親がたどってきた道とは反対の方向へ。

 はたしてそれが正解なのかは、その針路をさだめた本人にもわからない。確実にいえることは、どのような困難が行く手をはばんだとしても、彼女の持てる全知と全能をあげて、かわるもののない親友を守り抜くという決意が、決して揺るがないものであるということであった。


 いっぽう、あたたかな毛布にくるまって夢の世界へ旅立ちつつあるその黒赤髪の親友は、友人の優しさに対する自分の無力さに、切ない痛みを覚えていた。一方的に甘えることを良しとしない感情と、自分に何が出来るのかわからない非力さが無限の因果律を構成して、彼女の心の中をとなってまわりだしていた。むろん親友が取り立てる意思などまったくないことは承知していたが、それでも、いや、だからこそ、シュティはみるみる積み重なっていく借金をどう返済すればいいのか悩みつづけるのだった。




 シュティはあとになって思ったものである。このときアイリィが彼女に対する心の負債をうちにとどめておくことができずにさらけだしていたら、自分は未知の宇宙を漂流する現実的危機と親友の心情の決壊による心理的危機の双方に適切に対処しえただろうか、と。それは考えるだけでも背筋の凍る話であって、彼女がこのときの全ての真実を知ってふりかえることができたとき、尊敬し信愛する親友の精神的強靱さに、どの惑星の深い海でも深すぎることができないほどの感謝を、あらためて捧げることになるのである。

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