第6話 「あのとき、出来なかったこと」 妖怪「若いころ果たせなかった夢」登場

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     心の闇にとらわれて 出口の見えない人がいる

     天狗の力の少年が 来たりてこれを焼き払う

     てんぐ探偵只今参上 お前の心の悪を斬る



 大人になればなるほど、昔の夢から遠ざかる。

子供の頃の夢想をストレートに実現している大人なんていない。むしろ大人の度合いは、その夢から離れた距離で測ることが出来る。大人になる事は現実を知ることだ。無知という温室で膨らんだものが、荒野で生きられないことに気づくことだ。大人になるという事は、自分の出来ることを探し、現実と折り合う術をみつけることだ。そうして人は、昔の夢からずいぶん遠ざかる。

 あなたは昔、どんな夢を持っていただろうか。その夢は叶っただろうか。今いる地点と破れた温室とは、どれ位離れただろうか。その温室は、消えてなくなってしまう訳ではない。それは心のどこかにあり続け、時々過去からの亡霊のように語りかけてくるのだ。「自分は本当は、こうなりたかったのだ」と。



 最近シンイチのクラスの、鈴木すずき有加里あかりの様子がおかしい。とくに火曜と木曜がひどくなる。情緒不安定で挙動不審になり、何かにおびえているような感じだ。シンイチは男子と遊ぶのに必死だから、女子の変化にいちいち構っている暇はない。だから「女子界」の動向には疎い。大体、保健の授業で、男子に黙って集められてお菓子を貰ってるんだぜあいつら。

 だが彼女自身に、妖怪「心の闇」が取り憑いている訳でもなさそうだ。気になったシンイチは、クラスの中でも比較的話しやすいミヨちゃんに尋ねてみた。

「有加里は、その日ピアノ教室があるのよ」

「それでか。行きたくないんだろうね」

「可哀想なの。お嬢様の家だし、お母さんが厳しくて辞められないんだって」

 シンイチは自分に置きかえて嫌な気分になった。サッカー教室なら喜んで通いたいけど、算数教室とか絵の教室なんて最悪だ。自分なら初日にわざと遅刻して、「行くタイミングを失ったから、もう行きたくない!」とごねる作戦をとるだろう。

 シンイチは、有加里本人に尋ねてみた。

「ピアノ教室に行きたくないんだって?」

「なんで知ってるの?」

「ミヨちゃんから聞いてさ!」

「そう。……お母さんがどうしても行けって」

「別に命令なんて聞かなくてもいいじゃん。真知子先生にでもピアノのこと相談してみれば?」

「私にピアノの才能はないわ。そもそも楽しいと思わないし、やりたいとも思わないもの」

「じゃあなんで」

「お母さんが昔ピアニストになりたかったんだって。その夢を、私で叶えたいんだって」

「え? でもそれと鈴木は関係ないじゃん。おかしいよねそれ?」


 夕食のとき、有加里の話をシンイチは両親にしてみた。

「まあ、良くあることだ」

 父のハジメが解説した。シンイチは好物のハンバーグを食べながら聞いていた。

「親が昔の夢を子供に託すことは、まあ良くある」

「父さんは何になりたかったの?」

「ジャニーズ」

 母の和代かずよがごはんを吹き出しそうになって、「無理でしょ!」と言った。

「まず顔が! その出っ張ったお腹が! ダンスも歌も駄目だし、第一バク転できるの?」

 ハジメはムキになり和代に尋ねた。

「じゃあ母さんは何になりたかったんだよ」

「およめさん」

「嘘つけ」

「んー、花屋さんかな」

 和代は今スーパーでレジ打ちのパートをしている。併設されている園芸店の手伝いをすることもあるから、ある意味現実的に夢を叶えてはいる。

「しかし実際にピアニストになるのは、花屋を手伝うのとはわけが違うだろ。訓練も厳しいし、長いことかかるし。彼女のお母さんは、きっと若いころ果たせなかった夢に取り憑かれてるんだな」

 取り憑かれてる、という言葉を聞いて、シンイチは妖怪「心の闇」の可能性に気づいた。

「ネムカケ。怪しいね」

 ネムカケはハンバーグ玉ネギ抜きをもらいながらうなづいた。一人と一匹は、早速調査に乗り出すことにした。


 調査といっても、本物の探偵のようなことはしない。偽のプリントを持って、鈴木さんちのピンポンを押すだけだ。「プリントを届けにきました!」とシンイチが嘘を言い、出てきた有加里の母、希美子きみこの姿を見れば、妖怪「心の闇」に取り憑かれてれば一発だ。

