第3話
水泳部の部員と一悶着あり俺が旧校舎に戻ると、囲碁部の部室前にはなぜかかなりの人だかりが出来ていた。
もちろんその中心にいたのは冴木先輩とあの新入生だった。
人垣を縫って進むと先輩に声をかける。
「すみません、先輩。お待たせしました」
「ん、ありがとう。では
「早めにお願いしますよ。俺だって暇じゃないんですから」
「うむ」
新入生——――大四宮君はふてぶてしく腕を組みながら偉そうに言っていたが、冴木先輩は怒った様子もなく頷いた。
「橘、隣の教室は空いていたよな?」
「あ、あぁ。どの部も使ってないぞ」
「そうか。なら遠慮なく使わせてもらおう」
「え、なにお前隣で着替えんの?」
「ここで着替えるわけにはいかんだろう」
「はぁ……まぁいいけどよ」
先輩は俺から自分のスポーツバックを受け取ると教室を出た。
そして、振り向きつつ俺に手招きをしながら言った。
「じゃぁ白君、悪いが見張りを頼むよ。橘あたりが覗きに来ないよう」
「え、あはい。わかりました」
「おいぃっ!?流石に人がいるとこじゃ覗かねぇよ!」
そんな声を背中に受けつつ、俺も教室を出た。
「先輩、勝てそうですか?」
衣擦れの音がする扉越しに俺は声をかけた。
俺の声に音が一時止む。
「相手との実力差があって一概に勝てるとは断言しがたいな。話した限りでは恐らく勝てないことはないと思うが」
「そうですか…やっぱり終盤だけじゃわからないですよね」
「そうだな。というか、君は囲碁が分かるのかい?」
「えぇまぁ」
「そうだったのか。なら今度手合わせ願いたいものだな」
「機会がありましたら」
ガラガラと音を鳴らして扉が開く。
先ほどまでの水着姿もよく似合う…というといかがわしく聞こえるが、制服姿もよく似合っていた。
「待たせているし行こうか、白君」
「あ、はい」
一瞬惚けてしまったがすぐに気を引き締めた。
先輩と大四宮君との対局は両者互角の盤面で進んでいった。
となるとコミの差で白番の先輩がいいことになる。
(そろそろ黒が仕掛けてくる頃合いだな)
知らない相手との手合いでは、序盤はまず手の内を探るものだ。
そして攻撃、あるいは挑発するならそろそろだと思う。
「囲碁部じゃないのに囲碁部よりはやりますね冴木さん」
「それなりに勉強しているからね。あと一応私も囲碁部には所属しているよ。水泳部優先だがね」
「でも先輩の実力は大体わかったんでそろそろいきますかね」
大四宮君は言葉通り仕掛けてきた。
先輩から見て右上でつながりそうだった白の石をバッサリと切るいい手だ。
その一手に先輩も眉を顰める。
両方の石を生かすことはできないこともないが、代わりに左の地を大きく取られることになる。
先輩もそれに気が付いているはずだ。
(ここは大石取られること覚悟で別の場所で地を稼ぐしかないな…)
残念ながら先輩は一手遅かったのだ。
後々これが響かないといいが…。
その後、少しずつ差は詰めるも、先輩が不利な盤面が続いた。
大四宮君もなかなか決定的な差がつけられず苛立ちを覚えているようだ。
「……なぁ一年、冴木、厳しくないか?」
「そうですね。中盤のキリが響いてるんでしょう」
「頼む、勝ってくれよぉ冴木ぃ」
橘さんも半ば祈る様に見ている。
その時、冴木さんの打った一手で大四宮君の手が止まった。
「今の冴木の一手いい手だな!こっから反撃か!」
小声で橘さんが多少興奮した声で言ってくる。
周りで見ているほかの部員も少し顔色がよくなっている。
「…いや、今の一手、この段階じゃ筋に見えますけど先まで見ると悪手ですね」
「は?いや、お前何言ってんだよ。打ってんの冴木だぞ。あいつはそう失着なんかしないんだぞ」
「冴木先輩がいい碁を打つのは見てればわかりますよ。でも今の一手は残念ながらよくない」
事実、数手進んでから打った本人も気が付いたようだ。
失着に動揺したのか、額に汗がにじんでいる。
ヨセまで行った以上ここから大きな利は望めない。
せいぜい二・三目程度の差を埋める程度だ。
「……二目半差で私の負けか」
「まぁこの俺相手によくやりましたよ。二目半も差はありますけどね」
「……すまん、橘」
「いや、冴木は悪くねぇよ…俺らこそごめんな」
教室に重い空気が流れる。
囲碁部員が暗いのはもちろん、先輩を見に来ていたらしいほかの生徒も先輩が負けたのを理解すると暗くなっていた。
「まぁいくら部活動に力を入れているとはいえ、学校の部活動レベルじゃこんなもんですかね。プロもOBにはいるようですけど、その頃とは格が違うようなので入部はやはりやめさせてもらいますね」
上から目線でそう言った大四宮君は席を立った。
が、しかし後ろで見ていたらしい生徒に両肩を抑えられ、再び席につかされた。
「さっきから聞いてれば自分勝手で傲慢で腹立つ!いい加減にしなさいよね!」
「誰だい?キミ」
(あ、有紗!?なんでここに?)
