第32話 「『答え』に恋した女」 妖怪「正解」登場
1
心の闇にとらわれて 出口の見えない人がいる
天狗の力の少年が 来たりてこれを焼き払う
てんぐ探偵只今参上 お前の心の悪を斬る
彼女はかくれんぼが大好きだった。
見つかりそうにないところに隠れ、暗闇で息をひそめ、ドキドキしながら待った。近くに足音や気配が来たときは、もうどうしようもなく興奮した。もうすぐ見つかるという期待と、ドキドキが終わってしまうことの残念の、二つの気持ちを同時に味わった。隠れる側の気持ちがよく分っているから、見つける側になっても得意だった。
彼女、
「女の子が算数なんて変」とよく言われたが、そんなの関係ない。答えは必ずそこに隠れている。彼女はそれを見つけ出す役なだけだ。それが無秩序でなく、必然という秩序を持っていることもまた彼女を魅了した。「答え」は息をひそめて、暗がりの中で、私に見つけられるのをじっと待っている。まるで運命の人を待つように。
楓が長じて数学者の道へ進んだのは、だから彼女の中ではごく自然なことだ。すべては「
彼女が籍を置く
数学者は奇行の人だ。ずっとベンチに座っていたり、ずっとブラブラ河原や廊下を歩いていたりする。それは、ただ座ったり散歩しているのではなく、頭の中で大冒険をしているのである。「見いつけた」と言うまで、何日も、何週間も、ときには何年も、彼女はその迷宮を探し続ける。三百年かかって答えを見つけた「フェルマーの最終定理」も、数学の世界では当たり前だ。
「答え」は迷宮の奥で、何日も、何年も、何百年も、息をひそめてドキドキしながら待っている。だから彼女は、今日も運命の人を見つけにゆく。
楓は、河原の散歩(という名の答えを探す旅)から帰ってきたタイミングで、事務方の女子三人にバッタリと出くわした。三人のお茶に誘われ、ついて行くことになった。
大学の敷地内は飽き飽きだから、南門を出て一ブロック行った「レオンハルト」というドイツ風ケーキ屋に行くことになった。男所帯の数学研究室ではあるが、楓が紅一点ではなく、
「やっぱり花沢さんって変わってるわねえ」と、リーダー格の
「よく言われます」と楓は返した。こんなことは慣れっこだ。それよりも今は、パナマ産のママカタという変わった名の、キャラメル風という変わったコーヒー豆の香りに集中したいのだが。
「だって皆ケーキセットを注文したのよ? しかも『本日のケーキ』の中からそれぞれ違うのを頼んで。それってさ、ちょっとずつ皆で分けあってケーキを楽しむって暗黙の了解よ? いちいち言わなくても普通分るわよねえ?」
テーブルの上には、本日のケーキ、アッフェルプディングトルテ、ブルーベリーとクランベリーのタルト、洋栗のモンブランが並んでいる。四つめのケーキ、サワーチェリーのクーヘンも試したかったのか、と楓は合点した。
「あ、そういうことですか。……私、パナマ産の豆、というコンセプトに惹かれてて」
「もう。周り見ないところが流石学者さんってかんじよねえ」
「まあ、だから馬場さんみたいな気配り屋さんがいないと、我々は成り立たないんですよう」
「そうよねえ」とあからさまなお世辞にも馬場さんは気をよくした。
こういうあしらいは慣れっこだ。コーヒーの甘ったるい香りが、この会話を待つために少し冷めたことのほうが彼女を不機嫌にした。
「そういえば、統計学の
「後藤さんって、後藤准教授?」と、小西ちゃんが食いついた。
「そうよ。花沢さんの彼氏」
「えっ。花沢さん、後藤さんとつきあってるんですか? 数学専門の人って、そういうの、興味ない人かと思ってました」
