第36話 「宝の山」 妖怪「無意味」登場
1
心の闇にとらわれて 出口の見えない人がいる
天狗の力の少年が 来たりてこれを焼き払う
てんぐ探偵只今参上 お前の心の悪を斬る
シンイチの隣のクラス、五年一組は
宇和島先生は国語が専門で、学生の頃は小説家を目指していた。今でも少しずつ書きためてはいるが、発表するほどでもないと趣味の領域に留めている。蔵書は部屋に、山ほどある。山ほどだ。アパートを圧迫するほどのその本の山に、ある日妻が切れた。
「あなた。もう我慢出来ません。この本の山をどうにかしてください」と。
本の山というよりも、ひと部屋分も本がある「蔵書部屋」は、もはや本の四角い塊と言っていい。
その蔵書部屋は、六畳ひと間に本棚が壁四面を天井まで埋め、更に真ん中に八つの本棚がある。本棚と本の間に本を詰め、床に本のタワーが何本もそびえたち、奥の本棚にたどり着くには、本の丘を越えなければならない。アパートの一階という地の利を生かし、極限まで本が詰めこまれてあるのだ。二階ならとっくに床が抜ける重量だろう。むしろ、本の重力でアパートが傾いている錯覚に陥る。
これは、宇和島が生涯をかけて読んで来た本たちだ。彼の一生の冒険は、この本の中で行われたのだ。「どうにかしてください」と言われても、ハイそうですかと気軽に捨てられるものではない。
「どうにか……しなきゃいけないのかねえ」
宇和島は渋い顔で生涯の成果たちを眺めた。まだ読んでないない本だって一杯あるはずだ。あの塔のあそこと、あの丘のあそこと……。考える宇和島に、妻は言った。
「これをもう一回ずつ読むとしても、一生かかっても出来ないでしょう?」
「む。……確かに、それはその通りだが……」
「じゃあどうにかしてくださいませんか。私たちには、スペースが必要なの」
「?」
「……二人目を、妊娠したんです」
「ほんとか!」
宇和島は飛び上がって喜んだ。
「だから私たちにとっては、これはゴミの山なんです」
「……ゴミは、ちょっと言いすぎだろう」
だが妻の、この部屋を子供部屋にしたいというのには賛成だ。しかしそれは、この生涯の「冒険の記録」との別れを意味する。
自分の一生を、もう一度くり返すことは出来ない。それは、分ってはいるのだけれど。
宇和島担任の一組は、彼の人柄も手伝ってか物静かなクラスだ。内村先生担当の二組が、内村先生の人柄のように賑やかなのと、対照的だ。
その一組の生徒、
廊下で外を眺めている尾道に、宇和島は聞いた。
「尾道どうした? 最近なにかあったのか?」
「……別に」
「別に、ってその感じが、そもそも何か変だぞ」
「……そうかな」
「やっぱり変だよ。なにかあったのか?」
「別に。……最近さ、僕、思うんだ」
「何を?」
「人生は、無意味なんじゃないかって」
宇和島は眉をひそめた。
「? ……どういうことだ?」
「人生に意味はあるの? ないよね? ただ生まれて、食って、糞して、消える。それが人生。それに何の意味があるの? 人生は、無意味だよね?」
「……」
小学生の哲学的な問いに、宇和島は即答出来ず黙り込んでしまった。それを考えるのに真剣であればあるほど、迂闊な答えを言うことは出来ない。内村先生なら「サッカー最高!」とサッカーを語って笑うのだろうけど、宇和島は深く迷ってしまった。
鋭い読者諸君ならもうピンと来ているだろう。再び窓の外を眺めた尾道少年の肩には、すでに妖怪「心の闇」が取り憑いてる。その名も、妖怪「無意味」という。
シンイチは、三組のタケシに取り憑いた心の闇「アンドゥ」を早期発見出来なかったことを悔やんで、時折校内をパトロールすることにしている。だから、尾道の妖怪「無意味」も発見は早かった。廊下で外を見る尾道を、すぐさま発見できたからである。
シンイチは尾道を屋上に連れてゆき、鏡を見せ、尾道の肩の妖怪「無意味」を示した。
鏡に写った「無意味」は、ぬぼーっとしてとらえどころのない形と色をしていた。青いような緑がかったようなぼんやりした色で、虚ろでどこも見ていない目をしている。
「こいつが、尾道に取り憑いた『無意味』だ!」