大四宮君に向かって怒鳴っているのは先輩でもなく他人でもない、有紗だった。
彼女は顔を赤く染め怒っている。
怒る気持ちはわからないこともないがここで爆発させちゃいかんだろう。
「何に怒ってるのか俺にはよくわからないね。弱いのは彼らの責任じゃないか」
「たった二目半差でよくもあんな大口が叩けるわねって言ってんの!大口叩くのは大差で相手を中押し勝ちしてから言いなさいよ!」
有紗の言うことは最もであるがこのタイミングではみんなポカンとしてしまって同意なんて求められない。
「そんなに言うなら俺と打ってみればいいさ。そこまで俺に大口叩くからにはそれなりの実力なんだろうね?」
「大口叩いてんのはそっちでしょ!私が勝ったらきっちり謝罪してもらうからね!」
有紗は先輩をどかし対面に座る。
ようやく周りがざわざわとし始める。
「き、君!気持ちは有り難いが私が負けたのは事実なのだから君が憤る理由はないじゃないか」
「先輩のことはよく知りませんが、私がコイツの発言が気に入らないだけです」
「えぇ……」
元真面目な委員長だけあってこういうことは許せないらしい。
それを聞いて先輩も仕方なさそうに下がる。
俺は始まったのを見て教室を出た。
あのくらいの腕なら有紗じゃ物足りないだろうな。
廊下を歩いていると追いかけてくる足音が聞こえた。
「白君、どこに行くんだ?」
「そろそろ帰ります。先輩、お疲れ様でした。いい碁でしたよ」
「いや、いい碁ではなかったよ。私のポカで崩れてしまったのだからね。それよりあの子の対局は見ていかないのかい?」
「えぇ、有紗にはあの程度の棋力相手じゃ物足りないでしょうからね」
「え?」
「それじゃ、失礼します」
俺は先輩に一礼してから歩き出した。
先輩は疑問符を上げたようだったが、「あ、あぁまた」とだけ言って教室に戻っていった。
——————翌日——————
棋院での手合いを終え、俺はコーヒーショップでぐったりしていた。
一目半差で勝ったものの、内容としてはもっとうまく打てたように思える。
(ケイマよりもカカリの方が手としては良かったし、ノゾキでも盤面は良くなったか…)
手合い後は記憶の中で棋譜を並べ替え検討するのが日課になっている。
何をどうすればもっと効率よく盤面を進められたのかを確認するのは棋士にとって重要なことだ。
有紗にもそういっているのだが中々やってくれないんだけどな。
「白君か、奇遇だね」
「あれ、冴木先輩?なんでここに」
ポンと肩に手を置かれ振り向くと、私服姿の冴木先輩がいた。
青いチェクのYシャツに七分丈のスリークオータパンツというのは、スラッと背の高くクールな印象を受ける先輩にはとても似合っていた。
「どうしたんですか?ここ学校から割と遠いですけど」
「私にだって友達くらいいるさ。偶々立ち寄った店に顔見知りがいたから声をかけただけだよ。迷惑だったかい?」
「いえ、そんなことないですよ」
正直、この人と話しているのは割と好きだ。
言いたいことをはっきり言えるし何故かは分からないけど話していて気分がいい。
何より美人だしスタイルが抜群に良い。やはり男子としては少しはそういうことに意識がいってしまう。
「君は…一人かい?」
「えぇちょっとこっちに用がありましてね」
「ふぅん。ならよかったら君も一緒に遊びに行く?」
「いやいや、いきなり見知らぬ下級生が加わったら戸惑うでしょう」
流石に友達付き合いに乱入する気は俺にはない。
それにいるのは皆年上だろうし、俺も見知らぬ人と話すのは苦手だ。
まぁ特にこれからやることもないのだから遊びに行くのはやぶさかじゃないのだが。
「なのでお誘いは有り難いですけど遠慮しておきます」
「あの子らは年下好きだから遠慮はいらないのだけれど、君が乗らないのなら仕方ないな。また今度誘うとするよ。君には多少貸しもあるしね」