「まあ、人並みに人間ですし、女ですし」
「へえっ。数学者同士ってどんな話するんですか? やっぱ『僕の愛は無限大』とか、『君と僕の愛はどっちが大なり小なり』とか、言うんですか?」
「言わないわよ」と楓は笑う。
「でも、『僕と君はまるで実数軸と複素軸だ。性質が真逆で永遠に直交する』って彼のぼやきに、『 e^(iπ) = -1 』って返して、いい雰囲気になったことは、あるか」
「?????」
「オイラーの公式」と呼ばれる、世界で最も美しい等式である。矛盾した性質を持つ実数と虚数の空間、複素平面では、出自の異なる指数関数と三角関数がイコールで結ばれるという、たいへん革命的な等式だ。実数と虚数が男女のへだたりだと彼は嘆き、それはオイラーの公式によってちゃんとイコールで結ばれる、と彼女はロマンチックに返したのである。この喫茶店の名「レオンハルト」は、この式を証明した中世の大数学者、オイラーのファーストネームである。楓はそれにひっかけて話したつもりだったが、その場の人にはちんぷんかんぷんであった。大学の初等数学で習う話なんだけどなあ。
皆のテンションを察した事務方の
「週何回ぐらい会うの?」
「いや、とくに決めてないですよ」
「決めてないってどういうこと?」
「お互い研究もあるし、会わないときは数ヶ月も会わないし、思いついたその日に会うときもあるし」
「やっぱ変わってるわ」と、全てのケーキを一口ずつ一周した馬場さんが横入りしてきた。
なんだか尋問大会だ。来なけりゃ良かったと楓は思い始めていた。
「普通さ、仕事持ちでもさ、週二回とか週末は会うとか決めてるものよね?」
「そうよね」と森下さんは追従する。
「その為にデートの計画を立てたり、服を買いに行ったりするものよ。花沢さんは結婚とか決めてる?」
「いえ、とくに」
「ほらね。普通それくらいならもう考えるでしょ」
「普通って、そうなんですかね」
「花沢さんは普通じゃないからしょうがないけどね」
「普通って、……社会規範みたいなことですか?」
楓の彼氏、後藤
「ちがうわよ。『世の中の正解』ってことよ」
「正解?」
「みんなの正解よ」
「統計的結果ってことですか?」
「そういう科学的なことじゃなくってさ、『世間が思う正解』よ」
「そんなの、空気みたいにあやふやで、分らないものじゃないですか」
「だから私たちはいつも集まって話すんじゃない。正解は何かってさ」
楓はカルチャーショックを受けた。彼女は、「答え」は、公理と定義と定理が行き届いた、清潔な空間のどこかにあると信じていた。そうでない所にも、「答え」はあるのだという。人間や社会などという雑然として整理されていない、不定形なところにもあるのだと。私が数学の迷宮奥深くに潜っているとき、外ではそのような「正解の話し合い」が行われていたのか。彼女は想像したこともない光景にくらくらした。
「……それって、必ずあるものですか?」と、彼女はおそるおそる聞いてみた。
「そりゃそうよ。なければおばあさんに聞くとか。小西ちゃんだってさ、雑誌見て今正解の服は何かとか、研究してるのよ。だからモテるんじゃない」
「彼氏いないですけどね」と小西ちゃんは自虐し、公開処刑の対象は彼女にうつった。
すっかり冷めて最初の香気を失ったコーヒーをすすりながら、彼女はこの「空気の中にあるという正解」について考えていた。ケーキセットを少しずつシェアするという正解を、彼女は見逃していたことについてもだ。彼女はママカタの香りを吸い、小さなため息をついた。