「ふうん。……それ、何の意味があるの?」
「?」
「妖怪とか、心とかに、別に意味なんてないよね。……無意味だよね」
尾道はまた遠くを見て呟いた。
「……
シンイチはこれまでの経験から、「心の闇」には大きく分けて三つのタイプがあると考えている。
発見が早くて助かった。「無意味」はまだ十センチ程度で初期段階だ。このまま放置すれば、尾道は部屋に引きこもり、「人生は無意味だ」と出てこずに発見が遅れただろう。自殺してしまってから気づいたかも知れない。
「人生は無意味かって? ようし、オモシロイ遊びが世の中には沢山あることを、オレが教えてやるぜ!」
2
「まずは学校帰りに、アイスの買い食いだ!」
シンイチは家へ帰るには遠回りになる駄菓子屋「せつ」まで尾道を連れてゆき、アイスを二本買って、二人で歩きながら食べた。
「どうだ! やっちゃいけないことをするとゾクゾクするだろ!」
「……別に」
「なんでだよ! 最高じゃんコレ!」
「意味ないよ。アイスは冷たくて甘い。それだけだ」
「……じゃ、冒険しようぜ!」
二人は自転車に乗り、隣町まで走って行った。
「どうだ! 知らない町に自転車で走るんだ! 最高だろ!」
「……どこが?」
「風を切って走る気持ちよさ! もう帰れないかも知れないドキドキ感! 全然知らない町を探検するワクワク! 全然知らない所にも町があって、全然知らない人が生活してるんだぜ? その不思議! たまんないじゃん!」
「それに、何の意味があるの?」
「さらに凄いのがあるんだ! 木の棒を倒して、別れ道を選ぶんだ! どこへ行くか全然分んないぜ!」
「……無意味だね」
「……ちきしょう! 負けねえぞ!」
シンイチは自分の知る限りの、とっておきの「楽しい意味」を持つ遊びに尾道を引き入れた。放課後サッカーのチームにも入れたし、深町のにいちゃんにも会わせて1オン1をやったし、雨の日じゃないけどタケシの所へ行って一緒に将棋もしたし、ススムと釣りにも連れていった。真知子先生のピアノで大声で歌ったし、公次の家でゲームもするし、大吉の家でマンガも読んだ。春馬とアイドル談義に花も咲かせ、芹沢にSFのオモシロ話を解説してもらう。
「どうだ! 最高だろ!」
「……どこが楽しいのか、分らない」
「……んんん?」
「意味なんてない。ただの時間浪費。人生と同じだ。……無意味さ」
手詰まりだ。シンイチは自分の知り得る全ての「楽しいこと」を尾道に見せた。
あとは遠野妖怪めぐりか。しかし妖怪は自分にしか見えないから意味がないし……。
「これ、読んで」
次の日、ミヨちゃんが一冊の小説を尾道に渡した。
「何? 小説? ……こんなのに意味あんの?」
と、尾道は昨日と同じくテンションが低い。
困り果てたシンイチはミヨちゃんに相談した。ネムカケは「人形浄瑠璃じゃろ!」と一択だったが、小学生に文楽は敷居が高すぎるとシンイチは反論し、ネムカケは「むむむ」と不満がった。ミヨちゃんなら別のアイデアがあるかもと思い相談したのだ。彼女は、「家から持ってくるものがある」と言った。
それは、「脱獄」と題された、分厚い文庫本だった。
「アントニオ・ベルチロ作。……誰これ?」
「誰も知らないイタリアの作家。作者はどうでもいいの。問題は内容」
「こんなの読んだって、無意味だろ」
「…人生が無意味かどうかは、これを読んでから言って」
ミヨの強い語気に押され、尾道は小説を受け取った。シンイチは横から尋ねた。
「面白いの?」
「私が読んだ中で、最高傑作」
「まじで? じゃ貸してよ!」
「前貸したら、シンイチくん二行目で寝たって言ったじゃない!」
「え、そうだっけ」
「字ばっかりは寝るって、マンガなら読めるって。だからこんな面白い小説知らないのよ! 勿体ないにも程があるわよ!」
「でも全然聞いたことないけど」
「知らないだけなのよ! 出版社の最初の翻訳が悪かったらしいの」
「これは、それじゃない奴?」
と小説を見て、シンイチはあっと言った。
宇和島悟訳、と書いてあったからだ。
「宇和島先生じゃん!」
「そう。この本、宇和島先生にもらったの。最初の翻訳が納得いかないからって、先生タダでこの訳を引き受けたんだって!」