 案の定、ドアを開けた彼女の肩に「心の闇」が取り憑いていた。全身金色で、ピカピカ光っていて、金平糖のようにトゲトゲしていて、刺さるとチクリと痛そうだ。それは本物の金で出来ているようでもあり、単なるメッキのようにも見えた。その棘が何本か彼女の肩にめりこんでいる。おそらく、心の底まで達しているのであろう。

「あなた、妖怪に取り憑かれてますよ」とシンイチは言った。

「はい? 何のこと?」

「それは……妖怪『若いころ果たせなかった夢』」

 シンイチは手鏡を出し、希美子に見せた。

「なにこれ!」

 希美子は驚き、自分の肩を払ったが現実の肩には何もなかった。しかし鏡の中には「若いころ果たせなかった夢」が目を輝かせて自分を見ている。

「自分の叶えられなかった夢を有加里ちゃんに託す心は、その妖怪のせいなんだ」

 まるで自分の心を読まれたようで、希美子はひるんだ。

「……有加里に頼まれて来たの?」

 シンイチは首を振った。

「本人が自らやりたいってんならいいけどさ、彼女だいぶ嫌がってるぜ? 火曜と木曜はじんましんが出るんだって」

「……」

 シンイチは一計を案じた。

「そうだ! 今からさ、自分でピアノ教室に通えばいいんだよ! 親子で通えばいいじゃん!」


    2


 しかしピアノのことについて、シンイチは知らなさ過ぎたのだ。十の指全てに細やかな神経を通すには大変な修練が必要で、それはある年齢を超えると限界があるのだそうだ。

 すばらしいピアニスト達は、バレリーナと同じように、幼少のころから果てしなく肉体の繊細なメンテナンスをし続けている。年を取ってからでは、ある程度以上にはならないものらしい。

 教室のピアノの前で両手を広げ、希美子はぽつりぽつりと鍵盤をつまびいた。

「私はね、『ラ・カンパネラ』を子供のころに聞いて、それを弾くピアニストになりたいと思ったのね」

 そう白状した希美子は、最初の音の黒鍵を弾いた。

「でもピアノを習わせて貰えなかった。家が貧乏だから、自分から言い出すのも子供ながらに気を使っちゃってね」

「リストの『ラ・カンパネラ』ですよね?」

 ピアノの先生は尋ね、希美子はうなづいた。

「それってどんな曲? 弾いてみてよ!」とシンイチが尋ねると、ピアノの先生は顔をしかめた。

「超絶技巧を要求される、とても繊細で難しい練習曲なの。これが弾けるから上手いでしょ? って自慢するのに、わざわざ演奏する人もいるくらい」

 先生は意を決して最初の黒鍵を弾き、「ラ・カンパネラ」を演奏した。

雨粒が落ちてくる音を表現したという序盤。それが鐘の音に聞こえるようだから「カンパネラ」の題がついた曲だ。シンイチは何故か涙が出てきた。聞いているだけで心の奥底の何かに触れる曲だった。

 希美子はハンカチを貸してくれて言った。

「私も君ぐらいの年のときに、初めてこの曲を聞いて同じように涙を流したの。その時に、この曲を皆に聞いてもらえるようになりたいと思ったの」

「分かる。分かるよ」

「そうでしょう」

「でもさ、それと有加里ちゃんに弾かせる、というのは違うと思う」

 皆に連れてこられた有加里は、話を黙って聞いていた。自分にはとても無理だという顔をしている。希美子はため息をついた。

「私は、子供の頃にピアノを習うチャンスがなかったことを後悔してるんだと思うの。もし習えてたら、とずっと思ってる。仮に才能がなかったとしても、そうと知れば諦めもつく。試せもしなかったことが、ひょっとしたら私の果たせなかった夢なのかも知れない」