その瘴気に釣られて、妖怪「正解」が寄ってきた。顔の真ん中に赤い星のある、クイズ番組の正解みたいな顔をしていた。
2
「来週の金曜、『セクシーダイナマイツ』がライブやるね」と、後藤は壁のポスターを見て言った。「セクシーダイナマイツ」とは、その名に似合わぬジャズバンドの名だ。後藤はちょいちょいこの店でライブをする彼らのことを気に入っている。
楓と後藤がいつもいくジャズ喫茶「エリック」でのことだった。店の隅に小さなステージがあり、週末はジャズバンドたちがよく演奏しにくる。後藤はジャズ好きだから、大抵ここで論文の原稿をくわえ煙草で書いている。集中をさまたげられない程度になら、彼は話しかけられることを歓迎する。
楓は、「あの彼女の服、どう思う?」と、二つ先の席に座る大学生カップルの女の子を指して言った。大人びたシルエットだが白いレースの、少女っぽいスカートを履いて、ふんわりとした雰囲気がよく似合っている。
「かわいいね」と後藤は素直に感想を述べた。
「そうよね」と楓はなるべく感情を込めずに返した。自分は、動きやすさとか、目立たないこととかで、いつも黒の、装飾のないものしか着ない。
先日の小西ちゃんの話を思い出していた。
「可愛い服を着るのは、彼氏に愛される為じゃないの。こんな可愛い子を連れている、と彼氏に胸を張らせる為、ってのが正解」
後藤はそんなこと気にしない、同じく数学者という変人だが、楓は自分が「正解を引いていない」ことのほうを気に病み、深くため息をついた。
こうして、妖怪「正解」は彼女の肩に取り憑いた。
「おはようございます」
楓が朝九時半に研究室に現われて、バイトの小西ちゃんは驚いた。
「何かあったんですか」と聞いたぐらいだ。
「研究室」とは数学者にとっては研究をするところではない。彼らの冒険の場は頭の中だからだ。九時半五時半のルールは、社会では正解かも知れないが数学者にとってはどうでもいいことだ。現に教授も准教授も昼過ぎまで来ない。
普段は体をしめつけないルーズな服を着がちな楓が、きっちりしたスーツを着てきたのにも小西ちゃんは驚いた。彼女は突然遅れ気味の書類をことごとく提出し、講義も時間通り済ませ、来月の論文についての下調べを精力的にこなした。五時半になると「失礼します」と帰宅する。それはまるで、優秀な会社員のようだった。
女子たちのランチやお茶にも皆勤し、ことごとくケーキセットを頼んで一口ずつ分け合った。正解。
馬場さんが機嫌よく「ここは私がおごるわ」と言っても、一応財布を出してみせ、「いいわよう」と機嫌よく言わせた。正解。
後藤とはまめに連絡を取り、必ず週に一度フェミニンな服でおしゃれしていった。正解。
世間のベストセラーを読み、世間の流行映画を観、世間の意見を自分の意見のように話した。またまた正解。
「急に素敵な人になった」と周囲は噂した。彼女は、ただ「正解を引いた」だけだ。世間で言われる正解を遵守しているに過ぎない。思考など使っていない。空気を読み、自分を律すればいいだけだ。
ところが対照的に、本業である数学の研究は、急に一歩も進まなくなってしまった。何故なのか彼女には分らなかった。「世間の正解」を引いているのに、「数学の答え」は、彼女を見限ってしまったかのようだ。考えても考えても、その答えは分らなかった。ますます彼女は「世間の正解」を演じながら、同時に数学の答え探しに没頭した。それは自分を分裂させるような行為で、過労で一時倒れる騒ぎになった。
3