「へえ。じゃ面白いの?」
「だからシンイチくん二行目で寝たって!」
「あ、そっか。字ばっかは、どうもダメなんだ」
「とにかく尾道くん。これを読んでから、人生に意味があるかどうか言って」
自分の担任の先生がそんなことをしてるとは、尾道はとても意外だった。普段物静かで大人しい先生だ。その先生のイメージから、退屈でやわらかい小説だろうと尾道は勝手に想像した。しかしそれは、まるで逆だったのだ。
それは興奮と刺激に満ちた、ぎらぎらした海洋冒険小説だった。無実の罪で投獄された男、ヴェレニウスが脱獄をはかり、海賊に拾われ、政府軍と闘うゲリラに身を投じる話だった。脱獄された看守長ボロニアは命を賭け、片腕片足片目を失っても、ヴェレニウスを追ってくる。海賊、時の政府、教会の十字軍、地中海を巻き込んだ大冒険。
尾道は夢中になってページをめくった。家に帰ってからも、晩ご飯中も本を離さなかった。布団に入っても続きが気になり、布団の中でページをめくり続けた。ヴェレニウスは十字軍から辛くも逃げ去り、海賊団には仲間を売ったと誤解され、言葉の通じない島に流され、その島で原住民をまとめあげ英雄となった。ヴェレニウスの願いはたったひとつ、自分が無罪だと証明することだ。極悪な犯罪者だと押された烙印を覆すことだ。
「気づいたら、空が白んでいた」という体験を、尾道は生まれてはじめてした。自分と地球が切り離されていた。全く眠くなかった。心を抉られる悲しみと、血湧き肉踊る興奮と、人間の尊厳への思いと、その大冒険のあとの疲れしかなかった。
尾道が休んでるのを一組まで偵察して来たシンイチは、ミヨちゃんに「ヤバい! 引きこもりがはじまったかも!」と相談した。
「逆よ」とミヨはニヤリとした。
「え?」
「あの本読んだら、まる一日寝ちゃうの」
「は?」
「それぐらい、くたくたになっちゃうの。次の日起きた時が勝負」
「勝負?」
「今は尾道くん爆睡してるのよ。明日を見てて」
3
次の日の朝。シンイチとミヨは、一組に尾道の様子を見に行った。
「どう?」とドヤ顔でミヨは聞いた。
「最ッッッッッッッッッッッッ高だったよ!」と尾道は息を吐き出し、ミヨに本を返した。
「でしょ!」
「あのさ、樹海の民のとこあんじゃん!」
「うん」
「あれ、ボロニアより先回り出来るんじゃないの?」
「無理よ。火の時刻が迫ってたでしょ」
「あ、そっか! じゃあ無理だ! じゃアレは? ボロニアは何故失明したの?」
「硫酸のところ?」
「そう!」
「あれ作戦だったのよ。ヴェレニウスは油断したでしょ」
「そっか!」
シンイチには与えられなかった「最高」を、とにかく尾道は味わったようだ。だが彼のテンションは一時的なもので、またいずれ「無意味」に傾くはずだ。何故なら妖怪「無意味」はまだ彼の肩にいたからである。シンイチは蚊屋の外にいる寂しさもあったが、それゆえ冷静に観察できた。
「この本、宇和島先生に図書館で会った時にもらったのよ」
「へえ」
「図書館の本全部読んじゃって暇で、棚の前で悩んでたらね、たまたま『本好き?』って話しかけてくれた先生が、とっておきのを見せたげるって」
「へえ」
「放課後、宇和島先生の所に『脱獄』の話しに行こうよ!」
「よし、分った!」
一限目のチャイムが鳴り、ミヨとシンイチは二組へ戻った。宇和島先生がやってきた。それまでのような、ぼーっとした静かな先生にはもう見えなかった。ヴェレニウスのような、野性的で、浅黒い肌の、自分の信念の為に命を賭けて断崖から飛び降りる、勇壮な男に見えていた。
放課後、職員室でミヨと尾道は、宇和島先生と「脱獄」の話で盛り上がった。シンイチは妖怪「無意味」の様子を脇から観察している。そのかたわら、どうやらすごく面白いらしいその本を読もうとしたが、三行目で挫折した。
ひと通り話が落ち着くまでには、日暮れまでかかった。読了直後の熱狂が冷め、夜が昼間の熱を冷やしはじめると、尾道の心にまた「無意味」が生じはじめた。徐々にだが、それは大きくなりはじめてゆく。
「先生! 他に面白い小説、ないの?」とシンイチは割って入って尋ねた。