「うーん」とシンイチは考えた。

 ネムカケは何か思いついたか、と膝の上からシンイチの顔をのぞきこむ。

「じゃさ、その子供の頃に戻ればいいんじゃないかな!」

「はい?」

「すんごい『ねじる力』なら、出来るかも! ちょっと待ってて!」


 シンイチは水鏡みずかがみの術を使い、遠野の大天狗に相談することにした。

 水鏡の術とは、円い容器に清水を張り、遠くを映し出す術である。水のきれいな遠野には天然の泉が「水鏡」になっている所が何箇所もあり、かつては京の様子まで見えたという。

「久しぶりじゃのう」

 水鏡にうつった遠野の大天狗は、相変わらず恐ろしい顔のまま笑った。慣れると、この怖い顔が笑っているかどうか分るのだ。

「久しぶり! 遠野のみんなは元気にやってる?」

 遠野の妖怪たちのことをシンイチは少し思い出していた。ホームシック、つまり「戻りたい心」が心の闇の原因かも知れない。そう考えたシンイチは、本題を切り出した。


「……つまり、時をねじる、ということか」

「そうそう! オレのねじる力じゃ無理だけど、大天狗ならできるんじゃないかって!」

「大胆なことを考える」

「できる?」

「過去をのぞきこみ、ありえたかも知れない未来を見ることは可能だ」

 天狗には、遠見とおみの力という神通力がある。「空間的に遠く」を見れば、自分のいない場所のことを知る力となり、これを千里眼という。「時間的に遠く」を見れば、過去通かこつう未来通みらいつうという異能となる。過去通とは人や物から過去を読み取る力(サイコメトリーと西洋で呼ばれる力。強い過去通は前世も読み取れる)で、未来通とは予知能力のことである。

 遠見の力が完全に備わると、世界が分岐点の集合に見えるのだそうだ。ある道で右と左に分かれ道があり、その道の先にも分かれ道があり、その先にも……と、道が無限に分かれているように見えるという。本当はどの時点のどこでだって、右にも左にも行ける。多くの人はそれを知らず、一本道を歩いているような錯覚を持っている。


「ねじる力」

 大天狗は分厚く朱い掌をひろげ、遠野の山奥からはるか離れた東京郊外とんび野町ピアノ教室の、ピンポイントの「時」をねじった。黒い渦が突如湧き出して、シンイチ、ネムカケ、希美子、有加里を包んだ。周囲の景色が急にぐにゃりと曲がり、竜巻の中心にでも放り込まれたようになった。周りに飛ぶ光景は、逆回しにどんどん過去へ。一行は、三十二年前へとタイムトラベルすることになった。

「ここがその分岐点だ」

 水鏡の中から大天狗が告げた。三人と一匹は、希美子の子供のころの家にいた。


    3


 その居間には、有加里が生まれる前まで現役だった家具調コタツが真ん中にあり、みかんがいくつか置いてあった。日本人形が上に乗った、チャンネル式のテレビを五人家族で見ていた。ドリフがCMに入り、誰がチャンネルを変えるかでもめた。希美子の父が巨人戦を見たがり、チャンネルを回す途中で太い女がピアノを弾いている番組があった。八歳当時の希美子は叫んだ。

「この曲!」

 ラ・カンパネラ。タイトルがずっと覚えられず、小さくて細やかな単音が雨だれのように打つ、当時の希美子がずっと探していた曲。しかし父は無造作にチャンネルを巨人戦に変えてしまった。

 大天狗は水鏡の中から言った。

「ここでお主がピアノを習いたいと言えば、習えたのだ」

 大人の希美子はとっさにテレビに走ってゆき、チャンネルを巨人戦からピアノ演奏に戻した。

「? 壊れたかな?」

 現代の四人は、どうやら過去の世界からは見えないらしい。

 「ラ・カンパネラ」を夢中で聞く子供の希美子は叫んだ。

「私、ピアノ習いたい!」

「?」と、家族はその唐突さにびっくりした。

「この曲を弾きたいの!」


 世界はここで分岐した。希美子がピアノを習えた世界と、習えなかった世界に。

子供の希美子はピアノ教室に熱心に通い、基礎から地道にピアノを続けた。何度もくじけそうになるたび、心の中でカンパネラを鳴らした。高校に進学後、ピアノコンクールの地方予選で優勝した。その後全国コンテストで四位に入賞、その実績で音大へ進んだ。希美子は今や将来を嘱望された若きピアニスト候補。ピアノ科での切磋琢磨は、彼女に良い影響を与えた。