数学の研究は一向に進まないまま、楓はいつもより長く河原を散歩していた。意識の奥で潜った数学の迷宮は、以前に比べてどこかよそよそしく、彼女を拒否しているような気さえした。「世間に媚を売っているだろう」と後ろ指を差された気がした。ちがう。私は「正解」がほしいの。
気がつくと楓は、川沿いに下流へ下流へと歩いたまま、見知らぬところまで来ていた。雑草の生えた小さなグラウンドで、少年たちがサッカーをしていて、大きくミスキックしたサッカーボールが彼女めがけて飛んできた。
「危ない! よけて!」と蹴った子供は叫んだ。
楓は迫り来るサッカーボールを冷静に見ると、ただ一歩下がった。向かってくるボールに下がっても無駄だ、と誰もが思った瞬間、左回転のかかったボールが彼女をかすめてよけた。
「スゲエ! 何で見切れたの?」
集まった子供たちに彼女は解説した。
「左回転がかかってるのが見えたからね。二次曲線に挙動が従うと予測したわけ。接線と垂直方向によければ……」
「???」
「えっと、算数好き?」
「いいや……」というニュアンスになった子供たちに、彼女は一応解説した。
「高校で習う二次曲線でこの謎が解けるようになるわよ。元々戦争のとき、戦艦から発射された大砲が、相手に打つ前に当たるかどうかの計算をしたのよ」
「打つ前に分るの?」
「打つ前に当たるかどうかなんて、分るわけないじゃん!」と子供たちは素直に言う。
「それが分るのよ」
「なんで?」
「それが数学。月までロケットを飛ばすのだって、打ち上げる前に計算するの。同じ式で解けるわよ。今学校でやってる算数は、その基礎」
「算数スゲエ!」
サッカー少年たちは目を輝かせた。そこに、遅れて走ってきた少年がいた。
「あなた、妖怪に取り憑かれてますよ」
我らがてんぐ探偵、シンイチであった。
「妖怪『正解』ねえ」
鏡で自分の肩に取り憑く、サーモンピンクに赤い星の「正解」を確認した楓は、不思議な気持ちだ。
「じゃ私は、『正解』の行動をしなければ気が済まない病気ってこと?」
「病気っていうか、心の症状というか」
「でもなあ。数学者って正解を探すのが仕事だからなあ」
シンイチはひらめいて、彼女に言った。
「じゃさ、正解がひとつとは限らないことをするのはどう?」
「どういうこと?」
「お姉さんサッカー好き?」
「?」
「サッカーしてみると、それが体験できるんじゃない?」
「はい?」
こうして、少年サッカー集団に、妙齢の女非常勤講師が一人混じることになった。サッカーなんていつ以来だろう。とりあえず軽く走りながら体を慣らす。パスが飛んできた。どうしていいか分らない。迷っているうちに、青いメガネのススムにボールを奪われた。またパスが来た。どうすればいいか分らない。
「不動金縛り!」と、シンイチが周囲に不動金縛りをかけ、時を止めた。
時を止めたグラウンドの中で、楓とシンイチだけが動くことができる。シンイチが駆け寄ってきた。
「こういうときは足元じゃなくて、周りを見るんだ! ホラ、よく見て。そこにさっきボールを奪った、青いメガネマンのススムがいるだろ。あいつはすばしこくて奪うのが上手い。でもさ、ススムがこっちに来るってことは、そのスペースがあくだろ。それを予測して、左を見て」
楓の左側には、体の大きな大吉が走りこんでいる。
「大吉にパスを出せば、あいつはそこに走りこんで局面が有利になる」
「なるほど、それが正解か」
「ちがうよ」
「えっ」
「右後ろを見て」
右後方には、公次も走りこんでいる。
「公次はドリブルが得意だ。あいつにパスを出せば、ススムぐらいかわせる。その隙にお姉さんは空いたスペースに先に走って、公次からパスを貰うんだ」
「なるほど」