「? あるよ。家にあるから、明日二、三冊見繕ってこよう」
それはミヨも読みたがったが、優先的に尾道が先に読むことになった。休み時間、一組では、ずっと尾道が本を読んでいた。ちなみに我らが二組では、心臓の悪い芹沢くんもよく本を読んでいる。しかし最近はサッカーのキーパー役が板についてきたので、本を読む姿はあまり見られなくなった。シンイチはこっそり尾道の後姿を観察にいった。本を読んでいる間、彼の妖怪「無意味」は活動を止めているようだ。
「でも、一進一退って感じで、ドントハレってとこまでいかないんだよなあ」
とシンイチはミヨに相談した。
「うーん。うまく行くと思ったんだけど……」とミヨも悩んだ。
丁度そこへ、尾道が通りかかった。本を読み終わり、職員室の宇和島先生に返しにいくところだという。二人はついてゆくことにした。
「アレ? もう読んじゃったの? 小学生にしては難しいかと思ったんだけど」
「わりと、面白かったよ」
「わりと、だと? 慣れてきやがったな!」
「ははは。次のは?」
「次の、か」
宇和島先生は少し考えた。
「よし、図書室に行こう」
「図書室?」
シンイチは図書室が苦手だ。なんか静かで、みんなが黙って、行儀よく座って本を読んでて。黙ってるのも嫌いだし、みんなが同じ格好なのもシンイチは嫌だ。紙の古臭い匂いも好きじゃない。「本を読む前に手を洗え」という格式もなんか嫌いだ。マンガなら寝転んで読めるのに、本はガチガチに硬い。でもミヨちゃんも尾道も夢中になるのだから、きっと面白いのだろう。
とんび野四小の図書室は、廊下の奥、誰も行かない北東の一角にある。だから余計静かでシンイチはちっとも近づかない。
宇和島先生は鍵の束を持っていて、「閉架」と札のついた部屋のドアをあけた。
「ね、ヘイカって何?」とシンイチはミヨに耳打ちした。
「大抵ね、秘密文書とか、貴重本の入ってるところ。普段は立ち入り禁止なの」
「やべえ。ドキドキする」
「十七番の棚だ。覚えといて」
宇和島先生は閉架の奥へ行き、大人の倍はある高い天井まで一杯になった、ひとつの書架をひらいて見せた。
「まだ整理し切れてないから公開はしてないんだけどさ。君たちはここから自由に読んでいいよ。鍵はいつでも貸そう」
それは、宇和島の部屋一塊の蔵書を、全部小学校に寄付したものだった。
「俺の生涯をかけた冒険の記録だ。好きなものを、持っていきたまえ」
尾道は目を輝かせた。シンイチは「無理!」と叫んだ。ミヨも驚いた。
「私が読んでない本が、まだこんなにあるなんて!」
「どうだい」と宇和島は尾道に聞いた。
「これだけの人たちが、人生には、人間には意味があるって言ったんだ。これはその、無限のバリエーションだ。ヨーロッパの、アメリカの、日本の、古今東西の『意味』たちだ。これでも人生は無意味かい? 俺の生涯は、無意味かい?」
尾道は端から端まで見渡し、どれから読もうかワクワクしはじめた。
「無意味かどうか、読んでみないと分からないよ。でも……」
「でも?」
「これは、宝の山だ」
その瞬間、尾道の妖怪「無意味」は、彼の心から離れた。
「不動金縛り!」
シンイチは天狗の面を被ると天狗の力が増幅する、てんぐ探偵である。
「火よ在れ! 小鴉!」
火の剣、小鴉の炎が本に燃え移らないかシンイチはおっかなびっくりだったが、妖怪たちと同様、天狗の炎は物理世界には干渉しないようであった。
「一刀両断! ドントハレ!」
心の闇「無意味」は朱い炎に包まれ、清めの塩となって図書室の床に四散した。
グラウンドでは、シンイチ達が声をあげてサッカーをしている。芹沢くんも今日は体調がいいので、キーパーとして出ている。
その声をBGM代わりに、尾道は数え切れないほどの本を読み、今日もカーテンのなびく窓際で本を読んでいた。
その十五年後、尾道頼斗という名の小説家がデビューすることを、シンイチも、天狗すらもまだ知らない。
てんぐ探偵只今参上
次は何処の暗闇か
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