「別に気にしなくていいんですけどね」
先輩は手を振ると友達のところへ戻っていった。
少し目をやると、戻った先で三人の友達から質問を受けていた。なんかこっちに手を振られたから一応会釈はしておく。というかなんで嬉しそうなんだろうな。
若干先輩の交友関係が心配になりつつ、コーヒーを飲み終わった俺は店を出た。
目的もなくたむろする。
先輩のように見知った顔は見当たらない。
それに特にやることもない。
さりとてすぐ家に帰る気も起きない。
とりあえず目に入ったCDショップに入る。
近くにある視聴コーナーに行きヘッドホンをつける。
最新の音楽なんてよく知らないが、ま、気分転換にはなるだろう。
トラックNo.をコロコロ変えながら流し聞きしていると、ふとプレイヤーの中のCDに反射して背後が映る。
(あれ…え、なんで?)
何故か背後に映ったのは冴木先輩とその友人三人だった。
どうやら俺の後をついて来ている様で、物陰に隠れてこっちを見ている。
ついて来てる理由は……まあ先輩と会話していたからだろうな。どういう奴か知りたいんじゃないだろうか。
う~ん、どうしよう。ちょっとからかってみたくなってきた。
「あ、本屋入ったよ!行こ!」
「「おー!」」
「…いや、もうやめないか?」
「何言ってんの!涼香になびかない数少ない男子よ!?しかも年下!」
「これは動向を探るしかない!」
「えぇ…」
コーヒーショップで白と話したせいで連れの三人が興味を持ってしまった。
そこで急きょ予定を変更してなぜか白を尾行することになっていた。
涼香自身は乗り気ででは無いものの、三人の勢いに圧倒され結局ついて来ている。
「いや、彼にもプライベートはあるんだから引き返した方が…」
「涼香はぁ?彼にぃ?興味ないのぉ?」
「ちょ、身体をいじくるな!恥ずかしいだろう!」
まだ文句を言う涼香に連れの一人———
その間に他二人は白の入っていった本屋へと向かう。見事なコンビネーションである。
「ほぉらぁ二人行っちゃったよ~?追いかけなくていいのぉ?」
「和泉がひっついてるから追えないんだろうが!」
「じゃあもういい加減諦めて私たちの尾行に付き合いなさぁい」
「うぅぅ…わかった、わかったから離れろ!」
「よぉしっ!じゃあ行こう!」
「はぁ…すまない、白君…」
がっくりと肩を落とし、涼香も店に入った。
「立ち読み止めた!私と和泉で彼見てるから涼香と
「了解」
「はぁ…」
連れ———―
涼香も渋々指示通り
乗り気ではないのだが、でも多少白の趣味思考に興味があり彼の読んでいた本を確認する。
「ね、ねぇ涼香、彼読んでた本ってこれだよね?」
「う、うん。確かにこれだったと思う」
本のタイトルは
『年上女性の口説き方』
だった。
涼香は自分の顔が紅潮するのが分かった。
「興味ないんじゃなかったの?」
「そんな素振り、見た記憶はないんだが」
「あ、そう」
「……」
「…行こうか」
「あ、あぁ」
涼香だけでなく海月の方も顔が赤くなっている。
しかし夏帆と和泉を待たせている為、そう長い時間かけてはいられない。
熱が引かないまま他二人に合流した。
まだそう遠くない位置にいたので、電話やメールをせずとも見つけられた。
合流しても二人はこちらを見ず、彼から視線を外さない。
仕方ないのでこちらから話しかけた。
「…見てきたよ」
「どうだった?」
「タイトルは年上女性の口説き方だった」
「ぶふぅっ!何それ!?涼香に興味ないんじゃなかったの!?」
「さぁ…」
「「「「……」」」」
四人の間に沈黙が続く。
そして気づいた時には白の姿は消えていた。
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