 だが、ピークはそこまでだった。大学三年のときのコンテストの決勝で、考えられないミスを犯したのだ。最初の一音を彼女は外した。一番最初の黒鍵を間違えたのだ。希美子は慌ててオープニングを立て直しながら、曲を滑り出しはじめた。

 現代の希美子は呟いた。

「この曲……」

「うん。ラ・カンパネラだね」

 シンイチはあの美しいメロディーを覚えていた。思い入れのある曲を、ピアニストの希美子は勝負曲に持ってきたのだ。超絶技巧の曲だ。血のにじむ思いで練習してきたのだろう。だが肩に力が入りすぎ、思い入れがあるが故にミスを犯し、思い入れがあるが故にその後立て直せず、演奏の出来は散々だった。

 失意の彼女は二度と立ち直れなかった。ふさぎこみ、ピアノに触れない日々を送った。「三日さぼると指先の感触が変わる」と呼ばれる細やかな感覚は、彼女の指からどんどん抜け落ちていった。

 ピアノを彼女から取ったら何も残らなかった。彼女は孤独の生涯を送り、三十歳を迎えた日に自殺した。


「お主がピアノを習っていたら、このような人生が待っていたのだ」

 と大天狗は解説した。

「……おかしい」

 現代の希美子は異議を唱えた。

「どうして私は夫に出会わないの? ピアニストとして生きようとした私に、どうして夫は現われなかったの? 夫にも出会わず、有加里も生まれなかったって言うの?」

 有加里はびっくりした。

「えっ、じゃ私の存在は消えちゃうの?」

「そうじゃな」と知恵袋のネムカケは解説する。

「人の意志はAとBのどちらかを選ぶことができるが、その決定は、未来に影響を与える。蝶の羽ばたきが地球の裏側で津波になるかも知れんということで、バタフライ効果と呼ばれることもあるくらいじゃ。この場合、ピアノを習うという決定が、旦那との出会いに結びつかなかったのじゃな」

「ちなみに、旦那さんと出会ったのはいつ?」

 とシンイチは尋ねた。

「大学時代、合コンで」

「じゃあ音大に進んだ時点で、出会えなかったんじゃない?」とシンイチは推理する。

「あ、そうか。いや、でも違う」

「?」

「色々な大学が参加する合コンが流行ったのよ。音大の人もその中に混じってた筈」

 大天狗が時をねじり戻し、彼女の合コンの場面へ導いた。

「そうだ。たしかに出会っては、いる」

 合コンの席で、音大生の希美子と、のちに夫になる筈の満寿夫ますおが乾杯をしていた。

「それがどうして付き合うことにならなかったのかしら?」

 シンイチは尋ねた。

「そこで何があったの?」

「えーっと何だっけ。……そう、フェラーリ」

「フェラーリ?」

「私ね、高校のときに真っ赤な車に轢かれそうになったことがあって、ギリギリの所で助かったことがあるの。当時、サイズの大きなぶかぶかの靴を履いてて、つま先が余ってて、私の前を猛烈に通り過ぎた赤い車が、つま先の入っていない靴の余り部分だけを轢いてったことがあって」

