狂乱風邪日記

彼も一人暮らしの人間がちょっと風邪を引いたくらいで自分の句を引用されては浮かばれないと思うのだが、尾崎放哉に「咳をしても一人」という自由律俳句があるのは有名である。というかこればかり有名になって何だか可哀想であるけれど、使いやすい文句が流行るのは自明であるから仕方がない。私は「墓のうらに廻る」が一番好きだが引用しても誰も知らない。たいてい「やめといたら」と言われて終いである。


私はまず「咳をしても一人」の良さがよく分かっていなかった、ということを告白しておく。


先日久しぶりに風邪を引いた。日記を調べてみたら三年ぶりのことであった。


咳をしても一人。熱を出して一人。一人寝込むゆとり。一人暮らしの風邪はたいへんつらい。何も食べずに居る訳にもいかないから食料を調達せねばならない。下着が無くなったら洗わねばならない。意識を失ってもそのまま放置である。


目が覚めるとどうにも怠く、お腹が痛かった。前日ナマモノを食べたこと、銭湯でドライヤー代をケチって家まで走って帰ったこと、その途中でアイスを買ったことなどが思い出されたがすぐに消えた。熱が上がって朦朧としてきたからである。そのまま眠り続け、気が付くと午後であった。腹はじくじくと痛み、食欲は無かったが何も食べなければ衰弱する一方である。常備している粥を温めることにした。


粥は二日酔いで苦しんだ時に食べ切っていたのであった。


仕方ないのでスーパーまで自転車で走った。どん兵衛と果物とポカリを買って走っているとバランスを崩して植え込みに突っ込んだ。補助輪外したての頃以来15年ぶりの失態である。


良いか悪いかはさておき、体調が悪い時は必ず湯船に浸かることにしている。故に家に転がり込んだ私はすぐ、風呂に湯を張り始めた。寒気が襲ってきたので毛布を巻いた。立ち眩みのように目の前がパチパチ弾け始めたのでいよいよマズいことになった、栄養が足りない。と思ってケトルで湯を沸かす。そのままキッチンでうずくまっていた。


ティファールがパチンと音を立てたのを合図に身を起こした私は、粉末火薬を入れたどん兵衛を持ってなぜか浴室に入った。湯を注がなきゃ、と思ったに違いない。お湯違いである。


30秒ほどフリーズし、ギギギ、と40℃のお湯を注ぐ蛇口にどん兵衛を近づけはじめる右手を必死で制し、キッチンに戻った。そしてティファールから95℃のお湯を注いで5分待った。


何度残そうと思ったか、しかし残しては日清の製造ラインの人に申し訳ない。そしてこの関西風どん兵衛を食べるためにわざわざ輸入に来る関東の人にも申し訳ない。そう思って全部食べた。余計に具合が悪くなった気がする。


人にはそれぞれ愛飲している薬があるだろう。私の友人などは「ロキソニンさえあれば生きていける」と豪語していたが、いつの間にか「ロキソニンがなければ生きていけない」に変わっていて(中毒…)と思ったことがある。


私はパブロンに絶対の信頼を置いているので食後にパブロンを服用することにした。粉薬は何時になっても苦手だが、三度飲めば大抵の風邪は治せる。私は黄色い粉を一息に飲み干そうとした。


すると嚥下のチカラが弱っていた喉はそれを拒絶。私は大道芸のようにリビングに一杯に黄色い粉を噴き出して激しく咳き込んだ。そして何故だか涙が出た。


息も絶え絶えになって風呂に入ろうと服を脱ぐと余りの寒気に身震いがした。しかし浴室の中は温かな蒸気で満ち満ちていた。なんであれば湯が浴槽からあふれ出していた。どん兵衛を食べるため、優に20分は費やしたためである。


浴槽に身を沈めるとあれ程酷かった寒気と関節痛が一気に遠のき、体が楽になった。水の浮力だけが友達だと思えた。私はそのまま意識を失った。


『マラーの死』のような体勢で私は眠っていた。危うく同じ構図で死んでしまうところであった。風呂場で眠ったのは初めてのことだった。立ち上がると湯あたりで足元がふら付き、全裸のままもんどりうって倒れた。もう駄目かもしれん、と唱えた。


食事と風呂、投薬を済ませた私にはもう出来ることがない。寝るしかないと思ったが関節の痛み、怠さなどは増すばかりで寝ることも出来ない。心細く、こんな時に思い出すのが先の放哉の一句であった。


咳をしても一人。咳のコンコンという乾いた音が部屋に響いても、その後の空虚や無音の方が余程放哉の心を締め付けたにちがいない。そんな解説は後でインターネットで調べたものであって、その時の私は(つらい、苦しい、怠い)しか考えていなかったことも告白せねばならない。


ただそんな時、枕元の携帯電話が震え、メールの受信を知らせた。


母は言ってきた。「風邪ひいてない?」と。この時ばかりは私も、母親ってすごいと思った。更に(どうやら一人じゃないらしい、すまん放哉)とも思った。


空気中に漂ったパブロンが効いたのか、翌翌日にはだいぶ体調も戻っていた。余ったポカリを飲みながら、風邪ひいてる時ほど美味しくはないな、と思った。

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