「でもパスを出さず、自分で走りこんでもいい」
「え? じゃどれが正解なのよ?」
「そんなの分んないよ」
「分らない?」
「分らない。同じ状況は二度とない。それがサッカーさ」
「じゃ、あることを選択して間違ってたらどうするの?」
「間違ったら間違ったときさ。またチャレンジすればいいんだ!」
「そうじゃなくて、法則とか、反省とか」
「そんなのはない。どれが正解かなんてない。成功すれば正解、間違ったらまたチャレンジ。それもサッカー」
「じゃ私、この場合どうすればいいのよ!」
「どれがしたい?」
「どうすべき?」
「ちがう。どれがしたい?」
「……」
自分の今までの人生の考え方とはまるで違うフィールドで、楓はとまどった。しかしこれに慣れることが正解なのではないかと思った。
「……二番目で」
「グッドチョイス!」
シンイチは不動金縛りを解いた。楓は公次にバックパスを出し、公次は得意のドリブルでススムを突破した。が、そのあと山崎に奪われてしまった。
再びシンイチは、不動金縛りで時を止めた。
「失敗だったじゃない」と彼女は文句を言った。
「ススムはかわしたさ。グッジョブ」
「結果的に失敗だったわよ?」
「一回成功すれば成功。これはそういうゲームだよ」
全てを理詰めで埋めてきた彼女にとって、これらの法則性が分らなかった。法則や構造さえ分れば、パズルだって数学の問題だって解ける。ひとつひとつピラミッドの石を積み、徐々に答えにたどり着く。そうやって彼女は生きてきた。
「みんなが正解を探して、みんなが成功したり失敗したりする。失敗が九割九分。でもそれは全部グッドチョイスなんだ」
「意味が分からない!」
「まあ、やりながら慣れようよ!」
その後、何回か彼女にもボールが回ってきた。その度彼女は色々な選択肢を取り、そのどれもが失敗したように思えた。それでもシンイチは「グッドチョイス!」としか言わなかった。
日が暮れてきた。今日はこれでおひらきだ。
「お姉さん、今日は良かったよ! サッカーの才能あるよ!」
とシンイチは上機嫌だったが、楓には意味不明だった。
「どこがよ。ほとんど正解行動じゃなくて、失敗だったじゃない」
「だってサッカーには、テストみたいな正解はないもの」
「?」
「サッカーは、正解をつくり出すゲームなのさ!」
「……どういうこと?」
「どこを走ってもいい。何をしてもいい。パスしようが自分で行こうが、自分が囮になろうが主役を張ろうが、何をしてもいい。それらのひとつひとつがシュートに繋がれば、正解をつくり出したってこと!」
「そんなの、結果論じゃない」
「あはは、そうかもね。でもそれがクリエイティブプレイってことだと思うんだ」
「……随分と難しい言葉知ってるのね」
「担任の内村先生の受け売りだけどね!」
汗を流したシンイチは笑った。随分とへんてこな少年だと楓は思った。
「どっちかというとね、数学ってのは、かくれんぼに近いのよ」
と、楓は小学生にも分るようなたとえ話をしてみた。
「そこにある正解に、どうやってたどり着くかっていう……」
シンイチはいたずらっぽく笑った。
「かくれんぼの必勝法、知ってる?」
「必勝法? 見つかりにくい所を探して……」
「ちがうよ。見つからないように、こっそり隠れる場所を移動するんだ!」
「そ、そんなの、反則よ!」
「反則じゃないよ。オレ、その名人だったんだ!」
「はあ?……」
「答え」はそこにじっとして動かないから意味がある。だから運命の人なのだ。そう思っていた彼女は、彼の「必勝法」に衝撃を受けた。動き続けるですって?