「スゲエ。超ギリじゃん」

「その赤い車の話になって、それがフェラーリだって話になって。満寿夫は車が好きだから盛り上がって……」

「その、轢かれそうになったのはいつ?」

「高校のときに、当時の彼氏に振られて泣きながら走ってて、県道十六号を信号も見ずに渡ろうとして……」

 大天狗は時を戻した。「ではその分岐点に戻そう」

 二十五年前の十六号線を、一台のフェラーリが猛烈に通過した。そこに高校生の希美子はいなかった。

「じゃあその時の私は……」

「いた!」

 天狗七つ道具のひとつ、金色の遠眼鏡「千里眼」を覗きこみ、シンイチは高校生の彼女を見つけた。彼女はぶかぶかの靴で、音楽室でピアノを弾き続けていた。

「そうか。……私はピアノを弾いてて、フェラーリに出会わなかったのか」

 希美子は、隣で見ていた娘の有加里の頭を撫でた。

「ピアノを習うってことは、フェラーリにも会えず、あなたにも出会えないってことなのね」

 大天狗は一行を、俯瞰した時空へと時をねじった。ピアノを習った彼女。高校生の彼女。失敗した彼女。失意のまま死のうとする彼女。

「さびしい」と、ピアニストの彼女は呟いた。

「平凡な家庭が築きたかった。合コンで意気投合したり、子供が生まれたり、親子でどこかへピクニックに出かけるような、普通の幸せが欲しかった」

 希美子は驚く。

「それって……ごく普通の、今の私ってことじゃない」

「ピアノなんて習うんじゃなかった。私はピアノなんて習わずに、娘が欲しかった」

 と、ピアニストの希美子が涙を流す。

「なんでよ!」

 と、希美子はもう一人の希美子に詰め寄った。

「じゃ私の人生と交換しなさいよ! ダンナが帰ってこなくてイライラしたり、専業主婦の自分に不満だったり、PTAでの女同士のバトルとか、詰まらないことしてみなさいよ! 娘をピアノ教室に通わせて、蛇のように嫌われてみなさいよ!」

 ピアニストの希美子が電車に飛びこもうとするのを、希美子は体を張って止めた。そして肩をゆさぶって呆然とする希美子に言った。

「私はまだ、私が弾く『ラ・カンパネラ』を聞いてない!」

 彼女の肩の妖怪「若いころ果たせなかった夢」の金色が急に輝きを失い、曇った色になった。

「有加里! ピアノ教室辞めていいわよ! 私が一人でやるわ!」

「え? ……いいの?」

「私は今までの人生で二回鐘が鳴ったの。一回目はお父さんと出会ったとき、二回目はあなたが生まれたとき。どっちも、自分から鳴らしにいった訳じゃない。三回目は、自分で自分の鐘を鳴らす」

 妖怪「若いころ果たせなかった夢」は、この言葉で鉛色から錆色になり、ぽろぽろと崩れはじめた。

 希美子は、もう一人の自分に言った。

「いい? もう一人の私。必ず鈴木満寿夫を探し出しなさい。そして有加里を生むのよ。ひとつだけ教えてあげる。どうせあいつはフェラーリショップにいるから、そこに行きなさい。あいつはフェラーリ好きだから、その話を振ること! 有加里のアは、アラン・プロストのアから取るのよ!」

「……フェラーリって何?」と、ピアニストの希美子は聞いた。

 希美子は笑った。

「それが彼に最初に言う台詞だから!」

 こうして、希美子の肩の妖怪「若いころ果たせなかった夢」は、彼女の肩から外れた。


 ここからは、てんぐ探偵シンイチの出番だ。

「つらぬく力!」

 シンイチは、右手から「矢印」を出し妖怪を貫いた。錆びた金属の破片が、四方八方に飛び散った。

 シンイチは天狗の面を被ると天狗の力が増幅する、てんぐ探偵である。

「一刀両断! ドントハレ!」

 火の剣、小鴉が「若いころ果たせなかった夢」を真っ二つにし、炎の中へと消し去り、清めの塩と化した。


 大天狗は時をねじり戻し、元の時間軸へと皆を帰した。

「……あっちの世界の希美子さんは、満寿夫さんを見つけられるかな」

 シンイチは心配になった。

「見つけられるわよ。私、案外タフだもの」と希美子は笑った。



 今夜は夫の満寿夫の帰りが遅かった。希美子は有加里を先に寝かせ、遅い晩御飯を夫婦で食べていた。彼女はふと、夫に尋ねてみた。

「ねえ。あなたは子供の頃、何になりたかったの?」

「レーサー」

 それがあまりにも子供っぽくて、希美子は笑ってしまった。

「レーサー? 何それ」

「昔F1が流行ったじゃん。みんなはホンダのセナになりたがったけど、俺はフェラーリのプロスト派だったんだ。教授ってキャラが渋くてさ」

「あ。アラン・プロストのア」

「……何の話?」

「ううん。それより次の日曜、行くとこ決めてるの?」

「いいや。有加里はどっか行きたいって言ってた?」

「……わたし、ピクニックに行きたいわ」

「……どこへ?」

 希美子は微笑んで、夫に頼み事をした。

「わたしをサーキットに連れてって」

「はい?」


 大人になることは、夢から遠ざかることだ。しかし大人になることは、かつての夢と、どういう距離を取るか決めることでもある。満寿夫の「距離」を、希美子はサーキットで聞いてみたいと思った。

 そして、そこで有加里の夢を聞こうと決意した。



     てんぐ探偵只今参上

     次は何処の暗闇か






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