「サッカーも同じさ。動きながらやるんだ。アドリブとも言うんだって」
シンイチの言葉で、楓は思い出した。
「今日、金曜日じゃない。ジャズのライブの日だった」
「ジャズ?」
「ジャズの演奏って……アドリブ、なんだってね」
4
金曜の夜のジャズ喫茶「エリック」は既に満席だった。先にバーボンをはじめていた後藤に楓は合流、シンイチはかくれみのを着て姿を隠した。
今夜の主役、セクシーダイナマイツは、ドラムス、ベース、サックスの三人編成。客の調子を見ながら、彼らはスローな演奏の波を漕ぎ出した。
「ジャズ蘊蓄をひとつ聞きたいんだけど」と楓は後藤に尋ねた。
「何?」
「これ、アドリブでやってるの?」
「そうだよ」
「三人が勝手にやって、演奏になるの?」
「ランダムにやるんじゃなくて、コード進行が決まってるから、なんとかなるんだ。時々こいつらは転調が気まぐれなんで、ハラハラするけどね」
ドラムスがリズムを変えてきた。聴衆の温度を上げにきたのだ。ベースはそれに合わせ、サックスは様子を見て音を止めた。ベースとドラムスの二人の掛け合いだ。勝負。リズムは段々早くなる。ベースがドラムスに花を持たせた。ドラムソロだ。嵐のようにリズムが上がり、全ての音の出るものを順番に叩き終えたその頂点に、サックスが入ってきた。聴衆は拍手だ。ベースはそれに合わせる。サックスがスローバラードへ転調した。ベースが乗った。ドラムスも合わせる。渾然一体となった三人と聴衆のグルーヴは、次の居場所を探してゆく。
「ああ。つくり出すって、こういうことか」
「どういうこと?」
「掛け合いなのねこれ。対話とかおしゃべりみたいに、これって三人が掛け合いをしてるのね」
「ほう。理解が早いじゃない」
後藤は機嫌よくバーボンをあおった。今夜の彼らのセッションは切れに切れていた。
「でも、失敗することもあるよね?」
「その時はその時だ。会話もそうだろう? それもジャズさ」
「それもサッカー」とシンイチも同じことを言っていた。彼らの掛け合いは何度も転調し、その度に音の色を変えた。聴衆の顔が全員見える小さなハコならではの、皆のノリの合ってゆく波。
楓は、子供の頃のかくれんぼを思い出していた。必ずそこに答えがあることの安心感が、彼女は好きだったのかもしれない。それは「誰かに用意された答え」だ。世間での「正解」も、かくれんぼと同じだ。誰かに用意されたものをただ見つけるだけ。まさか隠れる場所を変えるなんて、彼女には思いもよらなかった。目の前のジャズメンも、「動きながら答えをつくっている」ように見えた。
楓は想像の中で、一人でじっと隠れている。
ふと横を見ると、シンイチが、塀のうしろ、屋根の上、滑り台の裏と、鬼をちょいちょい観察しながらこっそり動いていた。気づかない鬼のうしろから、ヘン顔をする余裕すらあった。クリエイティブプレイ、と彼は言った。楓は笑った。
「なんか、そっちの方が面白そう」
そのとき、妖怪「正解」は楓の肩から外れた。
演奏が終わった。満場の拍手だ。
「不動金縛り!」
シンイチは天狗の面を被ると天狗の力が増幅する、てんぐ探偵である。
「一刀両断! ドントハレ!」
妖怪「正解」は真っ二つに斬られ、炎の中に消えた。
馬場さんたちの誘いを断り、目下の研究の考え事をしながら、楓はまた河原を下流まで歩き過ぎて、シンイチたちのサッカー集団と再会した。
「久しぶり! その後どう?」とシンイチは無邪気に尋ねた。
「数学者を一旦休んで、しばらく量子力学をやることにしたの」
「?」
「それがさ、元々の研究の突破に役立つかも知れないのよ。波動関数は収束するとは限らないからね! 存在は一意ではなく、確率関数が変動して……」
「?????」
「まあいいや。ちょっと変わったってこと。あ、算数の家庭教師、タダでやってあげてもいいわよ!」
「いいよ! サッカーのほうが楽しいよ!」
シンイチは、苦手な算数の話題を逸らすために質問をした。
「ねえ、あの人とは? 結婚するの?」
「えっ。……その『答え』はまだ分らない。……でも」
「でも?」
楓はひとつ思いついて笑った。
「動いてみる」
てんぐ探偵只今参上
次は何処の暗闇か
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